6月1日「嘆きから喜びへ、蔑みから懇願へ」(ゼカリヤ書8章18-23節)
- 木村太
- 6月1日
- 読了時間: 8分
■はじめに
皆さんは「バタフライエフェクト」という言葉を知っていますか。この言葉は気象学者のエドワード・ローレンツの講演タイトル「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」に由来し、「わずかな変化が、予想もしない大きな変化を引き起こす」という意味で使われます。身近なところで言えば「誰かの何気ない一言で人生が激変した」こんな出来事が当てはまると思います。ある意味、キリスト教も「バタフライエフェクト」と言えます。イエスという一人の死とよみがえりが今や全世界に影響を及ぼしているからです。今日は、残りの民に対する祝福の約束がどんな影響を与えるのかをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.イスラエルにとって嘆きの日は喜びの記念日となる(8:18-19)
主はバビロン捕囚からエルサレムに戻って来た者たち、いわゆる民の残りの者に祝福を決意し、それを告げました。祝福とはイスラエルが再び平安と繁栄の国になるということです。さらに主はご自身の祝福がイスラエルのみならず、他の国々にも影響を与えることを語ります。ここで、「万軍の【主】はこう言われる。(19,20,23節)」を3回語っていますので、今回は3つのことがらに分けて見てゆきます。
はじめに18-19節を見ましょう。イスラエルの民は捕囚の地で年4回断食をしていました。それぞれに断食をする理由があります。
・第四の月の断食:エルサレムの城壁が破られたこと
・第五の月の断食:エルサレムが陥落し、神殿が破壊されたこと
・第七の月の断食:エルサレムを占領していた軍との関係が悪化し、状況が絶望的になったこと
・第十の月の断食:バビロン軍によってエルサレムが包囲されたこと
いずれの出来事も、ユダの家すなわち滅びから生き残った民にとって悲劇です。それゆえ、これらの断食は悲劇を忘れず嘆き悲しむための記念日なのです。
ところが主はこれらの断食が「楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。(19節)」と言います。嘆き悲しむ日は今や喜び楽しむ日に取って代わりました。なぜなら、これらの悲劇は彼らの父祖たちの背信による神の怒りだからです。前回申しましたように、主は父祖たちにわざわいを下そうと決意し、その通り実行しました。つまり、これらのわざわいは父祖たちへの主の怒りが、これで鎮まった証しなのです。一方でこのわざわいは、民の生き残りの者を祝福する日の始まりでもあります。だから、断食の日はうれしい例祭と呼ばれるように、自分たちをあわれみ祝福してくださる主を記念する祝いのときとなるのです。
その上で主は「だから、真実と平和を愛しなさい。」と命じます。主は再び民の残りの者たちを神の民として認め、祝福してくださいます。ですから、主のあわれみに感謝するがゆえに、「真実と平和」という主のみこころに従うのです。主への信頼と感謝がふるまいに表れるのです。
イエスの十字架での死を記念する「受難日」は「Good Friday」とも呼ばれます。この日私たちは、私たちが負うべき苦しみをイエスが代わりに負ってくださったことを思い起こし、その想像を絶する苦痛に心を向けます。と同時にイエスの十字架によって私たちの罪が赦されました。だから「受難日」であり「Good Friday」なのです。今や私たちはイエスよって神の民に加えられ、天の御国を相続できるから、神への愛に基づいてふるまうのです。
Ⅱ.イスラエルを取り巻く国々は、今やイスラエルの神である主に恵みを求めにやって来る(8:20-22)
続いて主はイスラエルの民以外の者について語ります。20節「諸国の民/多くの町々の住民」は、文字通りに解釈すれば、エルサレムを都とするイスラエルを取り巻く国々や民族になります。ただし、23節では「外国語を話すあらゆる民」とも語られていますから、全世界と言えるでしょう。さらに、「再び(20節)」「強い国々(22節)」とありますから、以前イスラエルを攻めてきたエジプトやアッシリア、バビロニアといった強大な国々を主は意識しています。こういった国々が、エルサレムに再びやって来ます。先ほど4つの断食で見ましたように、前回は破壊と占領が目的でした。しかし、今回は違います。
21-22節で「【主】の御顔を求め、万軍の【主】を尋ね求めよう。」が繰り返されているように、諸国はイスラエルの神である主のみこころを求めにやって来ます。具体的には主からの助けや繁栄といった主の恵みを切に求めるために、エルサレムに来るのです。しかも「一つの町の住民はもう一つの町へ行き」とあるように、他の人々を誘いたくなるほど強く求めています。
この様子から分かるように、彼らは主を自分たちの神として認め、さらにこの主がエルサレムにおられると確信しています。見方を変えれば、無敵を誇る自分たちでさえもイスラエルの神にはかなわないと認めているのです。
なぜ、強大な諸国はこうなったのでしょうか。かつて、これらの国々は圧倒的な力でイスラエルを滅ぼし、支配下に置きました。彼らがこうできたのはイスラエルの神を無視したり、見くびっていたからです。そして、イスラエルの民は彼らにとって取るに足りない小さな存在となりました。ところが今や弱小のイスラエルが主の祝福によって平安と祝福を取り戻しているのです。つまり、エルサレムに戻って来た民の残りの者の姿を通して、諸国の人々は主と呼ばれる神の存在と計り知れない力を認めたのです。自分たちの力や自分たちの神々よりもはるかに優る主を畏れたから、平和や繁栄を力ずくで勝ち取ろうとせず、主に恵みを懇願したのです。
ヨシュア記でもラハブやギブオン人はイスラエルの民を通して主の圧倒的な力を知りました。割れた海を通って来たことやシホンとオグに勝利したことはその代表です。それでラハブたちは主を畏れました。主はイスラエルの民や私たちクリスチャンの生き様を通して、ご自身の存在と計り知れない力をこの世に明らかにし、主を畏れ主に恵みを求める者を起こすのです。
Ⅲ.イスラエルは、神に恵みを懇願する異邦人を神の民として受け入れる(8:23)
さらに主は、エルサレムにやって来た者たちが何をするのかをこう語ります(23節)。「その日には」は一日ではなくて、主が幸いを決意しイスラエルを祝福してからメシアによる神の国完成の日までを言います。この期間、外国語を話すあらゆる民、すなわち列強を含む全世界がエルサレムに来ます。よく耳にする言葉で言えば「異邦人」が来るのです。
そして、異邦人のうちの十人が一人のユダヤ人の裾を固くつかみます。「十人」は人数というよりも「一から十まで」のように「ものごと全体」を指す言い方です。つまり、エルサレムに来る異邦人のすべてが一人のユダヤ人の裾を堅くつかみます。「裾を堅くつかむ」は絶対に手を離さないで、すがる様子を表しています。なぜ彼らがエルサレムにいるイスラエルの民にすがるのか、その理由が23節後半です。『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』
「神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。」とあるように、異邦人はイスラエルの民と一緒であれば滅ぼされずに祝福を受けられると信じています。だから、着物の裾をしっかりとつかむのです。ユダヤ人と一緒に行くというのはユダヤ人の共同体に入ることですから、ユダヤ人の神である主に従う者になることを意味します。つまり、ユダヤ人と同じように神と契約を結んで、神の民となることを彼らは強く望んでいるのです。
かつて、列強の異邦人はイスラエルの民を攻撃し、子どもから老人まで躊躇なく命を奪いました。さらに、神に見捨てられた民、神にのろわれた民と蔑みました。しかし、その彼らが今やユダヤ人に恵みをすがり、ユダヤ人の一員になりたいと強く求めているのです。まさに大逆転です。主の祝福はイスラエルの民、いわば神の民にもたらされますが、それが全世界に及んで全世界が「主だけが神であり、この主だけが恵みをくださる」と信じるようになるのです。
■おわりに
主の祝福の決意によって異邦人とイスラエルの関係はまるっきり変わりました。かつては「滅ぼす側と滅ぼされる側」だったのに、今では「恵みを乞い願う側と乞われる側」になったのです。ただし、この世での逆転とは違います。この世では主従逆転や上下逆転のように立場が入れ替わります。しかし、キリスト教は違います。
以前、主はこう語りました。「その日、多くの国々が【主】に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。』このときあなたは、万軍の【主】が私をあなたに遣わされたことを知る。(ゼカリヤ2:11)」神の民、こんにちでいえばクリスチャンは「かつてどんな人だったとしても主を畏れ、主に信頼し、主を求める者」を神の民、神の家族として受け入れます。決してやり返したり、支配しないのです。なぜなら、私たちもかつては神に背き神の怒りを免れない者だったのに、今や神のあわれみによるキリストによって怒りを免れて神の民に加えられ、天の御国という相続を受けたからです。「主から祝福を受けた者が主を証しし、その証しによって主を求める者が起され、その者が主を信じて神の民に加えられる」こうして地上において神の国が広がってゆくのです。
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