1月19日「万軍の主のことば」(ゼカリヤ書1章1-6節)
- 木村太
- 1月19日
- 読了時間: 8分
■はじめに
旧約聖書の民数記を見ると、神はイスラエルの民をエジプトから脱出させた後、荒野を旅する中で約束の地カナンへの偵察を命じました。それで12部族の代表12名からなる偵察隊が現地を調べました。その結果、「乳と蜜が流れる地」の約束通り、カナンは素晴らしい土地だと彼らは認めました。しかし、そこに住む民族が自分たちよりも強大であると知って、12人のうち10人が嘆きました。神の驚くべき力によってエジプトから解放されたのを経験していても、神が約束した土地だとわかっていても、落胆し心が萎えてしまったのです。私たちも「イエスはいつもともにいる」と心得ていながらも、大きな困難にぶつかったり、長く続いたりすると気落ちするものです。あるいは、意気揚々と物事に取り掛かった直後に壁にぶつかると、やる気を失うことがあります。そのように落胆したり、神への信頼が弱くなった者を激励する書がゼカリヤ書です。今日からこの書を通して神がどのように私たちを励ましてくださっているのかを見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.主は父祖たちの背信と滅亡という事実から、悔い改めを勧告した(1:1-4)
ゼカリヤ書を味わうために、まずこの書の背景を簡単に解説します。BC586バビロニアによってエルサレムは陥落し、南王国ユダは滅亡しました。そして、エルサレムの住民はバビロニアに囚われてゆきました。これをバビロン捕囚と言います。その後、バビロニアはペルシアによって滅ぼされ、BC539クロス王が捕囚のイスラエル民族にエルサレムへの帰還を許可し、同時に神殿を再建するように命じました。
BC538エルサレムに戻った彼らは早速、信仰の拠り所である神殿の再建工事に取り掛かります。ところが周囲の敵による妨害によって工事は中断し(エズラ4:23)、ダレイオス王第2年(BC520)まで約18年間、手つかずになりました。ただ、18年間もそのままだったのは妨害だけが理由ではありません。そのことを預言者ハガイはこう記しています。「万軍の【主】はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。【主】の宮を建てる時は』と言っている。」すると預言者ハガイを通して、次のような【主】のことばがあった。「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」(ハガイ1:2-4)」つまり、工事が中断したままなのは、彼らの不信仰と怠慢のためだったのです。それで主なる神は工事を再開させるために預言者ハガイとゼカリヤを遣わし、彼らの口を通してエルサレムの住民を奮い立たせたのです(エズラ4:23-5:2)。その結果、神殿は4年後のBC516に完成しました。
1節を見るとゼカリヤは「イドの子ベレクヤの子」という家系です。ベレクヤは聖書でここだけですので全く不明です。一方、イドは最初に帰還した祭司の名簿に登場する人物と思われ(ネヘミヤ12:4)、このイド族のかしらでゼカリヤという人物が本書のゼカリヤと思われます(ネヘミヤ12:16)。ただ、「預言者ゼカリヤに、次のような【主】のことばがあった。」とあるように、ゼカリヤの家系がどうであれ彼が預言者であることは間違いありません。
主は預言者ゼカリヤにこのことばから語り始めます(2-3節)。工事を再開させるためであれば助言や叱咤激励がふさわしいと思われます。しかし、主は彼らの先祖すなわち神の国であるユダ滅亡に至らせた者たちへの激怒を取り上げます(2節)。その上で、「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」と言います(2節)。「わたしに帰る」とは「主に向き直り主を信頼して主に従う」いわゆる悔い改めです。つまり「主に従えば祝福、背けばのろい(罰)」という主なる神と神の民との約束を示し、主は悔い改めを求めているのです。
先ほど申しましたように、工事中断が長引いたのは彼らの信仰が弱くなり、主への信頼が小さくなっているためです。それゆえ、主は工事再開のために方法論とか精神論ではなく悔い改めを迫り「従えば祝福する」ことに彼らの目を開かせるのです。ここに、「イスラエルの民が神の民として再び祝福の道を歩んで欲しい」という神のみこころが伺えます。先祖たちの激怒から語り始めたのも、彼らと同じ道を歩んで欲しくないからです。これが神の民を決して見捨てない神のあわれみです。
その思いが次のことばに現れています(4節)。先祖たちが主に激怒されたのは、彼らが主に背き続けたためでした。主はイザヤやエレミヤといった預言者を通して、彼らが習慣になっている背きを止めて、悔い改めるように命じ続けました。何とかしてのろいではなく祝福の道を歩んで欲しいからです。しかし、彼らは主のことばに聞き従わないどころか、耳を傾けず無視したのです。主のあわれみよりも自分たちの思いを優先し、他の神々あるいは周辺の国々に頼り続けました。その結果、主は激怒しバビロニアを用いて神殿を破壊させ、ユダ王国を滅亡させ、バビロン捕囚としました。「あなたがたの先祖のようであってはならない。」は警告であると同時に「神殿再建」という祝福を与えたい神のあわれみなのです。
私たちの人生には激しく落ち込んだり、気力が失せてしまう出来事があります。そんなとき私たちは「どうして神はこんなことを/神を信じて何になるのか」という思いが沸き上がります。その思いが強いほど、神ではなく他の何かに頼りたくなるものです。しかし神は「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」と、私たちがどうであろうと決して見放さず見捨てないことを語ってくださいます。神は御子イエスを犠牲にするほど私たちを大切にしています。だから私たちはどんなときでも神のあわれみに身を委ねるのです。
Ⅱ.人は死んで地上から消えても、主の約束は永遠に変わらない(1:5-6)
主は悔い改めの勧告に続いて、彼らの先祖たちがどうなったのかを語ります(5-6節)。5節「今どこにいるのか/永遠に生きるだろうか」は「今はどこにもいない/永遠に生き続けない」を強める言い方です。神に激怒されユダ王国を滅亡に至らせた先祖たちは、全員死にました。というのも、バビロン捕囚は約70年間ですから、エルサレムから連れて来られた成人は異国の地で死んだからです。エルサレムに戻ったのは彼らの子や孫たちです。ですから、明らかに先祖たちは神の罰を受けたのです。同じように預言者たちも永遠に生きられず、死を迎えます。ただし、彼らは神の怒りによる死ではなく寿命です。
主がここで言いたいのは、のろいという罰が先祖たちに与えられたことではありません。罰にせよ寿命にせよ人間は消え去る事実を示したいのです。その上で、ご自身の約束すなわち「主に従えば祝福、背けばのろい」がいつまでも有効であることを6節で語ります。つまり、人や世の中は変化しても、主のことばは決して変わらないことを強調するために、人のはかなさに触れているのです。
主はモーセのようなリーダーや預言者たちを通して、警告や守るべきことをイスラエルの民に伝えました。そして、そのことばは滅亡前の彼らに確実に届いていました。それゆえ、ユダ王国の滅亡を体験し、捕囚となった者たちは「『万軍の【主】は、私たちの生き方と行いに応じて、私たちにしようと考えたことをそのとおりになさった』と神が約束通りなしたことを告白するのです。主からの警告を聞いていたにもかかわらず、それを無視した結果が滅びだとわかったのです。これが立ち返り、すなわち悔い改めに向かわせたのです。
主はエルサレムに戻った民に対し、彼らの先祖たちの「背きとのろい」を語りました。「主に従えば祝福、背けばのろい」の約束が必ず果たされることを先祖たちの有様が証明しています。これによって「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」のことばが真実であり、勧告に効き目が増し加わるのです。
「主のことばは真実であり、必ずその通りとなる」というメッセージは、信仰が弱くなっているエルサレムの住民に対してだけに向けられていません。現代の神の民、私たちクリスチャンにも向けられています。神は「約束を果たすという誠実」「直ちに滅ぼさず警告するという忍耐」といったご自身のご性質をイスラエルの歴史を通して私たちに知らせています。加えて、イエスの死からのよみがえりと昇天を通して、神のことばには誤りがないことを私たちに知らせています。それゆえ私たちは、聖書に記された神のことばを信頼して、神に従うのです。その歩みにおいて、私たちは神からの助けや励まし、慰め、希望を受け取るのです。
■おわりに
主は預言者ゼカリヤを通して、神殿再建工事を中断している民に「悔い改めの勧告」からことばを語り始めます。この時、主はご自身のことを「万軍の主」と呼んでいます。どれほど強い敵であっても、どれほど敵の数が多くても、「万軍の主」である主の相手にはなりません。主は、敵の妨害を受けて気落ちしている民に「万軍の主」がついているという安心を与えているのです。彼らの先祖たちを反面教師として扱っているのも、「万軍の主に頼れ」という勧告を強めています。
私たちは肉体的にも精神的にも持てる力には限界があります。それゆえ、対応できそうにない困難にぶつかると私たちは弱くなるのです。けれども、私たちにも「万軍の主」なるイエスがいつもともにいます。「万軍の主」なるイエスとともに生きているから、私たちは気落ちしたり心が萎えても、立ち上がることができるのです。
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