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木村太

7月7日 「ピリピ教会への感謝と祈り」(ピリピ人への手紙1:1-11)

 今日からピリピ人への手紙を説教します。この手紙はパウロがローマの獄中からピリピにいるクリスチャンたちに宛てた手紙です。パウロは地域の教会(クリスチャンの集団)にいくつも手紙を書いていますが、大方は彼らの弱いところを指摘し、命令形式で助言を与えています。ところが、この手紙は「喜び」が随所に書かれています。ある解説書では「パウロの手紙でもっとも人情味あふれる手紙」とありました。今回この手紙を通して、私たちは何を喜ぶのかを聖書から教えてもらい、そしてますます喜びが増えることを願っています。


 本論に入る前に手紙の背景について短く説明します。ピリピはマケドニア地方で一番大きな商業都市でした。パウロは二回目の伝道旅行の時、テモテと一緒にここを訪れて福音を語りました。このとき、紫布商人リディヤ(異邦人女性)がキリストを信じてヨーロッパ最初のクリスチャンとなりました。そしてリディヤは自分の家の者たちを信仰に導き、家をささげてピリピ教会の活動が始まりました。その後、ピリピ教会は「贈り物」をエパフロディトに託してローマ獄中のパウロに送りましたが、エパフロディトはローマに着いてから命に関わる病になってしまいました。それでパウロは彼が回復した時、ピリピに送り返すにあたり感謝の手紙を書いて彼に託したのです。


Ⅰ.パウロは自分もテモテもピリピの人々も、すべてがキリストの聖徒、しもべであると語った(1:1-2)

 パウロは当時の習慣にならい「自己紹介(1節)、宛先(1節)、祝祷(2節)、感謝(3-8節)、とりなしの祈り(9-11節)」の順に手紙を書き出しています。自己紹介の中にテモテが含まれているのは、彼もピリピ伝道の一員としてパウロが認めているからでしょう。この手紙でパウロは自分を「使徒」ではなく「キリスト・イエスのしもべ」と呼んでいます。パウロがピリピのクリスチャンを「キリスト・イエスにあるすべての聖徒(キリストを信じる者が神の所有となっていること)」と呼びかけていることから、彼は「自分もあなたがたと同じキリストに忠実に仕えている者」という一体感を出しているのです。「私はキリストの使徒です」と言われたら、「上から目線/手の届かない権威者」と受け取ってしまいますが、「あなた方と同じキリストのしもべ」であれば身近な存在に感じますね。「わたしも、あなたがたもキリストによって一つ」という見方は、この手紙を味わう上で重要なポイントと言えます。

 ただしパウロは「監督たちと執事たちへ」とあるように教会の指導者にも触れています。これは、教会の始まりからこんにちに至るまで、クリスチャンの群れを適切に指導してきたことに敬意を払っているのです。と同時に、彼らが指導者としてこの手紙をしっかりと読んで欲しいという意図も入っています。

 教会には監督や長老、牧師、宣教師、役員のような立場の違いがありますが、根本的には人柄や個性の異なる人々が集まっています。けれども、全員がキリストを救い主と信じる神の家族の一員なのです。これは教会同士にも言えることです。だから「ともに喜びともに泣く」という共感が生まれ、そして「ともにキリストのしもべ」という仲間・同労者となれるのです。


Ⅱ.パウロはピリピの人々が福音に携わり続けたことを感謝し、彼らを動かした神に感謝している(1:3-8)

 パウロは挨拶に続いて感謝を表しています(3節)。パウロはまず神に感謝しています。6節「あなたがたの間で良い働きを始められた方」とあるように、人に福音を伝えさせ、信じる人を生まれさせ、教会を成長させているのは神の働きなのです。実際にはクリスチャンが活動していますが、その活動の中で神が大いなるわざをなしているから、パウロはまず神に感謝をささげているのです。ただし、実際に活動している人々に感謝を表すことも大切です(4-5節)。「あなたがたのことを思うたびに/あなたがたすべてのために祈るたびに」とあるように、パウロは遠く離れた牢屋の中にいても、いろいろな地域で活動しているときも、いつもピリピの人々を思い巡らし、感謝し、彼らのために祈っています。7-8節にその熱い思いが記されていますが、神を証人としても良い、と宣言できるほど深い愛を注いでいます。これもキリストにあって一つだからこそなのです。

 さて、パウロがピリピの人たちを喜び感謝する理由が5節にあります。「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」「福音を伝えることに携わる」とは、「十字架で死んでよみがえったキリストを救い主と証言する働きに密接に関わること」を意味します。ここで注目したいのは、「働きに密接に関わり続けていること」をパウロが喜び感謝している点です。この世では「思い通りできた/うまくいった/収穫があった」のように結果が喜びや感謝を左右します。けれども信仰においては結果ではなく、何をしているのかが大事なのです。「福音に携わり続けること」これが喜びであり、「よくやったねありがとう」という感謝に至るのです。だからどのような活動も上とか下のような差別がなく、すべてが喜びと感謝の対象になります。キリストも「私に従いなさい/神と人を尽くして愛しなさい」のように、あり方を命じていて、結果を求めてはいません。

 教会の働きあるいは個人の働きにおいては、ときとして何も結果がでない時期があります。そればかりでなく、この世の評価からすれば「後退/減速/失敗」の事態もあります。そんなとき5節のパウロのことばは大きな励ましになります。神の喜びは忠実と誠実にあるのです。それに加えてこの喜びは自分たちのことだけに留まりません。パウロは「福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」と言っています。一人一人の働き、一つ一つの教会の働きは違います。けれども、キリストのしもべとして「ともに」キリストのために生きている、このことをパウロは自分のこととして喜ぶのです。「自分だけ/自分の教会だけ」といった価値観を神はよしとしません。キリストのために生きている人や教会のことを、まさに自分のこととして注目し、受け取るのが私たちのあり方なのです。


Ⅲ.パウロはピリピの人々がますます神の愛に満たされ、ますます神の栄光を表せるように祈っている(1:9-11)

 パウロはあいさつの締めくくりとして、ピリピの人々のためにとりなしの祈りをします。9-11節には2つの祈りがあります。一つ目は9-10節前半、二つ目は10後半-11節です。この2つは「クリスチャンによってこの世界に神の栄光が広がって欲しい」というテーマであり、前半は「あなた方がこうなって欲しい」、後半は「あなたがたによって世界がこうなって欲しい」になっています。

9節「あなたがたの愛がいよいよ豊かになり、大切なことを見分けることができますように」とあります。神の愛が内側に増えてくれば、自ずと大切なこと、すなわち神と人を大切にできるようになります。自己中心という罪に満たされている時は、「神のために何かをしたい/あの人を助けたい」といった思いと行動は生まれません。たとえ犠牲を払ったとしても、あくまでも自分のためです。しかし、神の愛が増えれば、見返りを求めずに神と人を大切にできるようになります。ルカの福音書にある「善きサマリヤ人のたとえ」はまさにこのことを明らかにしています。

 そして神の愛がますます豊かになれば、その人はますます純真で非難されるところのない者、つまり神の目から見て善い人になってゆきます。さらに神の愛が豊かになればなるほどその人は、「神はすばらしい、あなたをほめたたえます」となります。と同時に、そんなクリスチャンを見て、周囲の人々が神の存在を知り、あなたの信じている神はいいね、となるのです。これが、「神の栄光と誉れが現される」という神の願いなのです。

 ただし、クリスチャンが神の愛に満たされるためには、知識すなわち「神はどういったお方か」と識別力(口語:するどい感覚、LIB:洞察力)すなわち「神ならどうするのか」を身につけなければなりません。例え言えば、第一人者を真似ることで成長するように常に神のみこころにに注意し、キリストならどうするかを考え、神のことばに自分の思いを照らし合わせるのです。そうすれば神の愛を身につけ、神の義を実践する者に変えられます。専門用語で言えばこれが聖化です。

 パウロは一人一人に神の愛が増し加わり、神の義が満ちてくることによって、地上世界に神の栄光と神の賛美が広がるのを願っています。その主役は私たちクリスチャンであり、そして福音に携わり続けることで主役が増えて行くのです。先ほども申しましたように、大事なのは目に見える結果を残すことではなく、私たちを救ってくださった神のためにどう生きているかなのです。



 三笠教会は約11年間牧師が不在でしたけれども、教会を消滅させることなくこんにちに至っています。これは教会の皆さんが「福音を伝えることに携わり続けてきた」からであり、まさにパウロの喜びと感謝です。また、JECA空知地区教会をはじめ、地域の教会が互いに支え合いながら、ともに福音に携わり続けています。これもまさにパウロの喜びと感謝です。教会が始まった最初のときから今日を経て、キリストの再臨に至るまで、クリスチャンの活動を通して神はおおいなるわざを成してくださいます。私たち一人一人が神に感謝するとともに、神の愛に満たされ続けて、この地が神の栄光と賛美に満ちることを願います。

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