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5月4日「真実の都」(ゼカリヤ書8章1-8節)

  • 木村太
  • 5月4日
  • 読了時間: 7分

■はじめに

 聖書には、私たちがやがて入る神の国いわゆる天国の様子が記されています。例えば、イザヤ書では「狼は子羊とともに宿る/雌牛と熊は草をはむ/乳飲み子はコブラの穴の上で戯れる(イザヤ11:6-9)」とあり、一切の恐怖がなく、完全な平和や安心の世界です。また、黙示録では「神は人々とともに住み、人々は神の民となる/もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去った(黙示録21:3-4)」とあり、あらゆる悲しみや辛さから永遠に解放された世界です。今の世界状況からすれば想像できないし、絶対にあり得ないことのように思えます。戦争で人類が滅びる方がよほど現実的と言えます。けれども、聖書に記されている神の国とその到来は事実です。今日は、神の国の素晴らしさと約束の確かさについて聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.神はイスラエルを激しく愛するから、彼らに永遠の平安と繁栄を約束する(8:1-5)

 イスラエルの民は国が滅亡してから70年後に捕囚の地からエルサレムに戻って来ました。その彼らに主なる神は「わたしに帰れ、そうすればわたしもあなた方に帰る(1:3)」と約束し、「若枝なるメシアによって神の国が完成する」ことを幻を通して告げました。「あなた方に帰る」が何であるかを明らかにしたのです。そして主は、神の国についてさらに詳しくゼカリヤに語ります。

 

 シオン(2節)はイスラエルの都エルサレムの別な呼び方であると同時に、イスラエルの象徴です。主はシオンを熱く愛するのですが、その程度が「ねたむ/激しい憤り」から伝わってきます(2節)。「ねたむ」は「主ではないものを愛し従ったシオン」に対する怨みであり、「激しい憤り」は「主を捨てて他に走ったこと」への怒りです。そういった感情が湧きあがるほど主はイスラエルを想い愛しているのです。しかも、イスラエルがこれまで幾度も主に背いても主の愛は変わりません。さらに、「彼らが主の目に正しく歩んでいる/心から悔い改めている」といった彼らのふるまいによるのでもありません。まさに無条件で一方的な愛なのです。この激しい愛ゆえに主は神の国という大いなる祝福を与えるのです。

 

 主は激しく燃えるような愛を語ってから、その愛によって具体的に何をするのかを明らかにします(3節)。主はイスラエルの都エルサレムに戻り、その中心である神殿に住まわれます。ただし、「ただ中に住む」は単に主の行動だけを意味しません。「ただ中」は主の力がイスラエル全体に偏りなく及ぶことであり、「住む」には「永遠に住む」という意味があります。つまり、主が永遠にイスラエルを治め、その力が目に見える形で表れるのです。それゆえエルサレムは真実の都、すなわち「間違いなく神が治めている都だ」と誰からも認められ、「聖なる山(エルサレムの別称)」すなわち「エルサレムは神の所有だ」と誰からも認められるのです。ちょうど、ラハブが出エジプトの出来事を聞いて、「イスラエル民族は神に守られている」と認めたようにです。

 

 ここで主は「真実の都/聖なる山」がどんな様子なのかを語ります(4-5節)。老人や子供が広場に集まるというのは、平和で安心な社会の証拠です。また、老人が兵役や労働に取られなく長寿であり、同時に、子供がいっぱいというのは国が平和だけでなく豊かさに満ちている証拠です。イスラエルが滅びに向かっているときには老人も子供も虐殺されました。その上、極度の貧しさから子供を食べた者もいました。けれども、主がただ中に住む真実の都では、あらゆる不安や恐怖や絶望から解放され、完全な平安と繁栄と喜びが永遠に続くのです。4節「再び」とあるように、ちょうどダビデが治めていた時代のような国となるのです。

 

 イスラエルの民はバビロン捕囚からエルサレムに戻り、敵の妨害にあいながらも、預言者ゼカリヤ、大祭司ヨシュア、総督ゼルバベルの下で神殿を再建しています。そんな彼らにとって、これらの主のことばが生きる希望となるのです。それと同じように、「イエス再臨によってもたらされる天の御国」いわば「私たちにとっての真実の都」この約束が困難を生きる私たちに生きる希望となるのです。

 

Ⅱ.イスラエルにとって神の約束はとうていあり得ないことだが、神は間違いなく果たすことを保証する(8:6-8)

 主はまず、神の国がどういったものかを語りました。続けて主は神の国という約束の確かさを語ります。6節「この民の残りの者」とは7-8節「日の出る地と日の沈む地から救い、彼らを連れ帰り、エルサレムのただ中に住まわせる」この民を言います。「日の出る地」は東のバビロニアやペルシア、「日の沈む地」は西のエジプトと思われますが、ここはむしろ「東から西まで」という表現で「すべての所」と解釈すべきでしょう(例えばマタイ8:11)。つまり、残りの者とは囚われとなって生き残り、散らされていた場所からエルサレムに戻ってきた者たちなのです。

 

 彼らは「その日(6節)」すなわち若枝なるメシアによって神の国が実現したとしても、そのことを不思議に見るかもしれない、と主は言います。「不思議に見る」とは「理解できない様子」を表しますから、「彼らは神の国のことをとうていあり得ないと思っている」このことを強調しているのです。彼らがそう思うのも当然です。現在、エルサレムはいまだ荒れ果てていて、神殿建設を妨害する者もいます。しかも強大なペルシアの支配下にありますから、真実の都は現実的ではありません。さらに、国が滅亡するほど背いてきましたから、主が自分たちを祝福するというのは、この世の常識からすればあり得ません。

 

 しかし、主は「わたしの目には、不思議に見えるだろうか。いや、不思議ではない(6節)」と言います。言い換えれば、主にとっては当然なのです。その理由を主はこう言います(7-8節)。主は「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」と断言します。先ほど見ましたように、断絶していた神と神の民との関係が完全に回復します。誰が見ても「あの民族にはいつも神がともにいて、神が守り神が栄えさせている」と認めるようになるのです。

 

 しかも主は「わたしは真実と義をもって彼らの神となる。(8節)」と言っています。「真実をもって」とは「彼らの神となることを間違いなく実行する」ということです。また「義をもって」とは「神はご自身の正しさに基づいていること」を言います。つまり、「私は関係回復と神の国という約束を必ず果たす」このことを主ご自身が保障しているのです。違う言い方をするならば、主はご自身に誓って約束を果たすと宣言しているのです。1-8節を見ると、主は一つ一つのものごとの前あるいは後で「万軍の主はこう言われる」と語っています。ここにも「間違いなく約束を果たす」という主の誓いが埋め込まれています。

 

 私たちが約束を信じるには2つのことが大事です。一つは、「約束したことが現実にあり得るかどうか」であり、もう一つは、「約束した相手が必ずそれを守るかどうか」です。この2つが揃わなければ私たちは約束をそのとおりに信じられません。神はイスラエルに完全で永遠の平安と繁栄を約束しました。ただ、イスラエルの民は現状からすればとうてい信じられません。けれども、神はご自身にとって不可能は一つもないこと、そして必ず約束を守ること、これを彼らの歴史を通して明らかにしてきました。出エジプトはその典型です。自らの歴史を丁寧に振り返れば、神の約束を信じることができ、その約束によって希望が生まれるのです。

 

■おわりに

 福音書を通してイエスは私たちにこう約束しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)/御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3:36)」

 

 イエスを救い主と信じる者は永遠のいのちを持ちます。すなわち、死んでもよみがえって天の御国で永遠の平安を生きます。一方、信じない者は神の怒りである滅びに定められます。現代日本の思想や科学からすれば、とうてい信じられないことがらです。「ばかげている」と言われても不思議ではありません。しかし、イエスはそれが真実であり必ずそうなることを、ご自身の死とよみがえりと昇天によって証明しました。この世では絶対にあり得ないことを見せることで、ご自身の約束が本当であり、必ず果たされることを保証したのです。だから、ペテロやパウロといった使徒たちの宣教は、イエスの死とよみがえりが中心でした。「イエスが再びこの世に来られた時この世は終わり、新しい天と地である神の国が到来する。そして私たちは滅びを免れてそこに入る。」この神の約束は本当であり、必ず果たされます。これが私たちの希望であり、生きる力なのです。

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