■はじめに
三笠は今、冬の真っ直中にありますが、あと2ヶ月もすれば寒さがゆるみ雪が溶けて春を迎えます。このことは毎年必ずやって来るから、私たちは厳しい冬を辛抱できます。人はゴールがはっきりしていると辛い仕事やトレーニングを忍耐しながらできるものです。もし、終わった時にうれしいご褒美があるとしたらなおさらです。今日は、信仰の人生にもゴールとご褒美があることをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.私たちは「天の御国」という約束が希望となるから、忍耐しながら信仰の人生を歩むことができる(6:9-12)
この手紙の著者は幼子のような信仰の読者に成熟を勧めるとともに、厳しい口調で堕落の危険を語りました。彼はユダヤ人クリスチャンに迫害の中でも信仰を貫いて欲しいのです。そこで彼らに励ましのことばをかけます。
9節「だが、愛する者たち」と呼びかけるように、著者を含めて迫害の中でも信仰を貫いている者たちは、苦しんでいる読者を大切な存在としています。今申しましたように、著者らは幼子の信仰と堕落を良いあり方と認めていません。一方で「あなたがたの働きや愛/神の御名のために愛を示した(10節)」とあるように、彼らが神のために熱心に働き、クリスチャンの同胞を援助しているのを、良い働きと認めています。それで著者は「あなたがたは救い、すなわち天の御国まで信仰を貫ける」とほめ、「神はあなたがたの良いところもちゃんと見ている」と励ますのです。
ただし、11節「あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して」とあるように、神のための熱心さにはばらつきがありました。しかも、一部の者たちはキリストに見切りをつけて御使い礼拝や元のユダヤ教に行こうとしています。不安定な集団においては、たとえ一部であっても離れてゆくのはたいへんな動揺を全体に与えます。それゆえ著者は「全員が最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続けるよう」に熱望するのです。
この「私たちの希望について十分な確信を持つ」とは、神の約束に基づく希望すなわち「永遠のいのちとこの世での平安」を希望として、どんなことがあっても世の終わりまでこの希望を持ち続けることです。簡単に言えば、「天の御国であるゴールに間違いなくたどり着く、そして日々の生活においてはキリストを通して不思議な助けが必ずある」この希望を何があって保っていれば、「神のために」という熱意を失わないのです。
この希望を持ち続けた結果を著者は明らかにします。12節には2つの結果があり、その一つ目は「怠け者とならない」ことです。人は一生懸命やっても結果が出なければ「やってもムダ」と思い、怠けて手を抜いたり終いには止めてしまうものです。けれども、良い結果が保証されていれば、それへの希望を動力源として継続できます。スポーツの基礎トレーニングもこれに似ていて、「今すぐ結果は出ないけれども、これをやっていれば来年は間違いなく良い結果になるから」と約束されたら、辛い練習も手を抜かずに継続できます。
もう一つの結果は希望があるから忍耐しながら信仰を貫けることです。「天の御国とこの世での平安」これに望みを置くことで、何があってもキリストを信じ続ける信仰と忍耐が生み出されます。「怠けない」が希望のもたらす消極面だとすれば、こちらは積極面と言えます。さらに、その生き様はすでに約束のものを受け取った者の生き様にそっくりとなり、後に続く者たちへのお手本となります。私たちはお金や健康や名誉といったいわばこの世のものに希望を持つのではなく、神の約束に希望をおくことが大切です。
Ⅱ.神は誓って約束したから、その約束は永遠・不変であり、私たちはアブラハムのように約束を希望とする(6:13-20)
ここで著者は「最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続けられる」これがなぜできるのかを2つのことから証明します(13-14節)。
まず最初に、著者は「約束のものを受け継ぐ人たち」の代表格であるアブラハムを取り上げ、前例を示します。神はアブラハムが息子イサクをいけにえにしようとしたとき、自分に誓って14節のことがらを約束しました(創世記22:16-17)。この約束は、以前アブラハムに父の土地を離れるように命じたときと同じです(創世記12:1-2)。つまり、アブラハムは「神が約束したことは絶対にそうなる」と確信し、そこからの希望が我が子イサクをささげるまでの信仰となったのです。この信仰ゆえに神はイサクのいのちを保ち、またアブラハムの子孫からイスラエル12部族いわゆる神の民を生み出しました(15節)。さらに言えば、私たちも信仰によって神の民に連なっています。まさに、神の約束を希望として信仰を貫いた実例がアブラハムであり、私たちのお手本なのです。
続いて著者は「神の約束がどうして希望になるのか」を証明します。中東の文化では約束を誓うときに「自分よりも大いなる者」つまり「自分よりも権威がある者」にかけて誓います(16節)。これは、必ず実行する意思と万一それを破ったときには誓った者からいかなる罰をも受ける覚悟を示しています。簡単に言うならば「約束を守れなかったら命を取ってもいい」という覚悟を示すことで、約束を確実に果たす保証としているのです。ただし、神にはご自身よりも偉大な者がいないので、完全なるご自身にかけて誓いました(15節)。
ご存じのように、神は善であり、義であり、聖であるお方ですからウソはつきません。ですから、約束だけで十分なのです。しかし「ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い(17節)」とあるように、神は約束を必ず果すために明確な保証を取りました。完全の上に完全を重ねるようなものです。いわば、人に対して「果たされない可能性はゼロ」を示しているのです。ですので、神への反論、例えば「イエスを信じれば本当に天の御国に入れるのか/迫害が続いているけれども平安は本当にあるのか」のような疑いはできません。ここに人を大切にする神の心が現れています。
そして著者は誓いを伴った約束がクリスチャンに何をもたらすのかを語ります(18-19節)。クリスチャンは「滅びからの救いあるいは闇からの救い」という希望を金銭や地位のようなこの世からではなく、神に求めました。この神が「キリストを救い主と信じれば永遠のいのちとこの世での平安を与える」約束を誓いました。ですから約束が破られることは万が一にもないのです。それで私たちは「約束は絶対に守られる」ことから力強い励ましを受け、そこから揺るぎない希望が生まれるのです。
さらにこの希望が「安全で確かな、たましいの錨(19節)」となります。船はしっかりとした錨を降ろすことで、波や風を受けてもそこから離れません。それと同じように、私たちは苦難が続いても「キリストを通して必ず平安がある/苦難の人生の先には完全で永遠の平安がある」という希望があるから、キリストを信じる信仰から離れることはありません。
そして信仰によって私たちは「幕の内側」にまで入って行きます(19節)。幕は聖所と神のおられる至聖所とを仕切るものですから、「幕の内側にまで入る」は神にお会いできることを言います。つまり、希望が下支えする信仰によって、私たちはやがて天の御国で実際に神とお会いします。と同時に、キリストのとりなしを通してすでに神とお会いしています。その証拠に私たちは「父なる神よ」神に向かって呼びかけ祈っています。キリストは天の御国における永遠のいのちとこの世での平安を約束しました。具体的に誓ってはいませんけれども、神と同じ誓いを持っているのは間違いありません。だから私たちはキリストの約束、広く言えばキリストのことばから希望が生まれ、その希望が信仰の錨となるのです。
■おわりに
20節にあるように、十字架で死んだイエスはよみがえって天に上り、とこしえの大祭司として神と私たちをとりなしています。つまり神は私たちに「神の約束、誓い、イエスのとりなし」という三重の安心を用意してくださったのです。神のあわれみはどれほど深いのでしょうか。
読者であるユダヤ人クリスチャンのように、現代の私たちもキリストを信じたゆえの苦しみや悩みがあります。あるいはキリストを信じていても避けられない苦難があります。目の前の現実だけを見ていたら、「キリストを信じても何にもならない/キリストを信じる前の方が良かった」と信仰の熱意を失ったり、キリストを見限って他のものに頼ろうとする性質があります。だから私たちは「神の約束と誓い、キリストのとりなし」にいつも目を向けるのです。それが希望となってイエスを信じてゆく意思を生み出し、苦難の中でも信仰を貫かせるのです。
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