・はじめに
神は私たちを罪による滅びから救うために、私たちの代わりに我が子イエスを十字架で死なせました。私たち自身で罪をなくすことができないから、神が犠牲を払って私たちの罪を赦してくださるのです。さらに神は救われる方法も教えてくださいました。それが「イエスを救い主と信じること」です。しかも、人が理解できる言葉で、必要なすべてを明らかにしました。この世界には無い言語とか暗号ではないので、すべての人がイエスによる救いと救われる方法を知ることができます。ですから、救いのことばを聞くか聞かないかは私たちにかかっているのです。今日はイエスの救いのことばに対するユダヤ人の姿を通して、イエスのことばを聞くことについて聖書に聞きます。
Ⅰ.群衆はイエスに関心を持ってはいるが、語られたことばそのものに応答しなかった(7:37-44)
イエスは、エルサレムで行われている仮庵の祭りの中頃、「わたしは神から出た。神から使わされている。」と大声で語りました。ご自身が神の使者で人のために来たことを明らかにしました。人のためとは、人がイエスを信じて滅びを免れ永遠のいのちを受けることを言います。そしてこの祭りの中で再び叫ばれます(37-38節)。
仮庵の祭りでは最終日が最も盛大に祝われ、その後人々は住んでいる場所に戻ります(53節)。祭りでは様々な儀式が執り行われていて、その一つにシロアムの池から水を汲んで祭壇に注ぐというものがあります。これはイスラエルの民が荒野を旅しているときに神が砂漠で水を出して渇きを潤し、命を守ったことを覚えておくための儀式です。それでイエスは水の儀式に関連させて渇きと生ける水について話したのでしょう。
38節「聖書が言っているとおり」とあるように、イエスは旧約聖書のイザヤ書を中心とした預言書のことばを語っています。イエスはまず「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言います。「渇いている」とは、あのサマリアの女のように、自分ではどうすることもできない不安や恐れから解放されて平安や希望に満たされたい、と渇望している状態です。
そのような人が「イエスの所に来て飲む」すなわちイエスを信じると「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とイエスは約束します。以前イエスはこう言いました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。(6:56)」イエスを信じた人の中に、永遠のいのちの源そして助けと守りと良き方向への導きの源であるイエスが生きています。だからどんな状況になったとしても、生ける水という「生きる活力」が川の流れのように、自分の内におられるイエスから流れ出てくるのです。先ほど申しましたように、イエスは「自分は神であり、神からの使者だ」と大声で言われましたが、次には「渇きを解放するために来た」と叫ぶのです。ここに人を大切にする神のあわれみがあります。
ここで39節「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。」とヨハネは補いました。信じた者の中にイエスが御霊として生きるのは、イエスの栄光すなわち十字架で死んでよみがえり、天に戻った後になります。まさにヨハネ自身がペンテコステの時にこのことを経験しました。
イエスのことばを聞いてユダヤ人の群衆に3つの反応がありました。ある人たちはイエスが預言書を引用したので、モーセやイザヤのような預言者だと確信しました(40節)。別のある人たちは預言されたキリスト(メシア)だと確信しました(41節)。ただ、彼らはイエスをローマから解放し神の国を樹立するキリストと見ています。罪からの滅びを解放するキリストではありません。またある人たちはキリストかどうか疑いを持っていました(41節)。なぜなら、キリストはダビデ出身の町ベツレヘムから出ると旧約聖書に約束されているからです(42節)。おそらく群衆はイエスがガリラヤ地方のナザレ出身とは分かっているものの、ベツレヘムで生まれたのは知らないのでしょう。
結局、イエスが何者であるか特定できず、意見が割れました(43節)。中には惑わす者と受け取って逮捕したい者もいましたが、十字架の時ではないので、イエスは捕まりませんでした(44節)。彼らの間で分裂が生じたのは、イエスに何かを期待をしているからです。気にも留めなかったり、自分と関係がないと思ったら分裂はおろか、議論にすらならないでしょう。けれども、イエスが大声で言っている「渇き/生ける水」には応答していません。サマリアの女のように「水をください」と答えていません。渇いているという自覚こそがイエスを求める出発であり、イエスから生ける水を受け取るチャンスなのです。地上の何ものをもってしても心の渇きを潤せません。生ける水によって渇きから解放できるのはイエスのみです。
Ⅱ.祭司長とパリサイ人はイエスを惑わす者と決めつけたが、ニコデモは正統な手続きを取るように進言した(7:45-53)
イエスに関心を寄せているのは群衆だけではありませんでした。祭司長とパリサイ人たちはイエスを殺そうと企て、イエスが語っている神殿に警備の下役を遣わしました(45節)。ラビでもなく、しかも昔からの戒律をないがしろにするような教えで人々をだましている、と見なしてイエスを逮捕するためです。
ところが下役たちはイエスを逮捕できませんでした(45節)。当時ラビたちは「昔からこう言われている/預言者はこう言っている」と他者の権威を借りて語りました。一方イエスは「わたしは/わたしの/わたしを」のように、神から託されたことばを自らの責任で語っています。このイエスのことばと威厳に下役たちは、逮捕を止めてしまうほどに感動したのです(46節)。
彼らの答えはプライドの高いパリサイ人たちにとって屈辱でした。下役が自分たちよりもイエスに感動したのですから当然でしょう。それで彼らは、自分たちのような宗教指導者がだれ一人イエスを信じていないことを理由に、「お前たちもまんまとだまされた」と決めつけたのです(47-48節)。さらに「それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。(49節)」のように、群衆は無知で神から災いを受けるべき者だと見下します。パリサイ人から見ればイエスは律法違反を奨励している人物なのです。
そんな彼らに対してニコデモが語ります(50-51節)。ニコデモはパリサイ人であり、最高法院の議員ですからイエスを葬りたい側の所属です。けれども彼は、イエスに罪があるかどうか判断するには、律法に則って正しい手続きを経なければならないと、進言したのです。自分たちの感情やプライド、あるいは「ガリラヤ出身」というイエスの素性だけで判断するのはおかしいと言っているのです。イエスを殺そうとしている彼らからすれば、ニコデモはイエスをかばっているようにしか思えません。
それでパリサイ人たちは「あなたもガリラヤの出なのか。(52節)」と言い「お前もイエスと同じガリラヤ出身なのか」とあざけりました。その上、律法の専門家であるニコデモに「よく調べなさい」とバカにするのです。自分たちこそが「殺してはならない」のモーセの律法を犯しているのに全く気づかず、それをいさめる者を拒否するのです。
群衆はイエスに関心を持っています。下役たちはイエスに感動しました。ニコデモは正しい手続きを勧めました。にもかかわらず、宗教指導者たちはイエスのことばを聞こうともせず、自分たちの正しさを誇示するばかりです。頑なそのものと言えます。パリサイ人たちは群衆はのろわれていると言いましたが、彼らこそが神から怒られる側なのです。
・おわりに
ヨハネが「イエスのもとに来たことのあるニコデモ」と書いたように、ニコデモは人目を避けるために夜になってイエスのもとを訪れました。ニコデモは神の国を熱心に求めていて、人知の及ばないイエスのわざを知り「神が共におられるこの方なら真理を知っている」と期待していたのです。彼がどのように渇いていたのか聖書からはわかりません。しかし確かにニコデモはイエスに真理を求めていました。
そのニコデモが律法に則ってさばくように仲間に言いました。イエスの所に行きイエスと会っているのを秘密にしたい彼が、仲間の不正を指摘しイエスの公正な裁判を忠告したのです。イエスのもとに行きイエスから教えを聞くことで彼は変えられたのです。ニコデモの内にあった恐れや不安はなくなり、仲間からどう見られようとも正義を貫ける者になりました。まさにイエスに信頼しイエスに聞く者は新たにされるのです。
イエスを救い主と信じた私たちも新しくなり、イエスは今私たちの内に住んでおられます。永遠のいのちの源そして助けと守りと良き方向への導きの源であるイエスが私たちの中で生きています。私たちはイエスという生ける水によって不安や恐れから解放されているのです。
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