■はじめに
私たちの人生では過去に戻るというのはできませんが、だいたいのことはやり直しあるいは再チャレンジが可能です。皆さんも経験があると思います。一方でやり直しできないものが二つあります。それは誕生と死です。この二つは人生において二度とできません。キリスト教の信仰もそれと同じで、一度キリストを信じたあと何かの都合で信じるのを止めて、しばらくしたらまた信じるというのはありません。サークル活動のように入ったり出たりというのとは違います。なぜなら、キリストを信じる者はそのように神によって変えられているからです。今日は、私たちは成熟を目指せる者にすでに変えられていることを聖書に聞きましょう。
■本論
Ⅰ.キリストを信じる者はすでに新しく生まれているから、初めからやり直すことなく成熟を目指せる(6:1-3)
この手紙の読者であるユダヤ人クリスチャンは、キリストを信じたゆえの迫害を受けています。しかも、キリストを信じていても苦難がなくならないのでキリスト以外に頼ろうとしています。例えば、この当時流行している御使い礼拝とか、元のユダヤ教に戻るといったことです。そんな彼らを著者は信仰の幼子、すなわち幼子が乳をもらっているだけで自分では何もできないように、神のことばを苦難に用いられない者と指摘します。ただし、著者は彼らを放っておかないで助言と励ましを与えます。
1節「ですから」ということばであれば、普通なら「幼子だからもう一度やり直しましょう」と命じるところです。しかし、著者は「キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。(1節)」と勧めます。なぜなら、「基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。(2節)」とあるように、もう一度最初に戻ることなく、現状から先に進むことができるからです。というのも、結論から言えば「キリストについての初歩の教え」が単なる学びではなくて、すでに変えられた証拠だからです。
ここで「初歩の教え/基礎的なこと」を見てゆきます。
①死んだ行いからの回心(1節):「死んだ行い」とはいかなる行いも救いにはならないことであり、行いを重要とするユダヤ教を指しています。行いでは救われないと分かり、救いはキリストのみと信じるのが回心です。
②神に対する信仰(1節):「様々な形式や戒律を守るのが信仰」ではなく、「キリストを救い主と信じるのが信仰」となることです。
③きよめの洗いについての教えと手を置く儀式(2節):洗礼と按手(ある職務に任命する際の儀式)の教え
④死者の復活と永遠のさばき(2節):人は死で終わりではなく、神のさばきによって最終的な行き先が決まることを信じること。換言すれば、キリスト教の核心を信じること。
これらは、人の力で獲得できるものではなく、神が人になすわざです。また洗礼と按手の儀式はそのことを見に見える形にしたものです。しかも、ただ一度で完了であり、何度も下されるものではありません。そのことをパウロはこう言っています。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)」
ですから、たとえ幼子であったとしても、すでにキリストを通して新しい者に変えられているから、神のことばを実践することで信仰の成熟を目指せるのです。それゆえ「初歩の教え/基礎的なこと」は単なる知識ではなくて、神のあわれみによって信仰の成熟を目指す道に既に入れられた証拠と言えるのです。言い換えれば、キリストを信じる前の状態にはもう戻れないのです。ただし、「神が許されるなら、先に進みましょう。(6:3)」と語られているように、信仰の人生はキリストを通して受ける神の助けなしではできません。だから、「すでに変えられているから」という慢心や高ぶりに注意して、神にへりくだらなくてはなりません。
ユダヤ教では神の民であるしるしとして男性には割礼が施されます。これは一生で一度です。一方、エジプト脱出を記念して祝う過越の祭りは毎年行われます。それと同じように、私たちも洗礼という儀式でキリストを信じたことを人々に明らかにしています。これは一生で一度です。一方、キリストの十字架を記念し、救いを確認するために聖餐式を定期的に行っています。神が人に信仰を与えるのはただ一度限りであり、その一度で私たちは新しい人に生まれ変わっているのです。だから、幼子であっても救われる前に戻ることなく、今の状態から成熟を目指すことができるのです。と同時に、私たちはキリストを忘れたり見失ったりしやすいから、キリストをいつも覚えるための手段が必要なのです。
Ⅱ.キリストを信じ神の恵みを味わった者は、神の喜びのために生きる者とされている(6:4-8)
手紙の著者は「幼子であっても成熟を目指そう」と勧めていますが、それと同時に幼子のままに対する警告もしています。
まず著者は救われた者の特徴を述べています(4-5節)。
①一度光に照らされる(4節):神から信仰を与えられて、闇という滅びから光という救いを受けたこと
②天からの賜物を味わう(4節):天の御国における永遠のいのちや神からの恵みを実感すること
③聖霊にあずかる者となる(4節):キリストのとりなしによって聖霊の助けを受けること
④神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わう(5節):神のことばの真実や天の御国の前味を実感すること
これらのことがらは、神が人にもたらすものであり、しかもキリストを信じなければあり得ません。クリスチャン限定です。見方を変えれば、クリスチャンが味わえることがらであり、成熟に必要な神からの養分と言えます。それで著者は、成熟に向かわないことを警告します(6節)。
「堕落」とは「もう一度悔い改めに立ち返る/神の子をもう一度十字架にかける」とあるように、信仰を持つ前の状態に戻ることを言います。手紙の読者で言えば、ユダヤ教に戻ることを意味します。先ほど申しましたように、キリストが死んでよみがえったのは一度きりであり、その一度で人の罪を完全に赦しました。ですから、救われた者クリスチャンがもう一度救いに与ることはありません。神のあわれみによりキリストによってすでに新しい者に変えられているのです。
ただし、救われていても堕落した者のようになるのはあり得ます。例えば、神を無視した生き方、キリストの救いを忘れた生き方、あるいはキリスト以外に頼る生き方はその典型です。あのペテロも、異邦人であってもキリストによって救われる、いわば異邦人でも神の家族になれるというのを体験したにもかかわらず、ユダヤ教の権威者を前にして異邦人から離れてしまいました。キリストを信じても迫害のような苦しみが続いたり、信仰以外で心を満たすものを見つけた時には、誰でも堕落のようになってしまうのです。
そんな生き方に対して著者は「彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。」と厳しく指摘します。神から信仰を与えられ神からのすばらしい恵みを味わったのに神に背を向けるのは、キリストの十字架を台無しにするだけでなく、キリストを再び苦しめているのです。つまり著者は、「キリストがあなたのためにあれほど苦しんだのに」これに目を向けさせ、読者の感情に訴えて神に従うように警告しているのです。不安や恐怖をあおって成熟の道を行かせようとするやり方はユダヤ教と同じです。そうではなくて、救ってくださった神、苦しまれたキリストへの思いから神に従う道に戻させようとしているのです。
この警告について著者は理解を深めるために畑の作物にたとえています(7-8節)。畑がちゃんと耕されて必要な時期に雨を受けて、豊かな作物を実らせれば人にも神にも喜ばれます。しかし、茨やあざみのような害となるものを何シーズンにも亘って生じ続ければ、その畑はおしまいにされます。これと同じように、私たちが神からの恵みを味わった上で神に背くならば、神は怒りの目で私たちを見ているのです。その人生には、光があっても闇しか感じず、永遠のいのちに希望を見出せず、聖霊の助けに気づかず、みことばが真実であることも知らず、天の御国にある平安や喜びを味わえません。キリストを信じた者はキリストの十字架とよみがえりによって新しい人に生まれ変わっています。それゆえ神によってすばらしいものを受け取り、味わえるようにすでになっています。だから、激しい苦難の中でも神を信頼し、神のことばに従ってゆけるようになっているのです。神への信頼から来る勇気によって、一歩踏み出すことが求められているのです。
■おわりに
使徒ヨハネはキリストによる救いについてこう語りました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」御子を信じる者は一人として滅びない、すなわち救われた者がもう一度救われる前の状態に戻ることはありません。たとえ、「私はキリストを信じるのを止めた」となっても、すでに神によって変えられているのです。
私たちは堕落に目を留めるよりも、むしろ「キリストが自分のためにどれほど苦しんだのか。キリストを犠牲にするほどの神の愛とはどれほどなのか」に目を向けましょう。そこから成熟への歩みが始まります。その歩みには、光を見出し、天からの恵みを味わい、聖霊の助けを受け取り、みことばはその通りだと実感し、地上の生活において天の御国のすばらしさを味わえるのです。
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