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木村太

10月6日「主にあって喜びなさい」(ピリピ4:1-9)

  最近、ヘイトスピーチやあおり運転のように、自分の気に入らないことに威圧や排除といった行動が増えているように感じます。なぜそうなるのか様々な原因があると思いますが、心の余裕が無くなって来ているためではないでしょうか。このような中だから、平和と平安を掲げるキリスト教の役割は大きいのです。今日は、この世界の中で主に堅く立つクリスチャンの姿について聖書に聞きます。


Ⅰ.堅く立つ者はキリストに信頼・従順であり、一致の平和を生み出すことができる(4:1-3)

  パウロはピリピ教会の人々を「愛し慕う者、喜び、冠、愛する者」と呼んでいます(1節)。パウロにとって彼らは大切な存在であり、自分の喜びであり、栄冠を与えたいほどの信仰者です。だから、彼らに十字架を敵として歩んで欲しくなく、天の御国と神からの誉れを約束された者としてふさわしく歩むこと願っているのです。それで「主にあって堅く立つように」と命じます。「主にあって堅く立つ」とは、常に何事においてもキリストに信頼し、従い、すべてをキリストに委ねる生き方を言います。旧約聖書では詩篇にあるように岩・とりで・盾・万軍の主・羊飼い・御翼の陰といった「主がいるから大丈夫」という生き方です。そしてパウロはピリピ教会の実情に合わせて「主にあって堅く立つ」の実践を3つ命じます。

  一つ目は教会員同士の平和です。ユウオディア、シンティケという二人の女性についてここには説明がありませんが、文面から次のことがわかります(2-3節)。まず、公の手紙に書かれるほどですので、ピリピ教会に大きな影響を与える存在と思われます。また「この人たちは...福音のために私と一緒に戦ったのです」とあるように、パウロたち最初のクリスチャンとともに福音を伝え教会を生み出すために大変な苦労をしてきました。ところが、何らかの理由で一致できず仲たがいしているのです。

  この二人にパウロは「主にあって同じ思いとなるように」すなわち心を一致させるように命じました。ただし「主にあって」とあるように、二人の間にキリストを置き、二人がキリストの視点を持ち、さらにキリストが私たちを自己中心から引き離してくださると委ねる、これが必要です。違う言い方をするならば、自分の思いを満たすのではなく、神のみこころを実現することに力を注ぐ、となるでしょう。

  さらにパウロは「真の協力者」と呼んでいる第三者に彼女たちの仲裁を頼んでいます。「真の協力者」が誰であるのかは分かりませんが、彼もパウロの同労者、戦友であり、「いのちの書に名が記されている」と認められるほど成熟したクリスチャンです。教会に大きな影響を与える者同士で解決が難しければ、成熟した方に間に入ってもらい平和を目指すという知恵をパウロは用いました。

  学校や職場など私たちが生きている社会では物事のとらえ方や考え方の違いが当然出てきます。教会も同じですが、唯一違うのは主キリストが人々の間におられることです。もし、自分の思いを何が何でも押し通そうとするなら教会は混乱し、安らぎの場所ではなくなります。全員が「主にあって」を意識して考えと行いに反映させれば、人と人との間に平和が訪れ、一人一人に平安が訪れます。


Ⅱ.堅く立つ者は喜び、寛容、平安を保つことができる(4:4-7)

  実践の2つ目は自分自身に対するあり方です(4-5節)。「主にあって喜ぶ」とは「キリストがあらゆる恐れや不安を解放し、完全な平安と喜びを約束している。しかも、その平安と喜びはすでに始まっている。」このことを喜ぶのです。また「寛容(寛大、穏和)な心」とは物事に対して穏やかであり、報復したい心がないありさまを言います。この心は「主が何とかしてくださる」という主への信頼と平安から生まれます。ただし、寛容は人に表さないと意味がありません。だから、すべての人に知られるようにするのです。

  そして「主は近いのです。」とパウロは語ります。完全な平安と喜びをもたらすキリストの再臨は、神からすればもう目前に迫っていますから、再臨への期待がますます私たちを喜びと寛容に向かわせます。と同時に、神のさばきも迫っていますから、喜びや寛容を示すことでキリストを知らせるという働きに向かわせます。キリストが再び来られるのを待ち望むのは、喜びや寛容といったクリスチャンらしさを発揮するための源になります。

  さらにパウロは喜びと寛容となるための秘訣を語ります(6節)。クリスチャンであっても不安や恐れ、怒り、ときには仕返ししたい気持ちも起きます。心に平安や余裕が無ければささいなことにイライラしたり、攻撃的になったり、あるいはうれしさや楽しみに心が向きません。そんなときは喜びも寛容もゼロです。それゆえ、主に信頼して一つも心配せず、具体的に自分の願い事を祈りの中で神に訴えるのです。嘆願といってもよいでしょう。神に向かって自分の気持ちや必要をしっかりと訴えるのも神を信頼している証拠です。なぜなら、神はすべて知っているから何も願わなくても大丈夫というのは神への無関心であり自己中心の表れだからです。

  ここで大切なのは「あらゆる場合に感謝をともなった」にあります。キリストによって救われたことはもちろん、神が共にいてくださり支えてくださっていること、自分の祈りを聞いてくださっていることなど様々な感謝があります。この感謝も、神が私を大切にしているという神への尊敬、信頼の印です。たとえ辛いことや困難のまっただ中であっても「主は見放さず見捨てない」という感謝はあるのです。つまり「何も思い煩わない/感謝をもって祈る/神にはっきりと訴える」これらはすべて神を信頼していることの宣言なのです。

  この祈りに神は応えてくださいます(7節)。神は心(情緒的領域)と思い(思考的領域)すなわち精神全体を平安で守ります。「守る」は布を纏る行為を意味します。いわばギザギザの布の端を纏ってきれいにするごとく、混乱した心を平静に至らせるのです。「すべての理解を超えた神の平安」とあるように、この平安は論理的説明はつきません。皆さんも経験していると思いますが、まさに不思議としかいいようがありません。この神からの不思議な平安によってぐちゃぐちゃの心が落ち着き、喜びと寛容になれる余裕が生まれるのです。

  神はキリストを犠牲にするほどに私を愛している、これが神への信頼と従順に至らせます。そして信頼と従順の証しである感謝を伴った具体的な祈りが不思議な平安をもたらします。さらにこの平安が喜びと寛容を生みます。キリストにしっかりと結びついている者はこのような道が約束されています。


Ⅲ.堅く立つ者は神の栄光と誉れに至るふるまいをすることができる(4:8-9)

  さて先ほどの実践は自分自身に向けてでしたが、今度は他の人に対するふるまいです(8節)。「すべて真実なこと」から始まる6項目の説明はここでは省略しますが、これらは全部「何か徳とされることや称賛に値すること」につながっています。「何か徳とされること」は神の栄光に至ることであり、「称賛に値すること」は神の賛美に至ることを言います。決して自分の「得や称賛」ではありません。ですから、あらゆる状況において、あらゆる人に対して、神の存在を知らせ、神のすばらしさを感じてもらうような行いです。しかも「心を留める」は自分のやるべきリストに入れる、という意味ですから、「躊躇なく/見返りを求めず/失敗を恐れず」に実行するのです。非常に高いハードルです。それでパウロはこのように励ますのです(9節)。ピリピのクリスチャンはあるべき姿の教えをパウロ自身から聞いて学び、パウロのふるまいに見いだし受け取りました。パウロはそう認めています。つまり、「あなた方は学ぶべきこと知っておくべきことをすでに習得しているから、ちゃんとできますよ」と励ましているのです。

  さらに「これらを行いなさい。平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」という絶大な励ましを約束します。神の得や称賛につながる行いであっても、そして使徒パウロから「大丈夫だ」と太鼓判を押されても「私にできるのか/うまくいくのか/失敗したらどうしよう」のような不安はどうしてもあります。でもそんな心に神が働いて、理解を超えた神の平安が包むのです。神は結果を求めているのではなく、神のためのふるまいそのものを喜びます。だから結果がどうであれ平安にしてくださるのです。

ピリピのクリスチャンはパウロから直接あるべき姿を学びました。現代の私たちもパウロのことばをはじめとする聖書から学んでいます。だから、完全ではないにしても何をすべきかわかっているのです。あとは平安を確信してすべきことをする、これが主に堅く立った私たちの姿です。



  かつてパウロは猛烈にキリストに敵対していました。ところが復活のキリストに出会い、自分の罪を認め、キリストを信じ、熱望していた義が神から認められました。その後キリストを伝えるというそれまでとまったく逆の働きに進みました。クリスチャンからもユダヤ人からも攻撃されるのは明白なのにです。でも神のための働きに神の助けがあり、心身の痛みや苦しみがあったとしてもパウロは平安でいたのです。「そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」これはパウロの経験であり、モーセやダビデあるいは預言者といった主に従った者たちの経験なのです。キリストはこう約束しました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)」まさにこのことばが約束通りになりました。今もそうです。「神の平安・平和が約束されていてその通りになる」これこそが主に堅く立ったクリスチャンへの最もすばらしい恵みです。そして平安であることの喜び、平安からもたらされる寛容、この姿こそが神を知ってもらうための優れた手段なのです。

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