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木村太

1月2日「パンと杯の恵み」(コリント人への手紙 第一 11章23-29節)

■はじめに

 イエスは弟子たちに2つの礼典を守るように命じました。一つは洗礼式(マタイ28:19)、もう一つは聖餐式です(マタイ26:26-29)。そのため私たちの教会では月に一度、第一日曜日の礼拝で聖餐式を行っています。今年も聖餐式を通して主の恵みを受け取るために、今日はイエスが定めた聖餐式について聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.イエスがパンと杯による聖餐を守るように定めた

 聖書の中に聖餐とか聖餐式ということばはありません。聖書では「主の杯/主の食卓(Ⅰコリント10:21)」「主の晩餐(Ⅰコリント11:20)」と呼ばれています。もともとパンとぶどう酒の杯の聖餐式は、「餐」という文字が表しているように、一般的な会食の中で行われていました。そこでは、パンと杯の食事は神であるイエスに由来しているので「聖餐」、持ち寄りの食事会は「愛餐」と区別していたようです。それが、次第に儀式化され、AD114から150年ころに聖餐式という式典になりました。


 ではまず初めに、パンと杯の由来を見てみましょう。パウロが「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。(Ⅰコリント11:23)」と言ったように、パンと杯を定めたのは主イエスです。マタイ、マルコ、ルカの福音書にそのことが記されています(例えばマタイ26:26-29)。このときの食事はイエスが逮捕される直前に弟子たちと一緒にとった夕食、いわゆる最後の晩餐です。本来この食事は過越の祭りの食事であり、イスラエル人のエジプト脱出を記念する意味がありました。そこにイエスが「パンをわたしのからだ/ぶどう酒の杯を契約の血」というように、新しい意味づけをしたのです。


 またルカの福音書を見ると「わたしを覚えて、これを行いなさい。(ルカ22:19)」とイエスが命じています。このことばが元となって「パンと杯」が儀式的なものとして定められました。さらにパウロはコリントの手紙の中で「あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに」と言っていることから、パウロの時代にはすでに「新しい意味」におけるパンと杯が定着していました。


 さて、この「パンと杯」は弟子たちを一つの食卓に集めて、めいめいに分け与えた、というのが特徴です。すなわち、パンと杯はイエスを信じる者が一つの場所に集まって行う儀式なのです。「それぞれが各自でしなさい」ではありません。パンと杯は神の家族が一緒に行うものなのです。そして「やってもやらなくてもいい」のではなくて、キリストを信じる者はイエスを思い起こすためにこれを行わなければなりません。イエスによって救われていても、いまだ私たちには罪が残っていますから、イエスではないものにあこがれたり、イエスのことを忘れたり、見失ったりします。だから、パンと杯の聖餐式を通して、十字架で死んでよみがえったイエスを思い起こす必要があるのです。


Ⅱ.聖餐によって私たちはイエスの恵みを味わう

(1)パン:イエスが私たちの罪を贖うために死なれたこと

 先ほど申しましたようにイエスはパンと杯に新しい意味を定めました(Ⅰコリント11:23-24)。「食卓の中で最も権威のある者がパンを手に取り、神に感謝をささげてから裂いて一人一人に渡す」というのは、ユダヤ人の食事の作法です。イエスは5000人の食事でも同じようにしました。ぶどう酒を分けたのも同じ作法によります。


 ここで重要なのはイエスのことばです。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。(Ⅰコリント11:24)」かつてイエスはこう言いました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:47)/わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。(ヨハネ6:51)」


 パンはイエスご自身であり、そのパンを食べた者は永遠の命を得ます。また、47節と51節を比べると、イエスは「ご自身を信じる」ことを「パンを食べる」と言っています。つまり、分け与えられたパンを食べるというのは、「一人一人の罪ためにイエスが十字架で死んだ、そのイエスを自分は信じている」このことを意味します。さらに言うならば、私たちはパンの聖餐を受けるときに、イエスによる罪の赦しと永遠のいのちという神の恵みを味わうのです。


(2)杯:イエスの血は、私たちが神と契約を結んだ証

 杯のときに、イエスは「この杯は、わたしの血による新しい契約です。(Ⅰコリント11:25)」と言われました。ユダヤ人にとって契約の血には特別な意味があります。出エジプト24:8「モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。 」」とあります。神は律法を守れば祝福するという契約をイスラエルの民と結びました。そのときに注がれたいけにえの血が、契約を結んだ証なのです。


 この古い契約がいまやイエスによって新しい契約になりました。それが「イエスを信じれば、義と認めて、神の国に入らせる」という契約です。そして、いけにえとなったイエスが十字架刑で流した血が契約を結んだ証なのです。


 ですから、杯に入っているぶどう酒は流された血を表し、それを飲むというのは、契約の血が自分に注がれていることを表します。つまり、分け与えられた杯を飲むというのは「自分はイエスを通して神と契約を結んでいる」という事実を目に見える形にしているのです。それゆえ、私たちは杯の聖餐を受けるときに「イエスを信じた自分に神は天の御国(永遠のいのち)を約束している、そして自分はすでに神の家族となっている」これを味わうのです。


 ところで、イエスはパンと杯の両方で「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と命じています。これはパンも杯もイエスを思い出すために行いなさい、と言う意味です。確かに私たちはパンを通して、自分にささげられたイエスのいのちを思い出し、杯を通して神との契約の証であるイエスの血を思い出します。でも、思い出すだけにとどまりません。というのは、「イエスによる滅びからの救い」という神からの恵みを目に見える形で現したものが聖餐式だからです。だから、「イエスを私たちに与えるほどに、神が私たちを大切にしていること」「イエスも神に従って十字架にかかるほど私たちをいつくしんでいること」これを私たちはパンと杯で実感できるのです。聖餐式は、まさにこのとき、神からすばらしい恵みをすでに与えられたということを味わう手段なのです。


■おわりに

 パウロはコリントの手紙の中で、聖餐を受けるにふさわしいかどうか吟味しなさい、と命じています(Ⅰコリント11:27-29)。これは先ほど申しましたパンと杯の意味からすれば、「わたしの罪のために死んだイエスを信じているのか/イエスを通して神と契約を結んでいるか」を審査するのです。


 ですから、信仰を告白し、バプテスマを受けている人は全員、聖餐を受けられます。ただし、イエスの痛みや苦しみを思い出したときに、「わたしは神やイエスのあわれみを台無しにしている」と聖餐をためらう方もあるかと思います。でも、そんな方こそパンと杯を受けて欲しいのです。なぜなら、パンと杯は神の恵みを実感する手段だからです。聖餐式は私たちの心を神に向けさせ、イエスがそばにいてくださることをわからせ、聖霊の働きに敏感にさせるからです。聖餐式は私たちを神への感謝に導き、神に従う者へと変える働きがあるのです。

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