今、全世界に新型コロナウィルスが蔓延し、毎日多くの人が亡くなっています。志村けんさんのように最近まで元気だった人が亡くなるのを知ると、私たちも死と隣り合わせであると気づかされます。台風や地震による災害が起きた時もそう思わされます。それと同じように、私たちはたましいの死いわゆる永遠の滅びにも直面しています。キリストが再びこの世界に来られた時、人は完全に神に従っていないので例外なく永遠の死に定められるからです。けれども神は人を愛するが故にそれを免れる道を備えてくださいました。今日は滅びに直面している北王国イスラエルの姿を通して、滅ぶ理由とそれを免れる道について見てゆきます。
Ⅰ.北王国イスラエルが背き続けたことで主は祝福を与える者から罰を与える者となった(13:1-11)
主は「従えば祝福を背けばのろい(罰、わざわい)を」という契約をイスラエルと結んでいます。しかしイスラエルはバアルのような異教の神々、いわゆる偶像崇拝に浸り続けたので、主は契約に基づき罰を下します。13章には背きによって主が祝福からのろいに変えた様子が3つ記されています。
(1)偶像崇拝によって栄誉・繁栄から衰退・消滅となる(13:1-3)
1節前半はいくつかの解釈がありますが、意味としては「エフライム部族が神のみわざを語ったとき、他の民族が畏敬と恐怖で震えた」となります。例えば、海を分けたり、川をせき止めたり、空から食べ物を降らせたり、岩から水を出したり、圧倒的に不利な戦いに勝利したりなど、人知を越えた神の力をまとっている部族と認めて、彼らに栄誉を与え尊敬しているのです。
ところが彼らは、職人つまり人の手で神を形ある像に造り、自分たちの知識の中に神を閉じこめました(2節)。しかも、バアル神で崇められている子牛の像を造り、それに口づけして忠誠を誓い、さらには神の民である子供の命を献げ物にしました。まさに神の忌み嫌うことを重ねたのです。
それで主はイスラエルを罰します。3節「朝もや、露、籾殻、煙」とあるように、彼らははかなく消え去ります。主に従っていれば栄誉、威厳、繁栄だったのに、偶像を崇め続けたことですべては衰退し消滅するのです。
(2)高慢によって心身の平安・満たしから恐怖・苦痛となる(13:4-8)
さらに主はイスラエルの背きを語ります(4-6節)。主はエジプトにいた時代、すなわちイスラエルがまだ独立した民族となっていなかった時に、モーセをリーダーとしてエジプトの奴隷から解放しました。イスラエルの人々は異教の神々があることを知っていますが、この世界に目に見える形で直接働きをなしたのは主なる神しかいません。だから40年に亘る荒野の旅でも、文句を言いつつも主にすがっていました。そして主も彼らの求めに応じていました。
けれども6節「牧草で満腹したとき」すなわち自分たちで作り収穫した農作物を手にした時、彼らはそれらを主からの恵であるのを忘れて、自分たちの努力によるものと見なしました。「心は高ぶり、そうしてわたしを忘れた。」とあるように、荒野のときは手に入れる術がなかったので主に感謝しましたが、自分の働きで手にしたので自分の力に感謝し尊んだのです。
それで主は7-8節のようにイスラエルを襲います。獅子は圧倒的な力を、豹は絶対に逃がさない様を、子を奪われた雌熊は怒り狂った様を表しています。8節「彼らの胸をかき裂いて、その場で雌獅子のように食らう。野の獣は彼らを引き裂く。」とあるように、主ご自身がどれほど尽くしてきたのかを忘れて高慢になったため、主はイスラエルを容赦なく残忍に滅ぼすのです。イスラエルは平安、満足、喜びから恐怖と苦痛を味わうことになります。
(3)人に頼ったことで国の平和・平安から混乱・破滅となる(13:9-11)
3つ目の背きは人に頼ることです(9-10節)。イスラエル民族がカナンに定住してしばらくの後、彼らは他の民族と同じように自分たちにも国を治める王が欲しいと訴えました。彼らは目に見えない主ではなく目に見える人による統治を求めたのです。主はその要求に応えサウルを王に定めました。主が王を立てるのは、王が主の代理人として国を治め、平和と繁栄によって人々がますます主に従うためです。けれども、主に従わない王によって民衆は主から離れました。人々は主ではなく王を信頼して従ったのです。それで主はアッシリアによって国を滅ぼし、王を奪いました(11節)。
イスラエルは自分たちを守り支えてくださった主のあわれみを忘れ、主以外の神々や物や人(自分も含めて)に頼り、それらを最優先にしました。これが主の怒りとなるのです。では現代に生きる私たちはどうでしょうか。イスラエルと同じように、私たちも主から特別な存在として造られました。私たちも本来は、天地万物を創造しこの世界を治めている主を認めて信頼し従う存在です。けれども私たちも全員、このイスラエルのように主ではないものに安心や満足や喜びを求める性質があります。ここに書かれているイスラエルの有り様は他人事ではなく、鏡のように私たちを写しているのです。
Ⅱ.主は死をも支配できることを明らかにしたが、イスラエルは悔い改めないので無惨な滅びに至る(13:12-16)
さて、主はイスラエルが罪に罪を重ねている姿をこのように見ています(12節)。イスラエルが直ちに滅ぼされないのは、主が罪を見逃したり忘れているためではありません。麦を刈り取って束にしてまとめているように、彼らの罪は重ねられ、その刑罰が積み重なっているのです。見方を変えれば、イスラエルが罪を認めて再び主に戻るのを主は待っているのです。
主はそのことを、難産で赤ちゃんが産道に止まっている様子にたとえています(13節)。赤ちゃんは産道を通って生まれたら新しい世界で生きます。しかし、そのまま止まっていたら命を落とします。それと同じように、イスラエルが苦しみながらでも罪を悔い改めたら、新しい祝福の歩みを始められます。けれども背きのままでいたならば滅亡を免れません。まさに北王国イスラエルは今、死と生の狭間にいるのです。ただし、イスラエルは何も知らない赤ちゃんではありません。彼らは過去の出来事から背けばどうなるのかを知っています。にもかかわらず、イスラエルはその知恵を働かせることなく主に背き続けたから、新しく生きられず滅びに至るのです。
ところが主は忍耐しながら、滅びに向かうイスラエルにこう語ります(14節)。ユダヤ人にとって「よみ」は死んだ者が行く場所であり、死を意味します。主は死に引き込まれている者をも、その力から解放できます。ことばによって無から天地万物をお造りになった主にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:37)。「死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。」とあるように、「死のとげやよみの針」といった死の力でさえ主の前では無力なのです。つまり主は「わたしに従えば滅びから解放し助けられる」と、滅びに直面しているイスラエルに語っておられるのです。「わたしのほかに救う者はいない。」と語るように、死をも支配する主に従うしか生きる道はなのいのです。イスラエルは主に背くのを止めて主に従えないばかりか、自分たちの背きそのものに気づかない愚かな者です。そして罪の力にも滅びの力にも抗えない無力な者です。そんなイスラエルに主は救いの手をさしのべるのです。14節のことばはまさにイスラエルを大切にする主の優しさとしか言いようがありません。
けれども主の思いに反してイスラエルは一向に悔い改めないから、「あわれみ」すなわち、かわいそうに思う心は隠されます。言い換えれば、「かわいそう」という気持ちよりも罰を与える怒りが前面に出るのです。そこまでイスラエルの背きが積み重なっています。
主のあわれみに応えず、悔い改めないイスラエルはこのように滅ぼされます(15-16節)。北王国イスラエルは栄えていましたが、主のみこころによって東からの熱風のようなわざわいがやって来ます。実際にはアッシリア帝国が攻め込み、圧倒的な軍事力で痛めつけます。その結果、国は荒廃し、宝物倉の財産は奪われ、国民は無惨に殺されます。「朝もや、露、籾殻、煙、獅子、豹、子を奪われた雌熊、王と高官の取り去り」がその通りになるのです。
「わたしにとって死もよみも無力/わたしのほかに救う者はいない」と、主はあわれみによって救いの手を差し伸べたのです。しかし、イスラエルはその手を掴みませんでした。主のあわれみに気づかない愚かさ、人の力で何とかできるという傲慢としか言いようがありません。
現代の私たちもイスラエルと同じように難産で産道に留まっている赤ちゃんであり、永遠の死か永遠のいのちかの瀬戸際にあります。けれども主は私たちに「死が無力であること」を明らかにしてくださいました。それがキリストのよみがえりです。キリストを救い主と信じた者は地上のいのちが終わっても、あのキリストのように人とは全く異なるからだによみがえり、そしてキリストのように天の御国で永遠に平安を生きることができます。私たちにとってキリストのほかに救う者はありません。神はキリストという救いの手を差し伸べています。私たちはその手をしっかりと掴み続けましょう。
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