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木村太

1月29日 「大祭司キリスト①メルキゼデクとは」(ヘブル人への手紙7章1-10節)

■はじめに

 皆さんは通信販売を利用したことがありますか。かつてはカタログで選んでいましたが、今ではインターネットの通販が主流です。三笠のように実物を手にするのが難しい地域では本当に助かります。ただし、通販は写真でしか確認できないので、予想していた物とは違っていることもあります。ある意味、冒険的な買い物と言えます。もし、写真よりも良い物が届くとわかっていたら、わくわくして届くのを待つのではないでしょうか。今日はメルキゼデクについての解説を通して、私たちにメルキゼデクより優れた大祭司キリストがおられることを見てゆきます。


■本論

Ⅰ.メルキゼデクを見ればキリストがどのような者なのかがわかる(7:1-3)

 この手紙の著者は「キリストがメルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司である」と語っています(ヘブル5:10,6:20)。これはメルキゼデクを見ればキリストが分かる、ということを示しています。冒頭の通販で言えば、メルキゼデクがカタログの写真であり、キリストが実物のようなものです。そこで著者はメルキゼデクについて解説します。


 著者はまずメルキゼデクの人物像を語ります。1節「サレム」は詩篇76篇では「シオン」と言い換えられていますから、メルキゼデクは後のシオンすなわちエルサレムとなる土地の王であり祭司でした。古代東方では王が祭司を兼ねるのは珍しくありませんでした。ダビデやソロモンも祭壇を築いたり、いけにえをささげたりなど祭司的な働きをしています。


 創世記を見ると、メルキゼデクはアブラハムを祝福したことがあります(1節)。アブラハムはおいのロトと彼の財産や人を東方の王たちから取り戻して自分の土地に帰ってきました。奪っていった東方の王たちは各地の民族を打ち破る恐ろしい集団で、ソドム・ゴモラの連合軍も彼らに負けています(創世記14章)。つまり、アブラハムの正義と勇気をたたえ、地域の人々に安心を与えた感謝を表すために、メルキゼデクの方からアブラハムを出迎え祝福したのです。たとえ他民族でも正義を成し遂げた者を彼は祝福するのです。


 しかもこの時、メルキゼデクは「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。(創世記14:19-20)」と神の名を用いてアブラハムを祝福し、神をほめたたえました。ですから、神がアブラハムとは異なる民族の者をも祭司として認めているのです。加えて、祝福されたアブラハムも一番良い戦利品の十分の一をささげていますから、アブラハムもメルキゼデクを神の祭司として認めているのです(2節,創世記14:20)。


 さて、著者はメルキゼデクの祭司職を明らかにしたのに続いて、彼の性質や生い立ちを語ります。3節「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく」とあるように、創世記からはメルキゼデクの生い立ちも経歴もまったく分かりません。でも、「メルキゼデク=義の王」の名の通り、彼は神の目から見て義すなわち正しい者であり、それゆえに平和を作る者でした(2節)。その有り様は神の子であるキリストに似ているほどです。また、祭司職をどの時点で終えたり、あるいは次の者へ引き継いだのか不明なので、著者は「いつまでも祭司としてとどまっている(3節)」と言います。現代風に言えば、前の情報が上書きされないで残っているようなものです。


 こののち語られるように、律法では祭司職はレビ族が担うように定められています。しかし、レビ族の父祖であるアブラハムと何の血縁もないメルキゼデクが「いと高き神の祭司」として創世記に記されています。しかも、祭司職の定義もない時代にです。つまり、レビ族ではない者であっても神が祭司として認めることができるのです。レビ族ではなくても神の名によって祝福したり、神と人との間をとりなす働きができるのです。それゆえ、イエス・キリストがレビ族ではなくても、神が認めているから神と人とをとりなす大祭司と言えるのです。ヨハネの福音書17章のごとく、大祭司キリストは私たちのために父なる神に祈っておられます。この事実を忘れてはなりません。


Ⅱ.メルキゼデクはアブラハムだけでなくレビ族の大祭司よりも偉大である(7:4-10)

 著者はまずメルキゼデクの人物像を語りました。ただし、このままだと彼がどれほど立派なのかわからないばかりか、大祭司キリストのことも知り得ません。なぜなら、メルキゼデクを通してキリストを伝えるからです。TVなどで「東京ドーム何個分の広さ」とよく言われますが、東京ドームの広さが分からなければイメージできないのと同じです。それで、著者はユダヤ人が直感的に分かる仕方でメルキゼデクの偉大さを明らかにします。


 まず4-7節にかけてはアブラハムよりも偉大であることを示します。4節「さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。」とあるように、著者はメルキゼデクについて大事なことを気づくように促します。ユダヤ人にとってアブラハムは単なる民族の父祖ではありません。アブラハムはユダヤ民族において最も偉大な者であり、彼らの誇りです(ヨハネ8:39,53)。そのアブラハムが一番良い戦利品の十分の一をメルキゼデクに与えました(4節)。


 5節のように律法では、イスラエルの民は神に仕える祭司職の者に収穫の十分の一をささげなければなりませんでした。十分の一をささげることで、収穫をもたらした神に感謝を表すのです。ここでアブラハムは「徴収」いわば強いられてささげてはいません。彼は自主的に「一番良い戦利品の十分の一」をささげました。つまり、アブラハムはメルキゼデクを通して「勝利できた感謝」を神に表しているのです。


 著者はこの事実を次のように言います(6節)。アブラハムは神の民ではないメルキゼデクに十分の一をささげました。もし、レビ族の祭司のように、メルキゼデクが自分と同じ神を信じているのであれば、十分の一をささげてメルキゼデクを通して神に感謝できます。けれどもメルキゼデクはどんな素性かもわからないのに、アブラハムは彼を通して神に感謝しているのです。違う見方をするならば、アブラハムはメルキゼデクが神と人とをとりなす者として認めているのです。しかも、アブラハムは神から誓いを伴って「大いなる者になる」という約束を受けています。これだけでもメルキゼデクがどれほど偉大なのかが明らかです。


 その上で、著者は祝福を与える者と祝福を受ける者との関係を確認します(7節)。祝福は権威が上の者が下の者に与えるものです。ですから、神から約束を受けたアブラハムよりもメルキゼデクの方が権威が上なのは明らかです。その事実をアブラハムも神も認めているのです。つまり、読者の誇りである父祖アブラハムよりもメルキゼデクが偉大だと、著者は結論づけます。それで、メルキゼデクの例に倣っているキリストがどれほど偉大なのかを著者は訴えているのです。


 ここで著者はもう一つの偉大さを解説します。8節「十分の一を受けているのは、一方では、死ぬべき人たちですが」とはレビ族の祭司を指し、「他方では、生きていると証しされている人です。」はメルキゼデクを指します。「生きている」は「いつまでも死なない」ではなくて、先ほど語られたように「いつまでも大祭司にとどまっている」と同じです。


 著者は「十分の一を受けるレビ族の祭司」がアブラハムを通してメルキゼデクに十分の一をささげていると言います(9-10節)。なぜなら「レビはまだ父の腰の中にいたからです。(10節)」とあるように、アブラハムからレビが生まれるからです。現代の私たちには理解が難しいと思いますが、ユダヤ人は連帯性が習慣になっているので、この表現を理解できます。例えば、ダニエルは先祖たちの背きについて「私たちが罪を犯した」と自分を含めています(ダニエル9:5-6)。


つまり、大祭司というユダヤ人の信仰における最高位の者よりもメルキゼデクが上だと、著者は言いたいのです。メルキゼデクはレビ族どころかユダヤ民族でもなければ、素性も経歴も不明な者だけれども、アブラハムよりもレビ族の祭司たちよりも偉大である、これが創世記の記述からわかるのです。だからメルキゼデクを見れば、キリストが偉大な大祭司だと気づくのです。創世記においてメルキゼデクの記事はあまりにも唐突で、詳しい説明も一切ありません。ここだけを読めば違和感を覚るかもしれません。しかし、これはキリストがとこしえに偉大な大祭司であることを明らかにするための、神のご計画なのです。著者はそのことに気づいたから「その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。」と読者に訴えるのです。


■おわりに

 著者はキリストを「メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司」と言います。ですから現代の私たちにもとこしえの大祭司キリストがおられるのです。「義の王、平和の王、神の子、とこしえに生きている」大祭司が私たちを祝福してくださるのです。


 それゆえ、メルキゼデクがキリストの見本であるなら、アブラハムが私たちの見本になります。アブラハムはおいのロトやその家族を助けるために、強力な敵と戦いました。彼は義を貫き、また人を大切にする心を貫いたのです。ですから、私たちもアブラハムの例に倣って、苦難が待ち受けていてもアブラハムのように神の祝福を信じて生きてゆくのです。そうすればメルキゼデクがアブラハムを出迎えたように、この世の戦いを終えて天の御国に入った私たちをイエスが出迎えてくださり、私たちを祝福してくださるのです。これが私たちの希望です。

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