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木村太

10月13日「満ち足りる秘訣」(ピリピ4:10-23)

更新日:2019年10月20日

  皆さんはどんなときに「私は祝福されている」とか「この教会は祝福されている」と思いますか。時々私たちは、「大きい小さい/多い少ない」のような視点で祝福を見てしまうときがあります。では乏しい時や不足している時は祝福されていないのでしょうか。そこで今日はクリスチャン的ものの見方について聖書に聞きます。


Ⅰ.パウロはどんな境遇にあっても「神によって満たされている」という秘訣を持っていた(4:10-13)

  パウロは手紙の終わりで、ピリピ教会に贈り物の感謝を述べます(10節)。この後で語られているように、ピリピ教会は以前にもパウロを支援していました。しかし、何らかの理由で支援が途絶えていたのしょう。しかし、ピリピ教会はローマで投獄されているパウロの生活を支えるために、贈り物を託してエパフロディトをローマに送り出しました。それでこの支援についてパウロは喜びを表しています。ここでパウロは「あなたがたの心が今ついによみがえってきたことを、主にあって大いに喜んでいます。」と語ります。パウロは「パウロさんを助けたい」というピリピ教会の愛の心が主キリストによって生まれたことを喜んでいます。贈り物の内容とか品数で喜びが左右されていません。というのも、パウロの満足は人や品物のような目に見えるものに依らないからです(11-12節)。

  これまでパウロはたいへん貧しくなったときもありました。反対にあふれるほどに豊かになったときもありました。しかし、どんな状況においても「私は満たされている」と自覚していました。腹一杯で満ち足りているときや物資に富んでいるときはもちろんのこと、腹ぺこで飢えていても物が無くて苦しんでいても満ち足りていたのです。この世の見方からすれば「貧しいのに私は満たされている」というのは何か変ですよね。けれどもパウロにはどんな境遇の中にいても「満たされている」と自覚できるための秘訣がありました。それが13節のことばです。

  「どんなことでもできる」とは「あらゆることに対して力がある」を意味します。スーパーマンのように「あらゆることを完璧にやってのける」ではありません。「自分はあらゆる境遇に対処できると」パウロは言っているのです。なぜなら神が強くしてくださるからです。たとえ必要な物がなくても、たとえ状況が悪くても、神がそれに対処できる勇気と知恵を与えてくださるのです。人の目から見れば欠乏や不足だけれども、神がキリストを通して助けてくださる、という確信をパウロは経験から悟りました。それで貧しくても、飢えていても、乏しくても、「私はどんな境遇にあっても神によって満たされている」となったのです。それゆえ贈り物そのものではなく、贈ってくれた方々の心に感謝と喜びを持つのです。

  私たちも生きる上であるいは何かに取り組む上で貧しさや欠乏に遭います。「あれがないからもう無理/これがないからできない」と落胆することがあります。そんなとき私たちはどこを見ているのでしょうか。パウロを強くした神は今も変わらず私たちとともにいます。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(ヨシュア1:5,8)」と神は私たちを励ましています。だから貧しくても、飢えていても、乏しくても、思い通りに進んでなくても「主にあって大丈夫」という秘訣があり、その秘訣によって私たちはいつも平安と満たしを持ち続けられるのです。私たちの喜びや満たしは物や出来事ではなくキリストにある、これがクリスチャン的ものの見方です。


Ⅱ.ピリピ教会は支援を通してパウロの苦しみとパウロの働きに与っている(4:14-20)

  パウロは再びピリピ教会の支援について語ります(14-16節)。パウロはピリピ教会からの人や物の支援を単なる支援と受け取っていません。パウロは支援に2つの意味を見いだしています。

①14節「私と苦難を分け合ってくれました。」:「苦難を分け合う」は苦難を一緒に担う姿を言います。苦難という御輿の担ぎ手になるイメージです。ピリピ教会からすればパウロを支えたい一心なのですが、それは御輿を担ぐようにパウロの苦しみを担いでいるのです。「共に喜び共に泣く」という愛の実践です。

②15節「物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会」:「関わる」は協力を意味することばです。贈り物や人の派遣によってパウロの貧しさは和らぎます。それによってパウロの働きが力づけられるから、支援が福音を伝える働きにつながっているのです。ある宣教師はこう言いました。「宣教師を支援しているのは日本に居ながらにして現地の伝道をしている。」キリストを伝えるための支援は自分もその働きに加わっていることになるのです。

  パウロはピリピの支援を「苦難を分け合う/働きに関わる」と受け取っています。それで彼らにこう願っています(17節)。「口座に加えられていく実」は、投資の配当金が銀行口座に貯まっていくイメージです。つまり霊的な口座ですから、神の喜ばれる行いによって神からの栄誉という配当金が天の御国で貯まってゆくのです。パウロへの支援は苦難を担うという愛の行いであり、そして福音を広げるという神の栄光のための行いなので、天での栄誉を積み上げることになります。また18節「それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。」とあるように、支援は神が喜ぶ贈り物でもあるのです。それゆえ「天に宝を積みなさい」とキリストが命じたように、パウロもあらゆる仕方で「自分の配当金を天に積みなさい」と勧めるのです。

  繰り返しになりますが、人の目から見ればパウロへの支援は彼を助けており、神の目から見れば天での栄誉を積み上げています。だから「神は...あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」とあるように、支援のような神のための働きに神は必要なすべてをキリストを通して与えてくださるのです。このことをパウロは経験を通して分かっているから、「私の神はあなたがたの必要をすべて満たし(19節)」と語り、「私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。(20節)」と神をほめたたえるのです。

  この世界には、心や体に苦しみを抱えている人、生活に苦しんでいる人がたくさんいます。私たちはこれらの人々を祈りや物質的な支援あるいは生活の手伝いなどで支えることがあるでしょう。その支援は人を支えていると同時にその人の苦しみを担っています。また福音に携わっている人にとってはその活動を担っています。一方、神にとっては天での栄誉、ご自身へのささげもの、ご自身の喜びとなっています。この事実をキリストはこう語りました。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」支援する側も受ける側も、人を支えるふるまいは神の喜びであり、神の栄光につながっていることを忘れずにいましょう。そして、「主にあって支える人が起こされる、あるいは支えたい心が起こされる」このことゆえに神をほめたたえましょう。



  「ピリピ人への手紙」の説教を終えるに当たり、手紙の特徴からお勧めをいたします。この手紙には「主にあって○○」という表現がたくさん出てきます。4章を見ても「主にあって」やそれと同じような表現がこれほどあります。「主にあって堅く立つ(1節)/主にあって同じ思いとなる(2節)/主にあって喜びなさい(4,10節)/キリスト・イエスにあって神の平安が守る(7節)/私を強くする方によって(あって)どんなこともできる(13節)/主にある聖徒(21節)」つまり「主にあって」というのは、私たちがクリスチャンとして生きる上での土台になるのです。具体的にはこう言えます。「主キリストの治めている世界の中に生きていること、主キリストの支えの上に生きていること、主キリストとの結びつきによって神の導きと働きを受けていること」これらを常に自覚するのです。そしてキリストに信頼し従うのです。それゆえ私たちは「主にあって」こそどんなときでも平安と平和と喜びと満たしと御国への希望を持つことができるのです。また、「主にあって」こそ何にでも対処できるのです。

  ただし、本来罪ある私たちは「主にあって」の外で生きていました。そこは不安、争い、恐れ、不満、失望に満ちている闇の世界です。キリストを信じる前の自分の姿を見れば分かると思います。しかし、神は人の罪を赦すためにキリストを犠牲にし、よみがえったキリストと信じる人を結びつけて、「主にあって」生きる人にしました。私たちが今「主にあって」生きているのは、我が子を犠牲にするほどの神の愛によるのです。簡単に「主にあって」と口にしますが、「主にあって」はキリストを信じる者に与えられたすばらしい特権なのです。

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