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木村太

9月8日「目標を目指して」(ピリピ人への手紙3:12-16)

 国道12号線から三笠キリスト教会に行くためには道道116号線「岩見沢三笠線」に入り桂沢方面へ進みます。初めて来る人にとっては、「岩見沢三笠線」の入り口を見つけ、この道を走っているのが確認できれば一安心だと思います。私たちからすれば着いたも同然ですね。ただし、目的地に到着しなければ本当の安心にはなりません。私たちの人生もこれに似ています。なぜならキリストを救い主と信じた者は滅びに至る道から天の御国に至る道へ入っているからです。でも、天の御国にはまだ入っていないので、完全で永遠の安心や喜びを味わうことはできません。そこで今日は、天を目指す私たちの生き方について聖書に聞きます。


Ⅰ.パウロは、自分はいまだ義となる途上であり、天の御国でキリストと同じ義となることを追い求めている(3:12-14)

  パウロはピリピのクリスチャンたちに、キリストを信じる前と後で生き方がすっかり変えられたことを語りました。かつては律法を厳守するという行いによって義を求めていましたが、その方法では到達できませんでした。しかし、ダマスコへの途上で復活のキリストに出会い、キリストに捉えられ、キリストを信じることで神から義と認められ、それまでの生き方を手放したのです。そして、今、パウロはこのように歩んでいます(12節)。

  パウロは、自分はキリストを救い主と信じ、キリストと結ばれているけれども、すでに神の義を手にしてもいないし、神から完全に正しい者と認められてもいない、と告白します。「ただ捕らえようとして追求しているのです。」とあるように、自分はまだ義となる途上にある、と言うのです。なぜなら、完全に義である神の子キリストと同じになることが義となった証拠だからです。もう少し説明するならば、肉体が滅んだ後、よみがえって天の御国で父と共に生きる、これが実現して初めて自分は義となったと言えるのです。それゆえ地上を生きている間は、いまだ義の人に到達していません。ただし、「それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」とあるように、キリストと結ばれたことによって、すでに義に至る道に置かれたとパウロは確信しています。

  なぜパウロが義の途上にあると語ったのか、その理由はピリピ教会に完全主義が入り込んでいたためと思われます。完全主義とはキリストを信じて救われた者はすでに義の者となり、神から完全な者にされたという教えです。いわば、もう自分はゴールに達した、という考えです。しかしパウロは、今申しましたようにキリストと同じになっていないこと、そして救われていてもなお罪が自分の中に残っていることらから完全主義を否定しました。ピリピの人たちが間違った歩みをしないように、お手本を示しているのです。

  続けてパウロは義を追い求める生き方について語ります(13-14節)。パウロは後ろのもの、すなわちこれまでの生き方にかまうことなく、前にある目標を得ようとただひたすら努力しています。キリストに出会う前、パウロは正当なイスラエル民族といった血筋や割礼といった肉体のしるしを義の条件とし、さらに律法をもとにした細かな規則の厳守によって義を求めていました。いわゆる肉に頼る者でした。けれどもそれらはキリストによって「ちりあくた」となり、神に従う上で有害となりました。ただ、いまだ肉に頼る心、言い換えれば神に従えない心が残っているから、意識的に捨てようとしているのです。

  同時にパウロは前のもの、すなわち「神が上に召してくださるという、その賞」を追い求め続けています。「神が上に召してくださるという、その賞」とは、「死からよみがえって神と共に生きている」あのキリストと同じになることです。それゆえ「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(3:11)」とパウロは願うのです。また賞と言うように、「キリストと同じになること」は神から褒美として与えられます。これが地上の人生におけるパウロの目標、ゴールなのです。ただし、このゴールに到達できるかできないか分からないのではありません。「キリスト・イエスにあって」とあるように、キリストを信じキリストに結ばれている者は必ずこのゴールに到達できることが保証されています。神から義と認められ、天の御国への道に入って新しい人生をスタートできるのも、それを目指して毎日生きてゆけるのもキリストが死んでよみがえってくださったからなのです。

  このパウロのことばから、「クリスチャンはすでにといまだの緊張関係の中で生きている」と説明されています。キリストを救い主と信じた者は、天の御国での永遠のいのちに入れるようにすでにそうされています。しかし、いまだ入ってはいません。ですから、地上の人生においては罪すなわち神ではなく自分中心の心がまだ残っているから、このことを認め罪の誘惑を断ち切る意志が必要です。一方で最後の審判で無罪となり天の御国で永遠に平安と喜びの中を生きるのが決まっています。決して取り消されることはありませんから、これが私たちの希望と励ましになり、この世を生きる力になるのです。


Ⅱ.パウロは、信仰の大人が自分と同じになるように勧めたが、それぞれの信仰にふさわしく歩むように配慮した(3:4-9)

  次にパウロは自分に起きた真実をピリピのクリスチャンたちに適用します(15節前半)。パウロはピリピの人たちを「大人」と認めているので、キリストを目指すようにと勧めます。ここでの大人とは明らかなように年齢ではなく信仰の大人を指しています。ここには信仰の大人について具体的に書かれていませんが、パウロと同じ目標を目指すという勧告から、信仰の大人とはパウロと同じように行いに頼らず、キリストを信頼し従い、そして義の途上にあることを自覚している人と言えるでしょう。ただし、復活のキリストに直接出会い使徒に任ぜられたパウロと、そのパウロから教えられてキリストを信じたピリピの人たちでは、当然のことながら信仰の理解度や成熟度が違います。それでパウロは、ピリピの人たちに配慮し、2つの助言をしています。

①15節後半:「何か違う考え方をする」を直訳すると「他のものを心にかけている」となります。つまり、キリストを救い主と信じているけれども、世の中の価値観やならわし、あるいは自分のこだわりに引っ張られている人と言えます。例えば、日本人は因果応報という思想が染みついていますから、「悪いことが起きるのは自分の行いとか悪い考えのせいだ」とクリスチャンになっても悩むことがあります。しかし、神は聖霊を通してその間違いを必ず気づかせてくださいます。あたかも、目に掛かった覆いを取りのけるようにです。パウロはまさにこのことを体験しました。「キリストと結ばれたのにどうして自分は悪を思ってしまうのか。どうして神に素直に従えないのか。」神はこういったことをパウロに気づかせ、そこから、まだ義の途上にあることを悟らせました。キリストを信じ従っていれば、神が信仰を成長させてくださるというのは、未熟だと自覚するクリスチャンにとって安心と励ましになります。

②16節:パウロとピリピのクリスチャンを見れば明らかなように、キリストに近づいている度合い、いわば信仰の成熟度は人によって違います。例えば、パウロのようにつらい出来事の中で神の助けを経験した人と、キリストを信じて間もない人とでは、信仰による忍耐とか期待、安心の深さが違います。それゆえ、その度合いにふさわしいふるまいをしなさい、とパウロは勧めるのです。今すぐ自分と同じようにしなさい、と命じないところにパウロの配慮を見て取れます。

  パウロが「うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、目標を目指して走る」と語っているのを聞くと、なんだか一生懸命がんばらなければならない印象がありますが、そうではありません。クリスチャンの人生とは人と比べず、ただひたすら忠実に誠実にキリストに従うことなのです。そして神が私たちをキリストに似たものへと成長させてくださるのです。


  私たちは血筋や儀式や行いなどで絶対に得ることのできない義、すなわち無罪とされて天の御国に入れる約束をすでに受けました。すべては、神のあわれみであり、キリストが私たちの罪の犠牲となり、復活によって天への道が開かれたからです。私たちの手柄は一切ありません。だから、私たちは神に感謝し、キリストのように神の喜ばれる人を目指して生きているのです。ただし、私たちはいまだ義となってはいないから、神に従いたい心と罪の誘惑との間で葛藤があります。でも大丈夫なのです。なぜなら、すでに滅びの道から義に至る道に入れられた私たちは、神を悲しませるのではなく神を喜ばせたい心に変えられているからです。そして、キリストは私たちの必要をご存じで、その必要に応じて神が聖霊を通して私たちの信仰を成長させてくださるからです。聖霊の助けによって罪に打ち勝ち、ますますキリストに近づき、ますます平安と喜びに包まれる、そのような道を私たちはすでに歩んでいます。

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