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木村太

7月21日「キリストのために」(ピリピ人への手紙1:19-30)

 私たちの毎日は選択の連続です。「今朝はパンにしようかご飯にしようか」とか「夕食は魚か肉か」のような選択もあれば、進学や就職、転職、結婚のように大きな決断を迫られる選択もあります。聖書には「この学校へ行きなさいとか、この会社に入りなさい」といった具体的な答えはありません。しかし、選ぶ際の指針は示されています。そこで今日はパウロの人生を通して、クリスチャン選択について聖書に聞きましょう。


Ⅰ.パウロは自分のいのちを通してキリストが世界に広がり、ほめたたえられることを切望した(1:19-21)

 パウロは自分の投獄を通して福音が前進しているのを喜んでいるだけでなく、これからも喜ぶことになる、と言います(18節)。その理由をこう語ります(19-20節)。パウロは今ローマで監禁状態にあり、裁判を待っています。無罪判決となり釈放されて再び福音を伝える活動ができるかもしれません。反対に有罪判決となり何らかの刑罰、最悪の場合死刑になるかもしれません。どちらかわからない状況がずっと続いています。そんな中でパウロが正気を保てたのは、ピリピをはじめとするクリスチャンたちの祈りと彼の内側に働く聖霊なるキリストでした。このパウロを通して「このこと」すなわち福音の前進がなされていました。

 パウロは「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」を切望していました。もし、無罪となり釈放されれば、再び伝道活動ができるようになり、福音が前進します。逆にもし、キリストのことで有罪となり死刑となったとしても、いわば殉教となっても、パウロに刺激された人々が一層福音を伝えるようになるから、こちらもやはり福音が前進します。ですから、どちらにしても福音が広がり、キリストがほめたたえられるようになるのです。

 その事実をパウロはこう告白します(21節)。まさにパウロは自分の人生をキリストにささげていました。しかも、その人生によって「キリストがあがめられること」が実現するので喜んでいるのです。そして19節「このことが結局は私の救いとなる」とあるように、キリストを崇める人が起こされることがパウロを喜ばせ、励ましているのです。

 パウロはもともと行いによって義を獲得するというユダヤ教の指導者で、キリストに激しく敵対していました。神から見れば義はおろか真っ先に滅ぼされても仕方ない人間でした。ところが、神はあわれみによってパウロを選んでキリストに出会わせて救い、義と定めました。だからパウロは「自分の死がキリストのためになる」と告白できるほどに、命をキリストにささげたのです。私たちも本来は不安と恐れの人生を送り、滅びに至る者でした。しかし神はキリストのいのちを通して私たちを滅びから救ってくださり、平安の人生と天の御国をくださいました。ですから私たちもパウロと同じように自分の人生をキリストにささげているのです。これが何を選ぶのかの土台です。


Ⅱ.パウロは「生きて福音が前進すること」と「世を去ってキリストと共にいること」に迫られたが、「福音のために生きる」という神のみこころを選んだ(1:22-26)

 パウロは福音の前進という事実から、キリストへの思いが高まって行きます(22-23節)。獄中のパウロは二つのどちらを選んでよいのか判断がつかないほどに、その二つのことを強く望んでいます。一つは、釈放されてキリストを伝える生活に戻り、キリストが崇められるという実を結ぶことです。もう一つは、「世を去って」すなわち殉教して天の御国でキリストのそばで永遠のいのちを生きることです。先ほどの「死ぬことは益です」の益には、殉教による福音の前進に加えて、キリストとともにいることも含まれているのです。ただし、「世を去ってキリストとともにいる」というのは、「今の苦しみから解放されたい」という思いとは違います。なぜなら、今のパウロにとって世を去るとは刑罰による死であり、たいへんな苦痛を通らなければならないからです。生きて困難な中でキリストを伝えること、殉教してキリストとともにいること、どちらにしてもたいへんな苦しみが待ち受けているのに、パウロはそのどちらをも熱望しているのです。でもパウロとしては「救ってくださったキリストとともに天で生きたい」という思いがはるかに勝っていました。みなさんならどちらを選ぶでしょうか。

 パウロは選びました(24節)。「あなたがたのため」とはピリピのような誕生したばかりの教会の安定と福音の前進を指します。パウロは「天の御国でキリストともにいる」という自分の思いよりも、「使徒として生きる」という道を選択しました。なぜなら25節「このことを確信している」とあるように、「混乱と戸惑いの中にある教会に正しさを教える」このことをパウロは神から与えられた使命と確信しているからです。さらには25-26節にあるように、自分が使徒として生きることが、ピリピの人々をはじめとするクリスチャンの喜びと励まし、そして信仰の成長につながるのをわかっているからです。つまり、パウロは自分の熱望よりも神のみこころを優先したのです。

 今、獄中にあるパウロには二つの道があります。一つは釈放されて生き、再び使徒ならではの働きへの道です。もう一つは有罪判決で投獄の末に死んでキリストとともにいるという道です。ここでパウロは神のみこころ、生きてキリストのために働く道、言い換えればキリストがますますあがめられる道を選びました。私たちもどちらを選んでよいのかわからなく板挟みになることがあります。皆さんも何かしらの経験があると思いますし、これからもあるでしょう。その際は、神のみこころは何なのかを求めるのです。具体的には、祈りとか聖書をひもとくとか信仰の先輩に相談するなどがあります。ここで大切なのは、よりキリストがあがめられる道を選ぶことです。なぜなら、パウロと同じように私たちもこの地上の人生を通してキリストがあがめられるために救われたからです。これが選択の指針です。


Ⅲ.信仰による苦難はキリストのために生き、キリストを伝えている証しである(1:27-30)

 さてパウロは自分の思いからピリピの人たちに目が向いたので、彼らのために再び語ります(27-28節)。クリスチャンの人生に必要なのはたった一つ、福音にふさわしい生活です。これは「キリストがあがめられるための選択」を具体的に示しています。「福音にふさわしい生活」とは、キリストが救い主であり、すべてを治める神であることを明らかにするふるまいを言います。パウロの別のことばを借りるならば「食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにする。(Ⅰコリント10:31)」となります。そして「キリストの福音にふさわしい生活」は必ず目に見える実を結びます。それが「霊を一つにして心を一つにして戦い、反対者に脅かされないこと」です。霊と心が一つになるとは、全員が神を求める思い、神に従う思いを持っている状態です。いわば教会のメンバー全員が神を信頼し、神に従順になっています。それによって、異なる教えや脅しがあったとしても、一枚岩になっているので信仰から逃げようとせず、信仰に留まっていられます。28節「そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。」とあるように、おどおどせず堂々としていることが、信仰を奪おうとした敵の敗北を意味し、同時に救いのしるし、すなわち自分の内側にキリストが留まっている証しでもあります。福音にふさわしい生活はクリスチャン自らの意志が必要ですが、目に見える形で神が実を与えてくださいます。パウロは自分の経験からこう言えるのです。

 さて、パウロは福音にふさわしい生活について、もう一つの事実を言います(29-30節)。人は神に背く性質いわゆる罪を持っていますから、自らの意志でキリストを信じる信仰を生み出すことはできません。パウロが言うように信仰も神からの恵み、プレゼントなのです。と同時に福音にふさわしい人生には、キリストゆえの苦しみという実も与えられます。なぜならこの世と違う価値観(何が大事か)や倫理観(何が正しいのか)を持っているので、冷やかされたり、馬鹿にされたり、おかしな目で見られることがあるからです。現代の日本ではあまり見られませんが、国や地域によっては迫害や差別もあります。しかし、キリストゆえの苦しみ、日本的に言えば「キリスト教信者ゆえの苦しみ」はキリストを伝えている証し、福音の前進の証しなのです。まさに「生きることはキリスト」になっている証しなのです。


 キリストは人のために生まれ、十字架で死んで、よみがえりました。それゆえキリストを信じる私たちは罪を赦され永遠のいのちを得ています。一方、パウロはキリストのために生き、言い伝えによればローマ皇帝ネロにより殉教しました。パウロによってキリスト教は全世界に広がり、現代の私たちの救いをもたらしました。この両者があってこその日本にいる私たちの救いなのです。今、私たちも福音にふさわしい生活を選び取っています。ただ、そこには必ず苦難があります。しかし、そこに神の力が働いて不思議な助けと不思議な平安が与えられます。同時に、天での栄誉を積み上げているのです。

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