キリストのユダヤ人への第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。(マタイ4:17)」でした。キリストが地上に生まれて十字架で死に、よみがえって天に戻ることにより、天の御国への道が整います。ただし、天の御国に入るには神を信じ、キリストを滅びからの救い主と信じなければなりません。それでキリストは「神以外の何かに信頼を置くのではなく、神に向き直って神を信頼しなさい。」と命じるのです。なぜなら、すべての人が神以外に心を向け心の拠り所としているからです。神の民を自負していたユダヤ人も例外ではありませんでした。今日は、イスラエルの過去と現在の姿から、人の本質と本質から導かれる生き方について聖書に聞きます。
Ⅰ.主は北王国イスラエルの父祖ヤコブの自己中心性を明らかにし、主に立ち返るように命じた(12:1-8)
6章から北王国イスラエルの背きが暴かれていますが、その中にも主のあわれみ、言い換えればイスラエルをどれほど大切にしているのかが語られています。11章はあわれみの頂点と言えるでしょう。続く12章ではイスラエルの背きについて過去の事実から彼らの性質が明らかにされています。
北王国を指すエフライムは風にたとえられているように、バアル神といった神以外の空しいものに頼っていました(1節)。さらに「東風」は作物を枯らす南からの熱風を指していますから、空しさに加えて自らに害を及ぼすことをしていたのです。それが虚偽と暴行のような神と人を傷つける行為であり、アッシリアとエジプトの二股外交でした。つまりイスラエルは神のことばに従わず神に信頼を置いていなかったのです。それゆえ彼らの行いは東風の熱風のように主の怒りを招いていました。
ここでホセアは不思議なことばを語ります(2節)。主は背きを北王国イスラエルだけではなく南王国ユダにも関係があるとしています。なぜなら両国の父祖であるヤコブの生き方に背きの源があったからです。主はヤコブの人生をこう語ります(3-4節)。「かかとをつかむ」は「押しのける(第3版)」と訳されるように、彼は生まれる前から自分の力で何とかしようとしていました。そしてその通り、大人になって兄エサウから長子の権利を奪いました。まさに兄を押しのけたのです。その後、エサウに合い行く途中では祝福を受けるまで神と戦い続け、ついに勝ちました。「泣いてこれに願った。」は創世記にはありませんが、ホセアがヤコブの要求を強調するために書いたと思われます。つまり、イスラエル民族の父祖ヤコブが「自分の利益のためだったら何でもする」という自己中心的な性質があることを主は明らかにしているのです。北王国イスラエルの「虚偽、暴行、二股外交」はヤコブの性質そのものです。
そして主はヤコブに「【主】は万軍の神。その呼び名は【主】。(5節)」と語りました。主は、ご自身が計り知れない力を持つ神であり、その神がヤコブの主人・支配者・命令者であることを宣言しました。さらに「呼び名」が記念を意味することから、「主」と呼ぶことが主従関係を結んでいる証しと宣言しています。ヤコブはこれまで自分の力で祝福を勝ち取って来ましたが、今からは「主人である万軍の神」に従うことが祝福となるのです。このことを主はヤコブと約束しました。そしてここからヤコブは自己中心から神中心に変わってゆくのです。
それで主はホセアを通して、ヤコブの性質を持つ北王国イスラエルにこう命じます(6節)。
①あなたの神に立ち返る:神以外に頼ることをやめて神を信頼して従うこと
②誠実と公正を守る:自分を第一とするのではなく神と人を大切にすること
③神を待ち望む:人や物や方法ではなく神に期待すること
ヤコブの性質を受け継いでいるイスラエルに、主は罰を逃れて祝福を受ける生き方を明らかにしてくださいました。しかし、イスラエルは公正ではなく欺き、誠実ではなく虐げを続けました(7節)。さらに自分で財力や力(肉体や権威)を築いたと高ぶりました(8節)。挙げ句には、働きの実として富や力が増えているのは神の祝福の証拠だから私は何一つ不義すなわち悪をしていないと断言するのです。「自分が正である」という高慢の極みと言えます。イスラエルはヤコブの性質そのままで、主の勧告をまったく聞いていません。それゆえ最後にはアッシリアによる滅亡という形で神の怒りが下されるのです。
「自分の利益のためだったら何でもする」という性質はヤコブだけではありません。私たち全員が生まれながらにして持っています。パウロは「聖霊の働きによって変えられた証拠」を御霊の実と呼んで列挙しています(ガラテヤ5:22-23)。これらすべての実は他の人があって成り立つものであり、自己中心と正反対の内容です。神は人の性質を知っているからこそ、祝福を受ける生き方を教えています。これも私たちを放っておかない神のあわれみなのです。
Ⅱ.主は「あなたの神、主」であることを証拠を持って訴えるが、イスラエルが背き続けたので激怒する(12:9-14)
12章の後半は主のふるまいとイスラエルのふるまいが交互に記されていて、主のあわれみに対するイスラエルの背きが強調されています。
ヤコブとの約束に従って、主はエジプトでの奴隷の時からずっと変わらず主としてイスラエルを見守ってきました(9節)。ここで「例祭の日のように、再びあなたを天幕に住まわせる。」と不思議なことばを語ります。例祭と天幕はイスラエルの民に仮庵の祭りを思い起こさせます。仮庵の祭りはエジプトを脱出した後、荒野での天幕生活において主の守りと導きがあったことを記念する祭りです。40年に亘る荒野の旅では国も家も土地も財産もなく安心の拠り所を何一つ持っていませんでした。けれども、主が水や食べ物を与え、行く先を案内し、戦いに勝たせてくださいました。ですから荒野の天幕生活においては、民にとって頼れるのは主だけだったのです。一方の主はヤコブとの約束の故に、民が不平不満を口にしても養い守りました。
つまり、「例祭の日のように、再びあなたを天幕に住まわせる。」とは、神の怒りによって北王国イスラエルから国家も財産も土地も神殿も祭壇も預言者も祭司も取り去られることなのです。彼らは主以外に安心の拠り所としていたすべてを失います。非常に恐ろしい神の罰が下されます。ただしこの罰は彼らにとって恐怖や苦難だけにはなりません。彼らは安心の拠り所をすべて失いますが、あの荒野での天幕生活のように、主に頼り主が守るという完全な安心の生活に戻れるチャンスなのです。福音書にある放蕩息子はこれの典型と言えましょう。主は背き続けたイスラエルを厳しく罰しますが、ヤコブとの約束を破棄せず守り続けています。ここに主のあわれみがあります。
そして主はイスラエルの民がエジプトにいた時から常に見守り、彼らの歩みに介入してきた事実を語ります。これらの事実によってご自身の誠実さを明らかにするためです。
・10節:イスラエルが間違った歩みをしたならば預言者になすべきことを教え、警告させました。ときにはこのホセアのように、偶像崇拝している姿を姦淫の女というたとえで明らかにしています。
・12-13節:ヤコブは兄エサウを恐れて逃げ、逃げた土地で妻ラケルのために一生懸命働きました。一方、主はモーセという預言者を建ててヤコブの子孫であるイスラエル民族をエジプトの奴隷から解放し、カナンの地に入らせ国を確立させました。つまり、ヤコブは自分のことに全力を尽くしているけれども、主はイスラエルのために最善を成していることを示しています。
主はイスラエルの父祖ヤコブに「【主】は万軍の神。その呼び名は【主】。」と約束されました。主はイスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地カナンに定住させ、イスラエル王国を繁栄させました。また彼らが道を外れたときは預言者を通して誤りを指摘し、正しい道に進ませようとしました。イスラエルの歴史が主の誠実、公正を証明しているのです。
けれどもイスラエルは11節のようにギルアデやギルガルといった町で偶像崇拝を広げ、また民族同士で戦い多くの血を流しました。主がどれほど彼らをあわれんで介入し警告を与えたとしても、彼らはそれらに全く気づかず、警告されても従いませんでした。それで主は彼らに激しい怒りを燃え上がらせ、彼らの行いに恐ろしい罰を報いるのです(14節)。「主の激しい怒り」は「激しい恨み」の意味がありますから、どれほど神の民イスラエルを大切にしてきたのかがわかります。ただそれでも、主は滅んだ後でイスラエルの回復を約束するのです。まさに主のあわれみは尽きないのです。
先ほども申しましたように、神は「【主】は万軍の神。その呼び名は【主】。」とヤコブとの関係を約束しました。その後、ヤコブの子孫イスラエルをエジプトの奴隷から解放し約束の地に定住させました。さらに、彼らの日常に介入し彼らを正しい道、祝福の道に導きました。これらはすべて現代の私たちに当てはまります。天地万物を造られた神は、この世界に存在するすべてと起きている出来事のすべてを通して、ご自身が万軍の神であり、私たちの主であることを明らかにしています(ローマ1:19-20)。また主はご自身のひとり子イエス・キリストを犠牲にして私たちを罪の縛りから解放し、永遠の滅びに送らず、天の御国という約束の地に入らせます。そして主は聖霊と聖書によって私たちに真理を教え、間違いに気づかせ、正しい道に歩ませようとしています。これが主のあわれみなのです。北王国イスラエルと同じように、主はすべての人が「主と共にいる平安」を歩んで欲しいのです。
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