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木村太

1月10日「イエスはどこから来てどこへ行くのか」(ヨハネの福音書7章25-36節) 

・はじめに

 もし今晩の天気予報で「明日から一週間は30℃を越える真夏日となるでしょう。」と予報されたら、皆さんは信じますか。よほど信頼できる気象予報士であっても「1月の北海道でそんなことあるわけがない」と思うでしょう。もちろん過去にもそんな事実はないし、地理や気象のような自然科学からしてもあり得ない天気です。実は、ユダヤ人にとって「神が人となる」というのも「あり得ない」ことがらです。それは「真冬の北海道の真夏日」とは比べものになりません。でも「神が人となる」は事実です。今日は、イエスを神と信じることについて聖書に聞きます。


Ⅰ.イエスはご自分がユダヤ人であると同時に神から出た者と語った(7:25-29)

 エルサレムでは仮庵の祭りが中頃となり、イエスは命を狙われているにもかかわらず神殿で語りました。それを見たユダヤ人たちが口を開きます。


 命を危険にさらしてまでもユダヤ人に語り、問答するイエスの姿に驚きを持つ人がいました。彼らはイエスが不安でびくびくせず、威厳を伴って堂々と語るのを驚いているのです(25節)。しかも、ラビでもないイエスが昔からの戒律をないがしろにするようなことがらを邪魔されずに語り続けるので、宗教指導者である議員がイエスをキリストすなわちメシアと認めたのでは、と勘ぐるほどでした(26節)。おそらく議員たちは「なぜ殺そうとするのか」とイエスにはっきりと言われたので、あからさまに手を下せなかったのでしょう。


 ところがユダヤ人たちは、イエスがキリストであるはずがないと決めつけています(27節)。彼らはイエスの血筋や育ちを知っていてイエスがまさしく庶民のユダヤ人だと信じて疑わないからです。さらに「キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」とあるように、預言書にはキリストの神秘的な到来が記されています(ダニエル7:13)。それからすれば、地上の人間がキリストになることはないのです。これがユダヤ人のキリスト観でした。


 このキリスト観に対してイエスが応じます。28節「大きな声で言われた」とあるように、イエスはまことのキリスト観を叫ぶようにユダヤ人に語りました。キリストについて正しく知ることが滅びからの救いにつながるからです。大声で言えばますます人に知られますから、ますます命の危険になります。しかしイエスにとって大事なのは自分の命ではなく、ユダヤ人の救いだから大きな声で教えるのです。


 イエスは、ユダヤ人たちがイエスの生まれや家族をよく知っているのを認めています。けれども、自分でキリストになろうとしたのではなく、真実な方である神から遣わされたと告白しました。ユダヤ人は人としてのイエス、言い換えれば目に見えることがらでキリストかどうかを見極めています。一方イエスは、神から遣わされたという目に見えない真実からキリストであることを語っています。その根拠がこのことばです(29節)。


 「その方から出た」とは自分が神から出た者、すなわち神に所属する者を言います。つまりイエスは、自分は人であると同時に神と同じ性質を持っている、と語っているのです。まさに人の知識では理解も説明もできないのですが、これが真実なのです。ただし、バプテスマのヨハネのように真実に目が開かれた者はそのことを理解し受け入れます。反対に、ユダヤ人は神を知っているといいながら戒律を守ることばかりに心を向けているので、神のみこころをわからず「イエスが神から出た」真実を認めません。ユダヤ人はメシア(キリスト)を待ち望んでいますが、彼らはキリストについては盲目だったのです。


 エルサレムにおいてユダヤ人の群衆はイエスがキリストかどうかをこんな風に判断しています。「議員たちはキリストと認めたのかもしれない/イエスの血筋や家族は普通のユダヤ民族だ/キリストは神秘的な仕方でやって来る」彼らは自分たちの知識と目に見えることがらだけでキリストであるかどうかを判断しています。方やイエスはどこまでも父なる神、ご自分を地上に遣わした神を根源として判断し語ります。キリスト教では「霊的盲目/霊的視点」といった専門用語がありますが、ユダヤ人のように事実だけに目を向けているのが「霊的盲目」であり、イエスのように神を中心として見れば「霊的視点」で見ることができます。そして霊的視点こそが神のあわれみに気づかせ私たちを平安に至らせます。


Ⅱ.イエスはやがては神のもとに戻ると語ったが、ユダヤ人はそれを理解できなかった(7:30-36)

 群衆はイエスがどのようにして来たのかを耳にしました。そこで2つの反応がありました。ある人たちは「神から出て、神から遣わされた」というのを神冒涜と見なして、イエスを捕まえようとしました(30節)。しかし、「イエスの時」すなわち十字架の時に至っていないのでイエスは捕まりませんでした。なぜ彼らがイエスに手をかけなかったのかは明らかにされていませんが、イエスの威厳に気圧されたのかもしれません。霊的視点で見るならば、神の力が働いていました。


 またある人たちはイエスのことばや不思議なわざ故に、イエスはキリストかもしれないと思い始めています(31節)。ただし彼らが信じているのは、イエスがローマからイスラエルを解放し、神の国を樹立するというキリストです。罪による滅びからの救い主ではありません。


 さて、イエスをキリストと期待する機運が密かに高まっているのをパリサイ人は気づきました(32節)。そこで彼らは同じ宗教指導者である祭司長たちと手を組みます。祭司長たちは神殿管理の権限を持っているので、いろんな理由を持ち出してイエスを捕まえることができます。しかも直接自分たちが手を下すのではなく、下役のような神殿警備の役人を用いました。


 イエスは役人たちが自分を探して逮捕しようとしているのを知り、こう言います。33節「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。」とあるように、イエスは「イエスの時」である十字架とよみがえり、そして自分を遣わした父なる神のもとへ戻る出来事を予告しています。言い換えれば、これは人としての働きを終えることであり、同時に神の国到来が迫っているという予告です。なぜなら、天に戻ったイエスが再び来られるときが最後の審判、新しい天と新しい地の到来だからです。


 ここでイエスは34節「わたしを探しても見つからないし、わたしのいるところに来ることもできない」と言います。このことばから2つのことがらを受け取れます。一つは、神のおられる天には生身の人間は決して行けない、という真実です。もう一つは救いという真実です。ユダヤ人はメシアと神の国を待ち望んでいます。けれども真実に目が開かれていないので、目の前にイエスがいたとしてもキリストとして受け入れません。まして、イエスを救い主と信じていないので、イエスのおられる天すなわち神の国に来ることはできません。待ち望んでいたものを見つけることも入ることもできないのです。


 このイエスのことばはユダヤ人にとって全く聞いたことがありません。ですから、36節「あの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」とあるように、彼らはまるで理解できないのです。イエスの言ったことばを全く分からないので、彼らは「ギリシア人の中に離散している人々(35節)」つまりイスラエルを離れて外国に行くのではないかと推測しました。自分たちの手の届かない所に行くと受け取ったのです。


 以前イエスはエルサレムでこう語りました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(5:24)」もしユダヤ人が真実に目が開かれ「イエスこそが滅びから救い、神の国に入らせる救い主だ」とわかったなら、キリストとしてイエスを見つけることができたでしょう。でもそうなっていないので「わたしを見つけることはできない。わたしの所に来ることはできない。」と言われるのです。彼らは「昔からの戒律をないがしろにし、人々を惑わす者」としてイエスを探し見つけ、捕らえて殺すことはできます。しかし、まことの救い主を見つけることはできません。霊的盲目は救いのチャンスを逃し、人にとって最も必要なものを逃すのです。


・おわりに

 イエスを罪による滅びからの救い主と信じた人は、自分を救ってくれるイエスを見つけ、イエスのいる所に行くことができます。その人たちは「罪深い自分からの解放/暗やみの中での光/生きる望み/天国へのあこがれ」このような自分ではどうすることもできないものを意識無意識にかかわらず求めていたのです。そこに神が介入してくださりイエスを見つけたのです。


 その証拠が信仰の告白です。「イエスは神から出て地上に生まれ、十字架で死んでよみがえり、神のおられる天に戻った」これを真実と認めて信じ人前で語れるのです。誰が何と言おうとあり得ないことがらを信じているのがイエスを救い主と見つけた証です。繰り返しになりますが、そうなったのは自分の努力ではなく神からのプレゼントであることを忘れてはなりません。それほどまでに神は私たちを大切にしているのです。

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