■はじめに
我が家のニッキ(柴犬)は色々なアピールで、おやつや遊びを要求します。最初はただじっと見ていますが、私たちの反応がないと前足で床をどついたり「こっち来い」のような感じで頭を振ります。それでもダメな時は側に来て前足で「ちょいちょい」と触ります。飼い主の心を自分に向けさせようと、ニッキなりに考えているのです。イエスも様々な形で私たちの人生に介入してくださいます。今日は、マグダラのマリアがイエスのよみがえりを信じるために、イエスは何をしたのかを見てゆきます。
■本論
Ⅰ.マグダラのマリアは御使いを見ても、イエスの姿を見ても、イエスのよみがえりに気づかなかった(20:11-15)
イエスのよみがえりは4つの福音書すべてで扱われています。ただし、マタイ、マルコ、ルカでは墓での出来事を写実的に記しているのに対し、ヨハネではよみがえったイエスが何をしたのかに焦点が当てられています。「イエスが救い主であること」を強調するために、ヨハネはこう書いたと思われます。
マグダラのマリアは弟子たちに空の墓を伝えて、再び墓に戻ってきました(11節)。そして彼女は墓の外で嘆きの涙を流していました。イエスを深く慕う彼女の想いが、遺体を大切に扱いたいという行動に表れています。ただ、彼女の嘆きから分かるように、マリアはイエスが人間として死んだことを全く疑っていません。
マリアはもう一度墓の中をのぞき込んでイエスの体を確信しました。すると墓の中には白い衣を着た者が二人、遺体のあった場所に座っていました(12節)。ユダヤ人は神の遣いである御使いの存在を信じているので(ヨハネ12:29)、彼女は輝いている二人を見て御使いと察します。
ここで二人の御使いは「女の方、なぜ泣いているのですか。」と尋ね、彼女を気遣いました(13節)。これに対してマリアは「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」と答えます。このことばは弟子たちに語ったこととまったく同じです。つまり彼女は御使いを見てもなおイエスの死から離れられないのです。しかも、御使いはイエスの遺体があった所におり、イエスとの関係をアピールしているにも関わらず、彼女はそのことにも気づかないのです。「イエスが人間として死んだ」このことが彼女の心を完全に支配しているのです。
この時マリアは後ろを振り向きました。誰かの気配を感じたのでしょう(14-15節)。死からよみがえったイエスはマリアにご自身の姿を現しました。けれどもマリアは立っている者がイエスと気づきません。御使いのことは分かるのに、イエスとは分からないのです。「朝早いのでもやがかかっていた/涙で見えにくかった」といった理由もあるでしょう。しかし一番の理由は、「私の主であるイエスは死んだ」という思いがいっぱいで、「イエスとは二度と会えない」と確信しているからです。
そんなマリアにイエスは「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と声をかけます。「だれを捜しているのですか。」とあるようにイエスは彼女の悲しみをご存じなのです。ところがマリアはイエスの声を聞いているのに、「だれを捜しているのですか。」のことばからイエスを園の管理人と受け取りました。管理人なので彼女は「あなたがあの方を運び去ったのでしたら」と尋ねるのです。
「私が引き取ります。」と彼女が言うように、マリアは何としてでもイエスの体を丁寧に扱い埋葬したいのです。でもこのことばは「イエスは人として死んだ。絶対によみがえるはずがない。」これを信じて疑わない彼女の心を表しているのです。この彼女の姿は私たちにも当てはまります。私たちも「これは絶対無理/どうにもできない」とこの世の常識に囚われ、神に目が向かないときがあります。しかし、御使いが「なぜ泣いているのですか。」と尋ね、イエスが「だれを捜しているのですか。」と尋ねるように、たとえ私たちがイエスを見失ってもイエスは私たちのことをご存じなのです。
Ⅱ.マリアはイエスの呼びかけによってよみがえりを信じ、イエスのことばに従った(20:16-18)
マリアはイエスに声をかけられても、よみがえったイエスに気づきません。それでイエスの方から行動を起こします。イエスは彼女の後ろから、これまでと全く変わらない声と呼び方でマリアの名を呼びました(16節)。マリアは聞き覚えのある声にすぐさま振り向き、イエスがそこに立っているのを分かりました。「二度と聞くことはない」と信じて止まない彼女に、イエスの声はどれほどの喜びだったのでしょうか。それでイエスはこう言いました(17節)。
マリアは喜びの余りイエスに抱きつこうとしたのでしょう。けれどもイエスは「わたしにすがりついていてはいけません。」とおっしゃいました。これは、抱きつくこと自体をダメ、といっているのではありません。「わたしはまだ父のもとに上っていないのです。」とあるように、イエスには「父の所に戻る」という大事な使命がまだ残っています。よみがえったイエスが父のもとに昇って、はじめて神と人とのとりなしがなされます。そして、イエスに代わって聖霊が人に働き、ユダヤ人だけでなく異邦人ひいては全世界の人々に救いの道が開かれます。イエスが天に上ることで、すべての人が滅びから救われる時代が始まるのです。それで「すがって地上に引き留めてはいけない。」と言うのです。
ここでイエスはマリアがご自身のよみがえりを信じたのを知り、弟子たちに伝言を託します。「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る。」これは、イエスが天の父の所へ戻ることによって、イエス、父である神、弟子たちの関係が定まることを示しています。「イエスの父は神である」「イエスと弟子は共に父なる神の子である」これが実現します。つまり、イエスの十字架の犠牲によって人の罪は赦され、天でのとりなしによって神と人とが和解するのです。聖霊が下った後、弟子たちはこれをを伝えてゆくことになります。
マグダラのマリアはイエスのよみがえりを確信したので、イエスから託されたことを忠実に実行します(18節)。たとえ亡骸であったとしてもイエスのために尽くしたい、このマリアがよみがえったイエスのお役に立つのです。イエスは私たちを見守り人生に介入してくださいます。ただしそれは、心を慰めたり、安心や喜びを与えるためだけではありません。このマリアのように、私たちを通してイエスは神の栄光をこの世に示すために私たちを用いるのです。
■おわりに
マリアは墓の中で御使いを見ても、よみがえったイエスを見ても、イエスから声をかけられても、イエスのよみがえりに気づきませんでした。彼女は十字架での死とニコデモたちによる埋葬を見て、「イエスは死んだ。もう二度と生きて会えない。」と判断し、決してそこから離れません。目の前の事実とこの世の常識にがっちりと捉えられているのです。
現代の私たちも、とてつもなく辛い出来事に会ったときは「神は助けてくれない/ここから抜け出すのは絶対に無理」と、自分ですべてを決めつけてしまう性質があります。けれども、「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と語りかけ、「マリア」と呼びかけるように、イエスはすべてをご存じで、様々な方法で側にいることを知らせ、私たちを助けようとするのです。そして、イエスの介入を経験した私たちが、死んでよみがえったイエスのことを証言し、神のすばらしさをこの世界に明らかにするのです。
後にペテロは手紙にこう書きました。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)」自分の思いやこの世の常識に縛られないで、主イエスの呼びかけに耳を澄ましましょう。
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