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木村太

1月5日「幸いな人」(詩篇1篇)

  詩篇の第1篇は、150ある詩篇全体の要約あるいは導入と言われています。というのも、詩篇全体が「神に従えば祝福を、背けば呪いを」という神の約束に基づいていて、詩篇1編にはその約束が明確かつ簡潔に記されているからです。言い換えれば、第1篇がほかの詩の理解を助けてくれると言えます。

 今日は1年の始まりに当たって、私たちの生き方について聖書に聞きましょう。


Ⅰ.主の定める幸いな人(1:1-3)

(1)幸いな人は一切の悪から離れている

  1節「幸いなことよ」150ある詩篇がこのことばから始まります。感情を込めた言い方をするならば「幸いだ/なんて幸せなんだろう」となるでしょう。詩人はまず「こういう人が幸いだ」と言いたいのです。それで詩人はどんな人が幸いなのかを明らかにします。

  1節には幸いな人のふるまい、特に悪に対するふるまいが描かれています。幸いな人は悪者の悪い企み(はかりごと)に誘惑されても退け、自分から悪の道に踏み込みません。そして嘲る者すなわち主なる神を馬鹿にする人生に浸りません。本来人間は罪を持っているがゆえにこのような生き方はできません。たとえ直接的に神を馬鹿にしなくても、あるいは存在を否定しなくても、自分の判断を最優先にしていること自体が神を侮っています。だから意識的にあるいは無意識的に悪を選んでしまい、悪い企みに誘惑され、悪の道に足を踏み入れるのです。

  なぜ、1節のような人が幸いなのか、それはこの生き方が神の喜ばれる生き方だからです。神は罪を徹底的に嫌い怒ります。わずかな悪も見逃しはしません。それゆえ神の怒りにつながること、すなわち罪ゆえの悪を企まず働かないことが幸いになります。そのためには悪の源である神を嘲る心に留まらないことが肝心なのです。まさに罪が入る前の人が幸いな人のモデルです。冒頭のことばは私たちが幸いな人として歩んでいるかどうかのチェックリストといえます。


(2)幸いな人は常に主のことばに従い、従うことを喜んでいる

  では、幸いな人はどうして悪から完全に離れることができるのでしょうか。その理由が2節です。主のおしえは、私たちが祝福を受け取るための唯一の手段です。たとえば、物事がうまく行かないときに「こうやれば絶対にうまくいくよ」と秘訣を教えられたら、そのおしえを喜んで心にしっかりと憶えて忘れないようにするでしょう。それと同じように、主なる神のおしえは祝福に至る秘訣だから、私たちはそのおしえを喜び、自分の内側にきっちり納めます。神はご自信に聞き従うことをを何よりも喜ぶお方です。神の喜びこそが私たちの喜びになります。また、「昼も夜もそのおしえを口ずさむ」とあるように、あらゆるときにそのおしえを取り出して従うのです。ただし、旧約聖書に出て来るイスラエルの民のように、ときとして私たちはうまくいっているときは主のおしえに耳を傾けず、困ったら必死にことばを求めることがあります。「昼も夜もそのおしえを口ずさむ」とは自分の都合で聞いたり聞かなかったりではなく、順調であっても逆境であっても主に聞き従う生き方を示しています。

  悪が蔓延している暗闇のような世の中にあって、人が正しい道を歩んで幸いに生きられるように、神はおしえを私たちに与えてくださっています。ここに神の深いあわれみがあります。


(3)幸いな人はあらゆることを成し遂げられる

  続く3節は幸いな人がどんな人生を送るのかが、たとえで記されています。イスラエルは乾燥地帯が多いですから水はまさしく命の源です。だから、人の手によって造られた流れすなわち水路のほとりに植えられた木は、日照りが続いても水路から水をもらえます。ここで「時が来ると実を結びその葉は枯れず」とあります。水路のほとりにない木々は、雨がなければ成長せず実をつける時期が来ても実がならないばかりか、最悪の場合には枯れてしまいます。一方、ほとりに植えられた木は、どんなに日照りが厳しくても水路の水があるので、時期が来れば実を結び、枯れずしおれることはありません。つまり、木すなわち私たちは、水路すなわち主のおしえをいつも吸い取り、主のおしえによって生きているからことばやふるまいに実を結べます。実とは「慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容」といったキリストの実践であり、神のすばらしさを明らかにすることです。同時にどんな苦難であっても、主のおしえが不思議な励ましや慰めや平安を与えるから、しおれることなく生き生きできるのです。キリストがこう語った通りです。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。(ヨハネ4:14)」

  これに加えて「そのなすことはすべて栄える。」とあります。「栄える」という単語には「成し遂げる/うまくゆく」の意味があります。ですから、何かの目的をもって事を成せば、その目的が成し遂げられる、これが栄えるの意味するところです。もう少しことばを加えるならば、主のおしえによって生きている人は、まさに主のみこころをこの地上で実践していることになります。だから何をしても成し遂げられる、うまくゆくのです。モーセやダビデのような指導者の人生を見ればそのことがよくわかります。あらゆるときに「主よどうすればよいですか」と伺い、主の仰せに従ったとき、戦いに勝てたり、たいへんな困難を乗り越えて、人々や国が繁栄してゆきます。ただし気をつけたいのは、主のおしえを喜び従うのですから、自分の思いと違うこともあります。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」などはその典型でしょう。幸いな人は主への完全な信頼があるからこそ、どんなときも自分よりも主のおしえ、みこころを優先し聞き従います。その結果として生き生きとした人生や成し遂げることが生まれます。


  1-3節を見て明らかなように、幸いな人とは神に聞き従って生きている人なのです。この世の中で言われる幸いは財産、地位、健康、家族、人間関係、国家・社会の平和など目に見える物事で判断されます。しかし、神の定める幸いな人とは生き方そのものなのです。幸いな人はどんなときも神が中心です。だから身に起こる出来事に幸福感が左右されないのです。


Ⅱ.主のおしえに従わない者は、この世の価値観に振り回された末に滅びに至る(1:4-6)

  さて、詩の後半には主のおしえに従わない人、つまり主に背く人の有様が描かれています。1節のことばを借りるなら「悪しき者のはかりごとに歩み、罪人の道に立ち、嘲る者の座に着く人。」となるでしょう。4節の籾殻は中身がないので風に対して何ら太刀打ちできません。主のおしえに従う者は主に根を下ろします。しかし、そうでない人は幸いとなるために、財産や地位や権力などといったこの世の価値観という風に振り回されます。たとえ栄えていて誰からも「あの人は幸いな人だ」と言われても、主に根ざさない者は振り回され、命の終わりにはすべてを失います。しかも、主のおしえに聞かず世の中に振り回される者は、自分を満たすために悪に走ります。行いに出なくとも心の中で悪を企むこと自体が神を嘲っているのです。人は例外なくそのような性質を持ってます。

  さらに、5節のように主に背く悪者はさばきすなわち最後の審判ではその罰に耐えられません。なぜなら、彼を無罪にする証言が一つもないからです。だから無罪判決を受けた正しい者たちの集いには悪者は絶対に入れないのです。地上の生涯でどれほど栄えていたとしても、籾殻が最後には火で焼かれるように、神に背く者は命が終わった後に永遠の苦しみに行くのです。

  結局6節にあるように、人にとって生きる道は二つしかありません。一方は、籾殻のように根を張ることもできず、フラフラと世間の風に吹かれ、自分の思い通りに生きているようであっても、最後には神のさばきによって滅びに至る道です。もう一方は、神のおしえに聞き従い、神から幸いな者とされ、神のみこころを実践する道です。しかも、神はいつもその人の歩む道を見ておられ、見守り助けてくださるのです。詩篇1篇は神のことばに従う者とそうではない者の有様を、まるで光と闇のようにはっきりと描いています。つまり、「あなたにとってどちらが幸いなのか」を神はこの詩を通して私たちに教えてくださっているのです。と同時に「あなたはどちらを選ぶのか」を問いかけているのです。



  天地創造において人は「【主】のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。流れのほとりに植えられた木」でした。しかし、罪が入った故に流れから遙か遠いところに行っているのです。地上の人生で言えば、神から遠く離れて悪しき者となり、罪人の道を歩み、神を嘲る場所に腰をおろし、滅びの道を一直線に歩んでいる者です。常に幸いを求めてふらふらしています。神が定める幸いな人とは全く反対に歩んでいるのです。「なんて幸せなんだ」と喜んでいても、神からすれば悲惨のまっただ中です。しかし、神はそのような私たちを放っておきませんでした。我が子キリストのいのちを犠牲にして、キリストを救い主と信じる者を再び幸いな道に入らせてくださいました。キリストによって私たちは再び流れのほとりに植えられ、神のおしえすなわち聖書という流れの水を飲むことができるのです(疑いなく信じること)。繰り返しになりますが、私たちはもともと悪しき者、籾殻、滅びの道を生きていました。しかし、神の深く変わらないあわれみによって、神のおしえを喜び、神のみころろを現す幸いな者に変えられたのです。その神に感謝と賛美をささげましょう。

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