■はじめに
インターネットニュースの芸能枠を見ていると、「俳優の○○がハプニングに大人の対応をした」という記事を目にする時があります。大人の対応とは「突発的あるいは混乱を招く出来事に落ち着いて対応し、その場の感情に左右されないで思慮分別を持って応じる姿」と言えます。成熟したクリスチャンもこれに似ています。誰でも動揺しあわてふためくような出来事であっても、イエスならどうするのかを落ち着いて祈り求め、平和の内に事を運びます。私自身、そんなクリスチャンにあこがれます。今日はイエスの従順を通して信仰における大人について聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.イエスはどんなときも神に従い通したから救いの源となり、神から大祭司と呼ばれた(5:8-10)
この手紙のキーワードは「とこしえの大祭司キリスト」です。著者はまず律法で定められた大祭司について説明し、その上でイエスがなぜ大祭司と呼ばれるのかを明らかにしています(5:1-7)。ただし、キリストは大祭司と同じ役割を果たしていますが、人間の大祭司とは異なる点もあります。5章で言うなら「神が生んだ(5節)/とこしえの祭司(6節)/敬虔のゆえに聞き入れられた(7節)」が異なるところです。そこで著者は大祭司キリストだけが持っている特徴を語ります。
「キリストは御子であられるのに(8節)」とあるように、キリストは神の子でありながら人間、すなわち神よりも弱く低い存在として生まれました。その上で、神に従うことによって被るいかなる苦難にも神への従順を貫きました。十字架を含めて、どんな辛さに遭っても、どんなに強い罪の誘惑に遭ってもキリストは父なる神以外に頼ることはありませんでした。苦難における従順を身を持って経験したのです(8節)。
それゆえ、キリストは神から見て完全な者となりました(9節)。「完全な者とされた(9節)」とはキリストがもともと不完全だった訳ではありません。「人として生まれ、苦難を生きなが十字架で死ぬ」という神の目的をキリストが完全に果たしたことを指しています。
このキリストを通して神は2つのことがらを実現しました。一つは、キリストを信じ従う人にとってキリストが救いの源になったことです(9節)。「救いの源になる」とあるように、キリストは人に救いをもたらす唯一の存在です。なぜなら、完全なキリストは十字架の死で終わらず、人とは全く違うからだでよみがえり、父のおられる天に上ったからです。キリストこそが永遠のいのちであり(ヨハネ11:25)、このキリストを信じる者はキリストと一つになります(ローマ6:5)。だからキリストと同じように、死という滅びで終わらず、よみがえって天の御国に行けるのです。
もう一つは「メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれた」ことです(10節)。メルキゼデクは創世記に登場する人物で、後の7章で詳しく述べられます。彼はサレムの王であり祭司でした。メルキゼデクは「いと高き神の名によって」アブラハムに祝福を与えました(創世記14:18-20)。これは、「メルキゼデクがご自身の名を用いること」を神が咎めないで認めている証拠です。まさにメルキゼデクは神の名によって、すなわち神の代理として祝福を与えたのです。律法で定められたレビ族ではない者が神と人とをとりなしたのを神は良しとしたのです。それで、レビ族ではないユダ族のキリストが神と人とをとりなすから、メルキゼデクと同じように神はキリストを大祭司と呼ぶのです。
キリストは神の御子ですから神の栄光を持ち、神と同じ性質を持っています(ヘブル1:3)。それゆえ、神とともに天に座すべきお方です。しかし、天からこの地上に人として来られました。キリストはどんな苦難に際しても神に従い通し、神のみこころである十字架でさえもお受けになりました。そしてキリストはよみがえって父のおられる天に戻りました。つまり、「神に従い通した者は死で終わらず、新しいからだによみがえって天の御国に入る」このことをキリストは目に見えるかたちで人に明らかにしたのです。しかも、人が受けるあらゆる辛さを身を持って受けたから、苦しんでいる人に同情しその人のために神にとりなすことができます。この手紙の著者は、迫害で苦しみキリストから離れそうになっているクリスチャンに対して、「頼るべきはキリストであり、希望と助けはキリストのみにある」と訴えているのです。
Ⅱ.神の教えをあらゆるものごとに適用することが信仰を成長させる(5:11-14)
ここで著者は大祭司キリストを説明するために、まずメルキゼデクを扱います(11節)。著者はメルキゼデクを通してキリストがどれほど優れているのかを説明しようとしています。けれども彼は「それはあなた方には難しい」と言います。なぜなら、「聞くことに対して鈍くなっているから」とあるように、たとえキリストのことを語ったとしても、耳の遠い人のように内側に届かないからです。そんな彼らの姿を著者はこう説明します(12節)。
手紙の読者であるユダヤ人クリスチャンは、信仰の年数からすれば教師すなわち人にキリストを教える立場になってもおかしくはありませんでした。神のことを教えてもらう時期はとっくに終わっているはずなのです。しかし、彼らは教えてもらうばかりか、初歩から教えられなければならない状態でした。12節「初歩」は直訳では「初めの基本」ですから、イロハのイから教えてもらわなければならないほどの信仰だったのです。それで著者は「固い食物ではなく、乳が必要」とたとえるように、「あなた方は信仰においてはまるっきり赤ちゃんだ」と指摘するのです。
続けて著者は「なぜ読者がそうなってしまったのか」を信仰における幼子と大人の対比から明らかにします(13-14節)。彼は「信仰における幼子は神の義に通じていない(13節)」と言います。「神の義」とは正と不正、善と悪、聖さと汚れを判断するための神の基準を言います。そして「通じていない」は「不慣れ」を意味しますから、信仰における幼子は神の義を知っているけれども自分の人生に使っていないのです。乳を飲んでいる幼子は与えられた乳を飲むだけで、大人のように自分から食べ物に手を出して、口でかみ砕くことはしません。それと同じように、信仰の幼子は神のことを知識として与えられてはいるけれども、その知識を直面するものごとに適用していないから、神の義に慣れていないのです。言うなれば「キリストならどうするのか」を意識していないから、キリストの話をしても実感できないのです。
一方、大人は固い食べ物を食べることができます(14節)。「善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された」とあるように、信仰における大人は神の義をいつも適用しているから、経験を積むことで善と悪を判別できるようになります。ただし、「訓練」と著者が言うように、神のことばを実際の生活に適用するときは苦しみや忍耐を伴います。例えば、日本だと「人の平安はイエスからもたらされる」と言っても、「そんなことあるわけがない/宗教に洗脳されている」と言われることがあります。あるいは、「罪のない人は一人もいない」と言っても「赤ちゃんにも罪があるのか」と反発されます。キリストも真実を語った際にパリサイ人や律法学者から非難されました。十字架刑に至る中でも「自分は神の子」と証言したために祭司長たちから神冒涜で死刑を言われました。この世は「神の義」広く言えば「神のことば」に基づいていません。だから神のことばを実践する際には苦難が伴うのです。
しかし、神のことばの実践には苦難だけが伴うのではありません。キリストもその苦難を身を持って経験していますから、苦しむ者に同情してくださり、不思議な助けと平安を与えてくださるのです。それが神のことばを実践する者の励ましや喜びとなるから、ますます神のことばを用いて生きようとするのです。これが信仰の成長です。「キリストを信頼し、キリストの助けを信じて、キリストのように神のことばに基づいて生きる」これが幼子の信仰から大人の信仰になるための唯一の道です。と同時に、キリストをいつも身近に置いているから、キリストの話を実感を伴って受け取れるのです。
■おわりに
私たちはキリストを信じてキリストに従って生きるものです。ただし、先ほど申しましたようにその人生には苦難があります。迫害はその最たるものですが、そこまでゆかなくても、仲間はずれ、からかい、好奇の目で見られることがあります。信仰を貫くには苦難とそれに立ち向かう覚悟が伴うのです。
しかし忘れてはなりません。キリストがどのような苦難であっても神に従順で完全であったように、信仰ゆえの苦難は信仰を貫けるかどうかのテストなのです。キリストに頼り従うのか、キリスト以外に頼り従うのかが問われているのです。その時、私たちはキリストをお手本としてキリストに目を向け続けましょう。キリストは私たちの苦しみをわかっていますから、神にとりなし何らかの助けを与えてくださいます。そして、キリストに従った先には、キリストと同じように天の御国が待っています。キリストによる助けの事実と天の御国という希望があるから、私たちはどんな苦しみにあっても落ち着いて対応できる大人の信仰を保てるのです。
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