1月12日「聖書(2)~聖書は神からの愛の手紙~」(ヨハネの福音書20章31節、テモテへの手紙 第二 3章16-17節)
- 木村太
- 1月12日
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■はじめに
今、私たちは日本語の聖書を手にしています。これは日本語に翻訳されたものであり、原典と呼ばれる元々のものは旧約聖書がヘブル語、新約聖書がギリシヤ語で書かれています。ヘブル語もギリシヤ語も、聖書が書かれた時代には文字で表現できる言語として、すでに使われていました。神は誰も分からない言語や暗号で聖書を人に書かせてはいません。当時の人々が使っている言葉で聖書を書かせました。だから、誰でも神のことばを明確に知ることができたのです。旧約聖書の預言も同じです。神は預言者を通して人が聞いて理解できる言葉でご自身のみこころを知らせました。なぜ、神はご自身のことばをぼんやりとではなく、はっきりと人に伝えようとしたのでしょうか。そこで今日は、聖書は何を目的として書かれているのかを聖書から見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.聖書は、人がイエスを信じて救われ、永遠のいのちを得るために書かれた(ヨハネ6:40,20:31)
前回申しましたように、神は霊感によって「文書に残す意志とご自身のことば」とを筆者に与え、筆者はそれによって聖書を記しました。なぜなら、預言者を通して神は人に必要なことばを与えたように、聖書のことがらのすべてが人に必要だからです。
神は聖書を通して何を人に伝えたかったのか、そのことをイエスはこう語っています。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。(ヨハネ6:40)」神の思いはただ一つ、それは「子」すなわち御子イエスを信じる者が罪による滅びを免れて、世の終わりの日に永遠のいのちを持つことです。このことをキリスト教では「救い」と呼んでいます。
そして「救いは神の愛から生じている」とヨハネは言います。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」神は人を救うために、我が子イエスのいのちを犠牲にしました。神は人を愛するがゆえに、人に対する怒りをなだめるためにイエスのいのちを供え物としたのです。
神は完全に聖であり義(正しい)なるお方ですから、罪ある私たちを放っておくことは決してありません。パウロが「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:3)」と語っているように、世の終わりの日になされる神の審判において、人は全員、罪あるものと定められて、神の怒りすなわち永遠の滅びに行かなくてはなりません。
その一方で神は、人が永遠の滅びに行くのを望んではいません。神は預言者エゼキエルを通してみこころを語っています。「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18:23)/わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──【神】である主のことば──。だから立ち返って、生きよ。(エゼキエル18:32)」人がこの世で苦しみ、さらにたましいが永遠に苦しむことを神は喜びません。むしろ神は全ての人が立ち返って、すなわち自分の罪を悔い改めて、神に従って生き、神の国に入って永遠のいのちを得ることを願っておられます。神が望んでいるのは永遠の死ではなく、人が永遠に安らぎ、喜びに満ちて生きることです。ただし、私たちはどのような手段でも罪をなくすことはできません。だから、やはり滅びに向かうしかないのです。
そこで神がなさったことは、ご自分の子であるイエスに人への怒りを向けることでした。本来、人が受けるべき怒りを、イエスに向けたことによって、人は神の怒り(永遠の滅びを)免れます。そして、イエスを救い主と信じた人は罪なき者、すなわち義と認められて、神の国に入り永遠のいのちを生きます。人のためにご自分の子を犠牲にしたこと、これが神の愛です。
それで神はご自身の愛をすべての人々に知らせる手段として聖書を用いたのです。人が使っている言語で書かせたことによって、だれでも神のみこころを知ることができます。また、文字にすることで、伝えたい内容が明らかになる上、いつまでも変わりません。もし、口伝とか伝聞だとしたら長い年月の間に変わってしまいます。つまり、文書にしたのも「間違いなく人に伝えたい」という神の思いに基づいているのです。まさに聖書は神からの愛の手紙なのです。
ヨハネは神のみこころをわかり聖書の目的をこう言っています。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)」神のみこころに従って聖書は次の目的を持って書かれました。
①ユダヤ人イエスが神の子であり、神の定めた救い主であること
②イエスを信じれば、イエスの名すなわちイエスを通して神の国に入り永遠のいのちを生きること
旧新約聖書66巻には「何とかして永遠の苦しみではなく、永遠の平安と喜びに生きて欲しい」という神の愛が込められているのです。
Ⅱ.聖書は、信じた者がイエスに似た者へ変えられるために書かれた(Ⅱテモテ3:16-17)
今申しましたように、聖書は人の救いを目的としていますが、それだけに留まりません。前回見ましたように、Ⅱペテロ1:19、詩篇119:105では「イエスが再び来るときまで、イエスを信じた人にとって聖書は正しい道・平安な道を歩ませてくれるともしび」となります。違う見方をすれば、聖書が私たちに正しい生き方を示しているのです。このことを具体的に現しているのがⅡテモテ3:16-17です。
「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(Ⅱテモテ3:16-17)」
パウロは、聖書は有益つまり役に立つと言っています。何に役立つのか、それは「神の人」すなわち神の民クリスチャンが、あらゆる面で善い働きができるように、完全に整えられた者となるためです。簡単に言うなら、聖書に従えばその人は神の基準に完全にふさわしい者となるのです。人は信仰を持ったとしても罪は自分の内に残っているから、その罪によって悪が表に出てきます。ですので、聖書が罪の誘惑を断ち切り、神と人に対して善いふるまいができるように変え続けてくれるのです。
では、どのように聖書はクリスチャンを完全に整えるのでしょうか。それが16節「教え」と「戒め」と「矯正」と「義の訓練」という手段です。「教え」と「戒め」は知識によって整え、「矯正」と「義の訓練」は実践によって人を整えます。
①知識
・教え:何が真理であるのかを聖書は教える
・戒め:何が罪であるのかを聖書は教える
②実践
・矯正:人をあるべき本来の状態に戻す、の意味。罪はあるけれども罪の誘惑を断ち切って、悪をなさせないようにする
・義の訓練:正しい考えや行いができるように練習し身につける
人が整えられるためには、知識と実践の両方が必要です。聖書を読んでいくら知識を得たとしても、考えや行動が伴わないのであれば、その知識は意味のないものとなります。そして、重要なのは身に染みつくまで続けなければならないことです。いつも聖書をお手本にして実際に行動することが肝心です。繰り返し続けることによってそれが習慣となり、習慣が続くことによって自然とイエスのようにふるまうようになるのです。
聖書に従うことによって、私たちは信仰者として正しい道を歩むことができます。だから、日々、自分自身を聖書に照らし合わせて点検し、聖書のことばを実行しましょう。そうすれば私たちは神から見て正しい者へと整えられてゆきます。すなわち完全に義なるキリストに似た者へと変えられるのです。そして、「神が聖書を通してこの道を歩みなさい」と言っているのだから、それを生きるときには神が聖霊を用いて助けてくださり、神の祝福がはっきりとわかるのです。箴言に「しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。(箴言1:33)」とあります。罪に従った人生は絶え間ない恐れと不安に苦しみますが、聖書に従った人生は安らぎと喜びの人生となります。神は天の御国・永遠のいのちという将来のために私たちに聖書を与えてくださいました。と同時に、天の御国に入るときまで、私たちがこの世で安心して堂々と生きることができるように聖書を与えてくださいました。すべては神の愛によるのです。
■おわりに
日本ウィクリフ聖書翻訳協会によれば、世界には約7400の言語があり、そのうち約3700の言語に聖書全巻あるいは一部が翻訳されています。ただし、翻訳されていても自由に聖書を手にできない国もあります。今、私たちは聖書を何の制限もなく自由に読むことができます。そして、聖書から神の愛を知り、滅びを免れて永遠のいのちに至る方法を知ることができます。当たり前のように思えますが、世界的な視点から見れば当たり前ではありません。私たちがいつも神のことばを読むことができるのはまさに神の恵みと言えます。聖書の一つ一つのことばを大切にして、聖書を通して神から生きる力をもらいましょう。
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