1月26日「八つの幻①~主の巡察隊~」(ゼカリヤ書1章7-17節)
- 木村太
- 1月26日
- 読了時間: 8分
■はじめに
聖書には神のあわれみや誠実さについてのことばにあふれています。例えば次のみことばはよく知られています。「あなたの神、【主】ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(申命記31:6)」「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」ただし、これらのみことばは、ある程度ことが収まってから実感できる場合がほとんどです。困難の真っただ中にある時には、頭ではわかっているものの、神を疑ったり神に失望することがあります。しかし、神のことばは真実であり、でたらめではありません。今日から扱うゼカリヤが見た八つの幻を通して、神のことばがそのとおりであることを受け取ってゆきましょう。
■本論
Ⅰ.主の巡察隊は全地の様子を調べて報告した(1:7-10)
ゼカリヤが主からのことばを最初に受けたのが第二年の第八の月ですから(1節)、それから約3つの月が経過しています(7節)。おそらく、ゼカリヤがエルサレムの人々に主のことばを告げても、直ちに神殿工事再開にはならなかったのでしょう。それで主は再びゼカリヤに語ります。ただし、今回は「夜、私が見ると(8節)」とあるように、主は幻という形でご自身のみこころをゼカリヤに示しました。「幻を見た」というよりも、ゼカリヤはこの世ではあり得ない物事に満ちている幻の世界に置かれました。
ゼカリヤは、谷底にあるミルトスの木の間に立っている赤い馬とその騎手を見ました(8節)。そして、その後ろに「赤毛、栗毛、白い馬」がいるのを見ました(8節)。日本語訳では「赤毛、栗毛、白い馬」ですが、原文ではそれぞれが複数形なので、赤い馬を先頭に馬の群れがいたのです。また、この後すぐに明らかになりますが、それぞれの馬には騎手が乗っていました。この当時、「馬」は戦いや、遠出、急ぎの知らせを象徴しますから、馬の群れは軍勢と言えます。
ゼカリヤはこの光景を御使いに尋ねました(9節)。尋ねた相手がどうして御使いと分かったのかは、不明ですが、ゼカリヤは主による幻と理解していたので、そこに登場する人物を主の御使いと受け取ったのでしょう。ただ、ここに出てきた「私と話していた御使い」は先ほどの赤い馬の者ではありません。「私と話していた御使い」ですので、おそらく主のことばを取り次ぐ役目の御使いと思われます。
ゼカリヤに答えたのは「ミルトスの木の間に立っていた人」すなわち赤い馬の人です。赤い馬の人は、馬の軍勢を「【主】が遣わされた者たち(10節)」と答えました。ですので、馬の群れは主の軍勢であり、赤い馬の人はその隊長なのです。そして、主が派遣した軍勢は「地を行き巡る」という役目を持っていました(10節)。「地を行き巡る」とは、地上のすべての国々や人々の様子を見て回る、いわゆる巡察の仕事です。つまり、主はご自身が治めるこの世の様子を知るために、巡察隊を全地に派遣したのです。
主はすべてをご存じのお方ですから、このような幻を見せなくても「私はすべてを知っている」と言えばいいはずです。けれども、「巡察隊」というこの世の仕組みを用いることで、「私はすべてを見ている」という事実をより分かりやすくゼカリヤに伝えたのです。「イエスが神の右の座に着く」というのも「王の代理人が右の座に着く」という当時の習慣を用いてイエスの役割を人にわかりやすく伝えています。
冒頭に申しましたように、私たちは「神は何をしているんだ/私を見ていないのか」と思うときがあります。しかし、主はこの世のすべてをご覧になっています。あたかも、巡察隊がすべてを隅々まで見て回るごとく、この世がどのような状況なのか、私たちがどのように生きているのかを知ろうとしているのです。ここに、私たちを決して見放さない、主のあわれみがあるのです。
Ⅱ.主はかつての預言どおりにペルシアへの罰とエルサレム復興を宣言した(1:11-17)
ここで、主の軍勢が答えます。主の軍勢は巡察結果を「ミルトスの木の間に立っている【主】の使い」すなわち赤い馬の隊長に報告しました(11節)。巡察隊がすべての地をくまなく見て回ったところ、すべての地が平穏で何の混乱もありませんでした。ダレイオスの第二年(BC519)は、ペルシアがバビロニアを完全制覇してから約20年が経ち、東はインダス川より西はエーゲ海北岸、南はエジプトまでを含む大帝国に発展した時期です。つまり、ペルシアの支配が盤石で、何ものも抗うことのできない世界でした。それで、「全地は安らかで穏やか」と報告したのです。
その結果を聞いて隊長が主に言います(12節)。「70年」は、主の憤りによる罰である捕囚が70年間を意味します。主はエレミヤにこう言いました。「まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。(エレミヤ29:10)」また、帰らせるだけでなく「あなたがたを元どおりにする。(エレミヤ29:14)」とも約束しています。しかし、現実はエルサレムに帰っては来たものの、「元どおり」すなわち神殿のある都にはなっていません。
しかも、「ユダを滅ぼし残虐の限りを尽くしているバビロニアやペルシアを放っておかない」と主は預言者ハバククに語っています。けれども、現実はペルシアが安泰です。つまり、「主はあわれみによる約束をなぜ果たさないのか。なぜ怒ったままなのか。」というイスラエルの人々の気持ちを隊長は主に訴えているのです。いわば、隊長は主と民との間をとりなしているのです。
この訴えに主が答えます。主は伝令役の御使いに「恵みのことば、慰めのことば」を語りました(13節)。その具体的な内容が14-17節です。後ほど申しますが、これから語ることがらがエルサレムの人々にとって安心や喜びや活力を与えるので、「恵みのことば、慰めのことば」なのです。主は「恵みのことば、慰めのことば」として2つのことを伝令を通してゼカリヤに言いました。
(1)ペルシアへの怒り(14-15節)
主はエルサレムとシオン、大きく言えば神の民イスラエルをねたむほど激しく愛しています。「ねたむほど」というのは、主以外に頼ったら激しく怒るほど大事にしているという意味です。その一方で主は「安逸を貪っている国々に対して」激怒します。「安逸を貪っている」とは高慢になって安心している様を言います。主はイスラエルをねたむほど愛しているので、罰を与えるものの滅ぼし尽くしません。これが「少ししか怒らない」という意味です。けれども、バビロニアやペルシアはイスラエルや周辺国に対してやりたい放題の悪を行い、自らは安らぎ楽しんでいます。それゆえ、主はそういった国々を怒りで罰するのです。主に背いたイスラエルの有様を見ているにも関わらず、主を恐れず高慢になっているからです。つまり、ハバククに預言したとおり「ペルシアを怒り罰する」と主は宣言しているのです。
(2)エルサレムの復興(16-17節)
イスラエルの民にとって神殿は主がおられる所であり、信仰の拠り所です。それゆえ、「神と神の民との関係が元通りになったこと」を目に見える形にしたのが「わたしの宮」である神殿再建なのです。しかも、「測り縄がエルサレムの上に張られる(今でいう測量)」とあるように、再建は神殿のみならず神の都エルサレムも再建されます。そして、エルサレムの回復は建物だけではありません。17節「わたしの町々には、再び良いものが満ちあふれ、【主】は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ。」と主は言います。ダビデの時代にエルサレムが神の都として選ばれ、神の祝福があったように、エルサレムとその周辺は再び繁栄し、ここから神の栄光が全世界に広げられるのです。つまり、エレミヤに預言したとおり「エルサレムを元どおりにする」と主は宣言しているのです。
主は、かつてご自身が約束したことがらをひとつも破ることなく完全に成し遂げることを、巡察隊という幻を通してゼカリヤに伝えました。それゆえ、最初の預言すなわち「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」ということばが真実であることを幻が強めているのです。
■おわりに
本来、エレミヤやハバククの預言を疑いなく信頼していれば、エルサレムに帰った人々はたとえ妨害があっても神殿再建を続行できるはずです。しかし、そうできないのは主への信頼よりも不安や恐怖が大きいからです。ペテロがイエスの力を信じて水の上を歩いたものの、風が吹いて恐ろしくなり水の中に落ちた出来事と似ています。にもかかわらず、主は幻を通して「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」という祝福の約束が間違いなく果たされることをエルサレムの人々に伝えるのです。これが主の変わらないあわれみ、ねたむほどの愛です。
冒頭に申しましたように、神は聖書を通してご自身のあわれみや誠実さ、正しさを私たちに伝えています。そして、そのことばのすべてが正しいことをイエスが証明しています。けれども、エルサレムの人々と同じように私たちも主への信頼よりも不安や恐怖が大きくなり、主を信じて一歩を踏みだせないときがあります。そんなときこそ、この巡察隊の幻を思い出しましょう。主は私たちを放っておかず、私たちがどのような状態であるのかを見ておられます。そして、隊長が主にとりなしたように、私たちの目に見えないところで、天におられるイエスが神にとりなしているのです。神は決して私たちを見捨てず見放しはしません。
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