私たちは「良いことをしたら良い報いを受ける」あるいは「やった分に応じて結果が出る」といった価値観の中で生きています。労働と報酬とかスポーツや芸術での練習と結果などはその典型だと思います。ただ、私たちはこの価値観を神との関係に持ち込んでしまうことがあります。例えば、「祈る時間が長ければ願いが叶うだろう」「たくさんの時間と労力を教会に注いだからたくさんいいことがあるはず」と思ってしまうことはないでしょうか。今日は、神は私たちにどんな態度を求めているのかを聖書に聞きましょう。
Ⅰ.北王国イスラエルが主に立ち返るのは自分たちのためであり、真実な悔い改めからではない(6:1-3)
北王国イスラエルは国の荒廃を見て決意します。1節のことばは祭司のような宗教指導者によるものと思われます。「主に立ち返る(1節)/主を知ることを切に追い求める(3節)」これはバアル神のような偶像崇拝からイスラエルの神に戻ろう、という決意ですから悪いものではありません。ただ、その中身が問題なのです。5:6-7のように、彼らは礼拝でのささげ物をバアル神からイスラエルの神に変え、そしてたくさんささげます。その目的は神のことばをもらったり、農作物が豊かになるためでした。つまり、イスラエルの神にたくさん何かをしたら国は再び繁栄するだろうという考えなのです。1-3節のことばがその考えを裏付けています。
・1節:粉々に破壊するのもそれを直すのも、人を傷つけるのもそれを包んで癒すのも、すべては主のわざであると認めています。ただここには、だから今度も回復するだろうという打算があります。
・2節:「二日の後に/三日目に」というのは短期間を意味します。つまり、主は短期間で罪がない者と認めるから、私たちは再び主の前に出られるだろうと考えています。犯したことを非常に小さく見ています。
・3節:暁(太陽)と雨は農業に欠かせません。また大雨、後の雨は春の雨(3-4月)で穀物の実りを豊かにします。後の雨は祝福の雨とも呼ばれています。つまり、主は再び繁栄させてくれるだろうと考えています。しかも、「暁/後の雨」は毎日あるいは毎年必ずやってくるので、間違いなく繁栄するという思いが透けて見えます。
結局、「礼拝の対象をバアルからイスラエルの神に変え、たくさんささげれば罪が赦され、国は再び繁栄するだろう」という考えなのです。戦争によって神の土地、神の国が荒れ果てたのはなぜなのか、何が原因なのかを省みていません。信仰の面から言えば、主への背きを悔い改めるどころか気づこうともしないのです。さらには「主を礼拝しささげれば主はそれに応えるだろう」という自分たちの考えを最優先にしています。国を荒れさせるのも繁栄させるのも主のわざなのですから、まず主に聞くというへりくだりがないのです。
冒頭に申しましたように、私たちも「主はきっとこうしてくれるだろうから」と考えて行動してしまうときがあります。それは主のお考えよりも自分の考えを優先しています。あらゆるものを治めているのは主なのですから、主のお考えを最優先にすることが大切です。
Ⅱ.主は誠実を喜ぶため、イスラエルの自己中心を認めずさばきを下す(6:4-6)
北王国イスラエルの決意に対して主が答えます(4-5節)。「何をしようか。」というのは「いや。何もしない。」という答えを強調するための言い方です。エフライムすなわち北王国イスラエルと南王国ユダの「主に立ち返ろう/主を知ろう」という決意を主はまったく評価していません。そればかりか、預言者を通してご自身のことばで彼らをたたき切り、死に至るまで打つと言います。主のことばは必ず実現するから「殺す」ということばイコール「死」なのです。しかもそのさばきは光のように躊躇なく瞬時になされます。
なぜなら、彼らの「真実の愛」は時間が経てば必ず消えるもやや露のようだからです。「真実の愛」とは神の契約に対する忠誠心を指し、私たちにとってなじみ深い言い方をするならば誠実を言います。つまり「主に立ち返ろう/主を知ろう」という一見すばらしい決意のようであっても、「たくさんささげればまた繁栄させてくれるだろう」という自己中心の動機を主は見抜いているのです。だから、「自らを省みず主に聞こうともしないあなたがたは不誠実だ、わたしは良いことを何もしないどころかあなたがたをさばく」と断言するのです。
主は神の民イスラエルに求めることをこう言います(6節)。主は真実の愛すなわち誠実を大事にし、快く思い、誠実であることを願っています。そして誠実とは主にいけにえをささげることではなく主を知ることだ、と言います。「全焼のささげ物」は家畜の中で最も出来のよい動物であり、主に最善を尽くしていることを表すものです。最善を尽くすというのは決して悪いふるまいではありませんが、これはあくまでも自分の考えであり、主がそれを善しとするかどうかはわかりません。それゆえ、最善を尽くすことよりも主に目を向けて主が何を思っているのかを悟る方が大事なのです。だから主は、「最前を尽くすことよりも、まずわたしを知ることが最優先だ」と言うのです。言い換えれば、誠実とは自分を脇に置いて主に聞き従うことなのです。
今イスラエルは、「主を礼拝したくさん良い物をささげれば、主は国を回復させ再び繁栄させてくれるだろう」という考えのもとで行動しようとしています。独り善がりの信仰と言えるでしょう。神を知ることよりも全焼のささげ物の方を選んでいるから、主は一つも助けないばかりか、彼らにさばきを下そうとしています。主がイスラエルに望んでいるのは、まずへりくだって主に聞くという態度なのです。
キリストも「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」のことばを使ってパリサイ人たちを非難しました。彼らは昔からの言い伝えを堅く守ること、つまりは神に対して自分なりに尽くすことを優先し、困難にある人々を助けようとしませんでした(マタイ9:10-13,12:1-8)。キリストはあわれみのゆえに、ご自身に助けを求める人々に応じました。パリサイ人たちは神のあわれみよりも自分たちの考えを優先したからキリストに戒められたのです。私たちも「神の喜びのために、栄光のために」という思いで生きています。それ自体は決して悪いことではありません。でも大事なのは、「今神が私に望んでいるのは何なのか」これを知り従うことなのです。
Ⅲ.主はイスラエルの真実を明らかにし、彼らをわざわいに定める(6:7-11)
主は「主に立ち返ろう/主を知ろう」というイスラエルの真実を暴きます(7-9節)。北王国イスラエルではギルアデ地方にあるアダムの町などで、主との契約を破りました。具体的には、時の指導者を殺してその座に着くといった出来事が続きました。律法で定められた刑罰ではなく、非合法の殺人によって神の土地が血にまみれ汚されたのです。さらには祭司があたかも山賊のように悪事を働きました。人々に律法を教え信仰の模範となるべき祭司が、自分の欲のために主の戒めを破っていました。それゆえ10節のように、主はイスラエルの全部族、全地域でぞっとするようなことをやっている、と言うのです。イスラエルは「私たちの主、イスラエルの神に立ち返ろう。この神を礼拝し、たくさんささげよう。」とふるまっていますが、その実態は神の戒めを平気で破り、神の忌み嫌うことを止めずに続けているのです。まさに主のみこころを全く気にしない、不誠実そのものだったのです。イスラエルの人々からすれば「主に良いことをしているのだから、自分たちは聖く正しく生きている。」と思っているでしょう。けれども主からすれば、彼らは自分の欲を神として行動しているから、不正で汚れた者でしかありません。イスラエルは神の民でありながら、真逆の生き方となっているのです。
それで主はこう申し渡します(11節)。「ユダよ、あなたにも」とあるように、主は背き続けている南王国ユダにも北王国イスラエルと同様にさばきを下します。「わたしが、わたしの民を元どおりにするときに。」というのは、神と神の民との関係が回復するときを言います。つまり全員が主に従い主が聖い者と認めるときです。ですから聞き従っていない人々はこの時点で滅び去っています。その様子はまさに「麦の刈り入れ」のようです。麦の中で毒麦も育ちますが、刈り入れの時にはまず毒麦が集められて燃やされ、麦は倉に納められます(マタイ13:24-30)。それと同じように刈り入れの時、すなわち白黒つけるときに、誠実な者は残され、主に背き不誠実な者は滅びに定められるのです。「主に立ち返ろう」と主に一生懸命何かをしても、あるいは精一杯尽くしても、主に聞いて主に従わなければ最後には滅びに定められるのです。主はこのことをホセアを通して神の民に警告するのです。
現代のクリスチャンがキリストを伝えるのもこれと同じです。「いくら良い行いの人生だったとしても、罪を悔い改めてキリストを救い主と信じなければ永遠の滅びに行く」という警告です。すべての人が永遠の滅びではなく天の御国に入って欲しいから、私たちもホセアのように神のことばすなわち聖書を伝えているのです。
聖書には神に聞く、あるいは神のことばに聞く、従うという格言や命令がたくさん出てきます。キリストを信じるのも、まず神のことばを聞くことから始まると書かれています。キリストも、もてなしのために一生懸命なマルタではなく、キリストのことばに耳を傾けていたマリヤを「良いほうを選んだ」と言いました。主は誠実を尊び喜びます。私たちも、行いの前に神に完全な信頼をおいて、神のことばである聖書に聞きましょう。そして聖霊を通して語られる神の語りかけに耳を傾け従ってゆきましょう。その生き方を主は喜び、祝福してくださいます。
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