主なる神は人の罪を怒り罰を与えます。見逃しや例外はありません。ただし、罰を与える機会が2つあります。一つはキリストが再びこの地上に来たときに行われる裁判、いわゆる最後の審判において有罪を判決し永遠の苦しみを与えるものです。一度、この判決が出たら逆転や挽回は絶対にありません。もう一つは、私たちの人生の中で与えられる罰であり、こちらは正しい生き方への回復が可能です。これが懲らしめと呼ばれるものです。今日は、北王国イスラエルに下される罰を通して、主は何のために懲らしめるのかを見てゆきましょう。
Ⅰ.北王国イスラエルは自分たちの背きを自覚していないが、主はすべてを知っている(5:1-7)
4章での祭司と同じように、主は指導的立場の者を告発します(1節)。祭司は信仰の指導者、イスラエルの家は諸部族の長を意味し、地域社会のリーダーです。また、王の家は国政を司っています。彼らはミツパやタボルといった場所でバアル神をはじめとする偶像礼拝をしていました。指導者が民に偶像崇拝を勧めるのですから、彼らが民を主の背きに陥れる罠になっているのです。それで、主は指導者たちに「聞け/心せよ/耳を傾けよ/さばきが下る」のごとく「罰を下すからよくよく注意して聞け」と強く命じるのです。
そして主は北王国イスラエルがいかに背いているのかを明らかにします。5章の中でイスラエルと共にエフライムということばが出てきます。エフライムは北王国イスラエルの南部にあり南王国ユダに隣あっているエフライム族の所有地です。エフライムには信仰の拠点となる町(ベテル、シロ、ギルガルなど)がいくつもあるため、エフライムは北王国イスラエルの代名詞となっています。ただしこれらの町はいずれも偶像崇拝に染まっています。それゆえ3節「エフライムは姦淫、イスラエルは汚れた」とあるように、エフライムは偶像崇拝の代名詞でもあるのです。
彼らは自分の欲望のために大量殺戮を深め(2節)、殺人の戒めを無視しました。また、他国の神を崇める女と結婚し堕落した信仰を次の世代に渡しました(7節)。さらに、主が定めた新月の祭りでは、豊作を主に感謝するのではなく、豊穣の神バアルに感謝をささげました(7節)。しかも、主が「ユダを咎ある者にさせてはばらない」と命じたのに、彼らを真似てユダも信仰から外れさばきの道に入りました(5節)。
そんなイスラエルを主はこう責めます(4-5節)。彼らは高慢すなわち「自分たちは神の民だから大丈夫だ」という的はずれな安心に乗っているため、悪いふるまいをやめて、主に聞き従いません。彼らはこれまで主がどれほどイスラエルをあわれんで守り、繁栄をもたらし、あるいは正しい道にもどそうとしたのか、こういったことがらを気にもとめず思い出そうともしません。だから「姦淫の霊」にとらわれて悪行を続けるのです。もし、主のあわれみを忘れず知っていたならば、「他の神々の方が頼りになる」とは決してならないのです。現代の私たちクリスチャンにも当てはまることばです。
ところが主はイスラエルのことを見ています(3節)。主はイスラエルをすべてくまなく注意して見ています。「イスラエルはわたしに隠されていない。」とあるように、見ていないだろうと隠れてこそこそ主に背き悪を働いたとしても、主はすべてをご存じなのです。見落としや見逃しは絶対にありません。
それで主はイスラエルを懲らしめるために罰します。「懲らしめる」とは叱責や体罰など心身に苦痛を与えて悪をわからせ、再びさせない行為を言います。つまり、主はあくまでもイスラエルがご自身に戻って欲しいから罰を与えるのです。具体的には6節のように、羊の群や牛の群といったたくさんのささげものをもってしても、主は彼らに応えません。「たくさんささげれば助けてくれるだろう」という表面的な信仰を退けるのです。背中を向けて去っていくように彼らを放置して、イスラエルを助けません。さらに、7節「今や、新月の祭りが彼らとその地所を食い尽くす。」とあるように、偶像崇拝が国を滅亡させます。本来、祭りでは主を崇めますから、さらなる繁栄につながります。しかし今や異教の神を崇めるのですから盛大に祝えば祝うほど滅びが進みます。当事者はそのことに気づいていないので皮肉なものです。
主の懲らしめは無意識的な悪に対してではありません。主を知っている者すなわち主を神とし自分は神の民と認めている者が自分の意志で主に背くことを行っているから、主は懲らしめるのです。しかも主はその悪を全部お見通しです。(アダムとエバ、アカン、ゲハジ、アナニヤとサッピラなど)私たちも主の正しさ、聖さ、キリストを犠牲にするほどの愛を知っていながら、自分の欲に従ってしまい悪に走ってしまう弱さがあります。「神はすべてご存じで懲らしめる」というのは私たちに罪を犯させない抑止力になっているのです。
Ⅱ.主は敗戦という手段でイスラエルを懲らしめ、再びご自身に戻ることを願っている(5:8-15)
続く8節からは主がどのように懲らしめるのかが記されています。8節「ギブア、ラマ、ベテ・アベン」は当時北王国イスラエルに属していたベニヤミン族の領地にある町です。このベニヤミンは南王国ユダとエフライムに接しています。8節「角笛とラッパを吹け、声をあげよ」は戦いの合図であり、さらに「ベニヤミンよ、うしろを警戒せよ」とあるように、ここからユダ王国がイスラエル王国を攻め込みます。その結果、ユダは勝利しベニヤミンの土地を奪いました。一方、イスラエルは惨敗し国の衰退が始まります。
見た目には戦争によるイスラエルの惨敗ではありますが、真実は姦淫の霊に惑わされて偶像崇拝にふけったことへの懲らしめでした。9節「恐怖」には「荒れ果て、戦慄、惨め、悲しみ」の意味がありますから、「神の民だから大丈夫」と信じていた人々の上に、主は想像を絶する苦難を下すのです。11節「エフライムは虐げられ、さばかれて打ち砕かれる。彼が自ら進んで人の決め事に従って歩んだからだ。」とあります。北王国イスラエルはアッシリアの脅威に対して主ではなく隣国アラムに頼りました。「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(申命記31:8)」と主は命じたのに、イスラエルは恐れて自分たちの考えで他に頼ったから、イスラエルは粉々に砕かれて国が荒れ果ててゆくのです。ただし、主はユダにも罰を加えます。なぜなら10節のように、ユダも領土を越境して攻め込みベニヤミンの土地を奪ったからです。ユダもまた上から水が注がれるように、主の怒りを逃れられません。ここに、罪を見逃さず必ず罰する主の正しさと厳しさが示されています。
主はご自身の恐ろしさをこのように語ります(12-13節)。主への背きを止めなければ、衣類の虫食いや木の腐れが広がってゆくように、国の荒廃が進みます。アッシリアからの攻撃、凶作、害虫の大量発生などで国も人も疲弊してゆくのです。当然、エフライムすなわち北王国イスラエルや南王国ユダの指導者たちは、国の荒廃が病や腫れもののように大きくなってゆくのを目の当たりにします。13節「病」は「膿」、「腫れもの」は「潰瘍」を意味し、骨にまで達する傷を指しています。当時は致命傷ですから、両国とも現状が国の滅亡に至ると認めているのです。しかし、この段階になっても彼らはアッシリアという強国に助けを求めるのです。彼らが国の荒廃を主の懲らしめだと気づいていない証拠です。主の懲らしめなのですから人がどれだけ尽くしても致命傷を治すことはできません。その様子は14節のように、凶暴な獅子が動物を襲い、引き裂き、自分の場所に運び去るように、だれも手出しができないのです。イスラエルもユダも国の衰退が止まり、あのダビデやソロモン時代のように再び神の国として栄えるには、主を知り、へりくだり、悪行を止め、自分の神に戻るしか方法はないのです。
そして主はそれを待っています(15節)。「わたしは自分のところに戻っていよう。」とは、イスラエルが苦難によって自分の罪を知り、悔い改めるまで手を出さない主の態度を表しています。主は懲らしめによって彼らが激しく苦しんでいるのをちゃんと見ていますが、安易に助けの手を差し伸ばしません。彼らが苦しみにのたうち回りながらも、他の神々ではなく主を求め、やましい心がなく主だけにすがって来るのを待っているのです。
箴言3:11-12こうあります。「わが子よ、【主】の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、【主】は愛する者を叱る。」神の懲らしめは非常に激しく逃れる隙がありません。でも、それは虐待や弾圧のように相手を思いやらない支配ではありません。あくまでも、懲らしめによって自らが悪を認めて主に戻り、再び祝福の道を歩ませるためのものなのです。もし、懲らしめではなく最終的な罰であれば、一瞬のうちにすべてを滅ぼすでしょう。そうしないところに「自分の神に帰って欲しい」という主のあわれみがあるのです。15節のことばはまさにイスラエルを大切にする主のあわれみから出ています。
私たちクリスチャンはキリストを救い主と信じ、有罪判決を免れて天の御国を約束されています。しかし、このイスラエルのように主を忘れて背くことがあります。「姦淫の霊が彼らのうちにあり」とあるように、お金や地位、名声、賞賛のようなものに頼る弱さがあります。さらには姦淫や盗み、偽証など具体的な悪を働くこともあり得ます。もし、いつも通りにやっていてもうまくゆかない・失敗する(6節の適用)、あるいは取り組んでいる事柄で手を尽くしているのに全く好転しないばかりかどんどん悪くなる(13節の適用)、こういったときは主の懲らしめかもしれません。そんなときは、自己中心とか高慢になっていないか、真心からキリストの救いに感謝しているか、疑いなく神に頼っているかを確かめてみましょう。主はキリストを犠牲にするほどに私たちを大切にしています。だから、懲らしめによって再び平安と喜びの道に戻そうとするのです。
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