・はじめに
前回、「イエスはどんな物差しで物事を見るのか」というテーマで聖書に耳を傾け、「イエスは神のみこころという物差しで見る」という真理を受け取りました。それで、私たちも神のみこころを文字にした旧新66巻の聖書を物差しとして物事を判断したり、あるいは自分がみこころからずれいていないかをチェックします。パウロが「律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。(ローマ7:7)」と語るように、神が私たちに与えてくださった聖書のことば一つ一つが私たちの物差しなのです。今日は新しい年の初めに当たり、みことばと私たちの生き方について聖書に聞きます。
Ⅰ.詩人はみことば(神のことば)に従って生きているが、大きな苦しみの中にある(119:105-108)
今日取り扱う詩編119篇について特徴を簡単に説明します。この詩は8つの節からなる段落が22あり、各段落はヘブル語アルファベット22文字の順番となっています。さらに段落の8つの節は同じ文字から始まっています。例えば、105-112節では英語の「N」に相当する文字から始まっています。また全体にわたって「道、ことば(神の)、みおしえ、さとし、戒め、おきて」などの言葉がちりばめられていて、「みことばに従う生き方こそが信仰者の生きる道」というテーマが22通りで表現されています。
105節「あなたのみことば」とは神の口から発せられることばのすべてを指します。詩人はこれを「私の足のともしび(lamp)/私の道の光(light)」と告白します。私たちは暗い場所を歩くときは、足下と前方を照らす2種類の光が必要です。一歩でも踏み外したら危険な場所や、足を置く所を見極めながら歩くには、足下を照らすだけの光で十分です。しかし、足下だけに注意を払っていたら、何かにぶつかるかもしれないし、違う道に逸れてしまうこともあります。だから、前方を確認するための遠くまで照らす光が必要なのです。
信仰者の人生もそれと同じで、「神の前に正しいことをしているのか/間違いや悪をしていないか」のように今を確かめる方法、つまり「ともしび」が必要です。一方、「これから何をすればよいのか/どの方向に進めばよいのか」のように先を知るための方法、つまり「光」も必要です。ですから、みことばは私たちの今とこれからを、信仰者としてふさわしい道に導くのです。
そして、詩人はその真理をわかっているからみことばを実践します(106節)。「義の定めを守る」とは神の判断に委ねること、すなわち自分の考えや行動の全てをみことばと照らし合わせて、みことばに沿うことを意味します。人は神の息によって命を与えられましたから、神と同じように善と悪、義と不義を判断できます。でも、罪によって正しい判断ができないのも事実です。だからこそ、みことばに照らし合わせなければならないのです。
ただし、みことばをともしび、光として歩んでいても人生には困難があります(107-108節)。後の語りで「私はいつもいのちがけ/悪者どもは私に対して罠を設けた」とあるように、詩人は敵対する者から何らかの攻撃、それもひどいことを長い期間にわたって受けていると思われます。それで「みことばに従っているから約束通り、安らぎを与えて生き生きとさせてください」と神に願うのです。
さらに「祈りや賛美のような口のささげものをしますから、私のしていることが善いのか悪いのかを教えてください」と求めています。詩人はみことばに従って生きていますけれども、長く大きな苦しみの中にあるので、「この生き方で良いのかどうか教えてください」と主に嘆願するのです。
イエスを救い主と信じる私たちも「神のことばは完全に正しく誤りがない。神のことばに従うのが私たちの生き方だ。」と確信しています。けれども、毎日楽しさや笑い、喜びがあるわけではありません。事件や事故、重たい病、自然災害、紛争、迫害、そして今は新型コロナウィルスの影響など「主よなぜこんなに辛いのですか/いつまで続くのでしょうか」と嘆くときがあります。あるいは「私はあなたのお考えが今はわかりません」と訴えるときもあるでしょう。主のみことばはともしびであり、光であるというのは揺るぎない真理ですけれども、みことばに従った人生に苦難があるのも事実なのです。
Ⅱ.詩人にとってみことばは祝福への道であり、喜びであるから、どんなときもいつまでもみことばに従う(119:109-112)
大きな苦しみが長く続くとき、私たちは神に従い忍耐しながら平安を待つという心と、神以外のものに安心を求めたい心に揺れ動きます。その間を行ったり来たりかもしれませんし、時には「イエス様を信じても何にもならない」と、しばらくの間、神から遠ざかってしまうこともあります。この詩人はどうだったでしょうか。
109-110節において「いつもいのちがけ/悪者どもは私に対して罠を設けた」とあるように、具体的な状況はわかりませんが、詩人は生きるために必死で、常に気を張っている日々を送っています。そんな中でも詩人は「あなたのみおしえを忘れません/あなたの戒めから迷い出ません」と、みことばを忘れずみことばから逸れなかった、と告白します。神に苦しさを訴えるほどに辛い中にありながらも、自分の置かれた状況は一向に良くならなくても、今を耐えながら神に従っているのです。
なぜ詩人はみことばを忘れず逸れなかったのでしょうか。その理由が111節にあります。「さとし」とは「神のことばが真実であるという証し」を言います。詩人は「みことばは真実だ」という証拠を手にしているのです。もう少し噛み砕いて言えば、彼は「みことばは永遠に変わらず、約束は必ずそのとおりになる」ということを確信しているのです。だから喜ぶのです。
例えば、今にも転覆しそうな船の中で、未来を知っている人から「この船は沈没しません。みんな助かります。」ということばをもらったらうれしくなるでしょう。詩人は「神に従えば祝福を、背けば呪いを受ける」という神の約束がそのとおりに果たされることを経験を通して知っているから、みことばの真実を喜びます。そして、深く長い苦しみの中にいても、みことばに従えば必ず平安と喜びに至る、とわかっているからみことばにとどります。
さらに、「みことばの真実」を経験しているから、112節「私は、あなたのおきて(代々にわたって守るべきこと)を行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。」と宣言できるのです。神のことばは真実で、永遠に変わりなく、そのとおりになります。このことを知っているのが私たちの幸いです。そして、「神のことばは本当だ」という経験が「やはり、あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光でした。」という神への信頼を高めるのです。ですから、まず神のことばを信頼して、一歩足を踏み出し、神のことばがその通りであることを経験することが大切なのです。
・おわりに
神は私たちを滅びから救うために怒りをなだめるいけにえとしてキリストを与えてくださいました。そして、キリストを信じる私たちが、この地上で不安と恐れから解放され安らぎと喜びとなるように、また周囲に救いを明らかにする人生を送れるように、みことばすなわち聖書を与えてくださいました。さらには聖霊を送って、みことばを理解させる力を与えてくださっています。
ですから、みことばを知って自分の中に取り入れるというのは、信仰者だけに与えられた特権なのです。まさに詩人がこう語るとおりです。
「幸いなことよ全き道を行く人々【主】のみおしえに歩む人々。 幸いなことよ主のさとしを守り心を尽くして主を求める人々。(119:1-2)」
みことばを「私の足のともしび私の道の光」とすることは、幸いな人生をすでに歩んでいることなのです。
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