5月25日「主は祝福を決意する」(ゼカリヤ書8章9-17節)
- 木村太
- 5月25日
- 読了時間: 7分
■はじめに
ヨハネの福音書8章には、姦淫の罪で捕まった女がイエスによって命を助けられた出来事が記されています。一連の出来事が終わった後、イエスはこう言っています。「イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)」イエスに出会うまで、女には安心どころか生きる余地さえありません。まさに暗闇です。しかし、「はい。主よ。(ヨハネ8:11)」とイエスを主と呼んだ女をイエスはさばかず赦し、二度と罪を犯さないように命じました。まさに暗闇にいる女にとってイエスは光になりました。つまり、父なる神はこの出来事を通して「イエスによる救いの時代が来た」ことを明らかにしたのです。違う言い方をするならば、イエス到来によって「背いたら即わざわい」のときは終わり、「最後の審判とイエスによる滅びからの救い」という祝福のときに入っているのです。今日は、「主は祝福を決意している」このことついて聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.主は祝福の約束を明らかにすることで民の残りを励まし、神殿再建に進ませる(8:9-13)
バビロン捕囚からエルサレムに戻って来た民は、今、神殿を再建しています。ただし、ペルシアによる支配は盤石で、しかも周辺の敵は再建作業を妨害します。それで人々は神殿再建の意欲を失っていました。そのため主はゼカリヤを通して八つの幻や真実の都という励ましを与えたのです。さらに彼らを励ますために畳みかけるように主は言います。
主は真実の都、永遠に平安と繁栄が続く神の国をご自身が完成させると約束し誓いました。ただし、こういった励ましについては今始まったことではありません。今から約20年前に神殿の基を据えて工事を開始したときから、ゼカリヤやハガイといった預言者から声がかけられているためです(9節)。だから、「勇気を出して完成させなさい」と励ますのです。主は常に見守り支えていることを伝えたいのです。
ところが人々は祖国の滅びと現状を見た時に、「主は相変わらず怒っているのではないか。」と思っています。約20年間励まされていても、「本当にそうなのか」と疑っているのです。そこで主は彼らの疑念を慮ってこう言います。(10節)
確かに、その日以前、すなわち神殿再建の前は滅亡と捕囚の時代であり、あらゆる働きが報われないという空しさや落胆、さらに争いによる不安と恐怖の日々でした(10節)。なぜなら、イスラエルの民が再三の警告を無視して神に背き続けたため、神の怒りが極みに達して彼らにわざわいを下したからです。
それに対して主は「今、わたしはこの民の残りの者に対して、かつての日々のようではない。(11節)」と言います。「この民の残りの者」とはエルサレムに戻って来た人々であり、バビロン捕囚によって滅びを生き残った子孫です。つまり、「あなた方の父祖たちに対するわざわいの時期は終わり、新しい時期に入った」と主は伝え、彼らの不安や疑念を取り除こうとしているのです。
そして主は「かつての日々ではない時期」になったことを具体的に話します(12-13節)。かつての日々では、あらゆる働きが報われませんでした。しかし今は「ぶどうの実、大地の実り、天からの雨」といった主の恵みが与えられます。「これらすべてを受け継がせる」とあるように、再び神の民として神の恵みを受け取れる立場になったのです。また、かつての日々では、イスラエルは「神にのろわれた国」と他国から蔑まれました。しかし、今は「神から祝福された国」と他国のあこがれになるのです。主は「背きに対する怒りのときは終わり、祝福のときに入っている」と宣言します。「かつての時代はもう終わった」と伝えることで、気落ちしている民の残りを励ますのです。
旧約聖書の詩篇には神のみこころがこのように記されています。「【主】はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。主はいつまでも争ってはおられない。とこしえに怒ってはおられない。(詩篇103:8-9)」主は人の背信を怒りますが永遠ではありません。別な言い方をするならば、ご自身が定めた罰を超えて罰は与えません。一方、人間は感情に左右されやすいので、限度を超えて罰したり、あるいは罰が終わってもいつまでも怒りや怨みが残るものです。イスラエルを滅ぼすという罰によって主の怒りは収まるから、民の残りには再び祝福を約束するのです。
私たちも今や「信仰によって最後の審判が決まる」時代を生きています。旧約聖書のイスラエル民族のように「神に背いたら直ちに罰せられる」という時代は終わったのです。それゆえ、神の罰を毎日ビクビクすることなく、救ってくださった神に感謝し、神の喜びのために生きるのです。
Ⅱ.主は民の残りにはわざわいではなく祝福することを決意している(8:14-17)
さて、主は民の残りを祝福するという思いをこのように伝えます(14-15節)。先ほども申しましたように、主は背き続けたイスラエルの民に怒り、罰としてのわざわいを与えました。具体的には、アッシリアを用いて北王国イスラエルを滅ぼし、バビロニアを用いて南王国ユダを滅ぼしました。その際、主はわざわいを思い直しませんでした。14節「思い直す」は「かわいそうに思う」とも訳されますから、主はそれほどイスラエルに怒りを燃やしていたのです。だから、主はわざわいの決意を覆すことなく、実行したのです。
それと同じように、主は「エルサレムとユダの家」すなわち民の残りを幸せにすると決意します(15節)。彼らの父祖に対するわざわいはもう終わったから、彼らを祝福しようとするのです。しかも、滅亡というわざわいの出来事が、「主が決意に従って必ず行動すること」を証明しています。過去の事実が「主のみこころがその通りになること」を明らかにしているのです。それゆえ、「祝福の決意」も間違いなく実行されるから、「恐れるな」と言えるのです。
ここで主は「恐れるな」と同時に彼らのなすべきことを命じています(16-17節)。これらのことがらは、すでに断食の件で語っていたように(7:9-10)、「主のご性質に倣って生きる」命令です。16節は主の正しさや善をなすことであり、17節はそれらを妨げる気持ち、いわゆる罪を遠ざけることです。「心の中で悪を謀る」「偽りの誓いを愛する」は自分の欲望を満たすために人を苦しめる思いですから、これらを遠ざけなければ、真実を語ったり、平和を目指したり、正しい判断を下したり、他者にとっての善をなすことはできません。
ここで注意しなければならないのは、「主に倣った生き方」が「主からの祝福」をもらえる条件ではないということです。主は祝福を決意しています。つまり、これから先、主からのすばらしい恵みが間違いなく与えられるのです。「気が変わった」とか「都合によりできません」は決してないのです。また、この世では将来何が起こるのかわからないから、100%そうなると断言できません。けれども、主の決意は絶対に果たされます。だから、神殿を再建している人々は、将来のことだけれども「主からの祝福」が確定しているから、主のことばに従うことができるのです。
エルサレムに戻って来た人々はこれまでの歴史と主のことばを振り返った時に、「主の決意は変わらない」ことを確信できます。それゆえ、「祝福の決意」を信じるから、主のことばに従い、恐れることなく神殿再建に立ち向かえるのです。同じように、現代の私たちも「天の御国で永遠に平安を生きる」ことが確定しているから、これを希望として主に従いながら人生を送ることができるのです。「滅びから天の御国への救い」は「善い行い」の報いではありません。神からの一方的な約束なのです。
■おわりに
神はアブラハムにこう約束しました。「【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。(創世記12:1-2)」アブラハムはこの約束を信じて、神のことばに従ってこの世を生きました。
それと同じように、イエスは私たちにこう約束しました。「イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)」そしてその通り、神は私たちへの怒りをイエスに与え、私たちへの怒りを収めてくださいました。それがイエスの十字架での死です。ただし、アブラハムの場合は「まだ見ぬ地」という約束でしたが、私たちの場合は「イエスの誕生、十字架での死、三日目のよみがえり、天の御国に戻ったこと」という過去の事実があります。ですから、なおさら神の約束を信じられる状況にあるのです。神はイエスを通して私たちへの祝福を決意しています。このことを人生の支え、励ましにしましょう。
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