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木村太

1月9日「空(から)の墓」(ヨハネの福音書20章1-10節)

■はじめに

 皆さんは「初めて見るもの」や「あり得ない状況」に出会った時どうなりますか。心理学者によれば、人は未知のものに直面した時、それまでの経験や知識から解釈したり置き換えたりする、とされています。例えば、世界で最初に映画を見た人は驚いてスクリーンの裏側を確かめました。またパウロが言うように、人は目に見えない神の姿を、強さや知恵といった性質に合わせて獣や鳥の像にしています(ローマ1:23)。イエスのよみがえりもこの世ではあり得ないことです。今日は、イエスと深く関わった者たちが空の墓を目にしてどんな反応を示したのかを見てゆきます。


■本論

Ⅰ.マグダラのマリアはイエスの遺体がなくなっているのを見て、イエスが取り去られたと思った(20:1-2)

 イエスは弟子たちと一緒に活動していたとき、ご自身が死刑で死んで3日目によみがえると伝えました。その3日目がやってきました。


 イエスが十字架で死んだ日は安息日の備え日であり、その翌日が安息日、そして今は週の初めの日と呼ばれる安息日の翌日なので3日目になります(1節)。マグダラのマリアは他の女性と一緒にイエスが埋葬された墓にやって来ました。彼女たちはイエスがどこに、どのように葬られたのかを見ていたので、正式な埋葬をするために来たのです(ルカ24:1)。日が昇りかけている中で来ていることから、「すぐにでもちゃんと葬ってあげたい。」というイエスへの思いが伝わってきます。


 マリアは墓を塞いでいる大きな石がすでに墓からわきに転がされているのを見ました。さらに中をのぞいて、イエスの遺体がなくなっていることに気づきました。埋葬にやって来た彼女にとってはショックだったでしょう。それでマリアはこのことを一刻も早く弟子たちに伝えるために彼らのいる所へ走り、弟子のリーダー格であるペテロとイエスが愛された弟子に伝えました(2節)。この弟子はヨハネと思われます。


 マリアは彼らに「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」と言いました。後ほど説明しますが、巻いていた亜麻布だけがそのまま残っていて、イエスの体だけが消えているのを彼女は見たのです。長い年月をかけて遺体が朽ちたのなら分かりますが、おとつい葬ったばかりですから、あり得ない状況なのです。


 ここでマリアは「誰かがイエスの体を取り去ってどこかへ移した。」という答えを出しました。かつて彼女はイエスによって7つの悪霊を追い出してもらいました(ルカ8:2)。人にはできないことをイエスはなしたけれども、体だけがなくなった事実をそのまま受け取れないのです。だから、今起きているあり得ない状況を自分の知識で解釈しました。よみがえりなどとは思いもつかないでしょう。つまり彼女はイエスを自分たちと同じ人間と見ているのです。「イエスは驚くような力を持っている。」と信じていても、十字架での死と埋葬を見たら、「イエスは人間だ。」と見なすのは当然かも知れません。


 イエスのよみがえりをはじめ、聖書にはこの世の知識ではあり得ないことにあふれています。ですから現代においても、マリアのように不思議な事実を事実として受け取るのが難しく、様々な仮説を立てて、自分たちの持っている知識で説明しようとします。けれども神がなさることですから、私たちが「どうしてそうなったのか。」を説明できなくても当たり前です。大事なのは神がなさることをそのまま事実として受け入れることなのです。


Ⅱ.ペテロともう一人の弟子はなくなっている状況を見て、イエスのよみがえりを信じた(20:3-10)

 ペテロともう一人の弟子は、マリアの知らせを聞いてすぐに行動します。二人はマリアの話が本当かどうかを確かめるために墓へ急ぎました(3節)。この時点では二人ともイエスのよみがえりを分かっていません。なぜなら、マリアの知らせだけで「主が語っていたとおり、主はよみがえった。」という反応をせず、まず確かめに向かったからです。


 もう一人の弟子はペテロよりも先に墓に着きました(4節)。ペテロよりも足が速かったのかもしれません。彼は身をかがめて墓の中の様子をしっかりと見ました(5節)。しかし彼はイエスを巻いていた亜麻布だけがあるのを見て恐ろしくなり、中に入れませんでした。一方、続いて到着したペテロはためらいなく墓に入り、中を見ました(6節)。


 彼らはこんな光景を目にしました。「イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。(7節)」参考文献を元に解説します。ニコデモは埋葬のため没薬とアロエ(沈香)を混ぜ合わせた香料を大量に持って来ました。当時の埋葬の習慣では遺体と亜麻布の間に、また亜麻布と亜麻布の間に香料を塗り固めます。つまり、イエスの遺体だけを持っていこうとするならば固まった亜麻布をほどかなければならず、体の形どおりにぐるぐるに巻いたまま残っているのはあり得ないのです。彼らは、すっぽりと体が抜けるようにしてなくなっているのを見ました。しかも頭を巻いていた布は体とは別の所にありました。これも不思議です。だからもう一人の弟子は最初に見て恐怖を感じたのです。


 ペテロに続いてもう一人の弟子も中に入りました(8節)。彼はイエスの体が理解できない仕方で消えているのを分かり、イエスのよみがえりを信じました。9節に「彼らは」とあることからペテロもよみがえりを信じました。彼らは、なぜこんなふうになったのかを自分たちの知識やこの世の知識で解釈しようとせず、この現実がイエスのよみがえりの証拠だと信じたのです。それで彼らは墓の様子とイエスのよみがえりを仲間に伝えるために戻りました(10節)。


 ここでヨハネは彼らが何を信じたのかについて説明を加えています(9節)。「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書」は詩篇16:10を指し、神を完全に信頼し従う者は決して滅びない、という真理を表しています。


詩篇16:10「あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」


 つまり彼らは、イエスが言ったとおり三日目にイエスがよみがえったことを信じているけれども、それが旧約聖書の実現だとは分かっていないのです。言い換えれば、「なぜイエスはよみがえらなければならないのか」には、まだ目が開かれていないのです。当然、イエスを信じる者は敬虔な者すなわち義と認められるから滅びない、ということも分かっていません。このことについてはイエスが天に戻った後、聖霊が下って分かるようになります(ヨハネ16:13)。


 この時点では、ペテロともう一人の弟子は「イエスがよみがえったことだけ」を信じています。当然、「死んで三日目によみがえる」といったイエスのことばがそのどおりになったと認め、そこからイエスのことばは真実だという確信に至ります。「死んだ者が3日目によみがえる」のは、この世ではあり得ないし、説明もできません。けれども、あり得ない出来事を信じることが信仰の第一歩なのです。


■おわりに

 マグダラのマリアとペテロそしてもう一人の弟子はイエスの死と埋葬を知っています。その上で、彼らは死んで三日目にイエスの体が理解できない方法でなくなっているのを目にしました。その時マリアは誰かが取って行ったと考えました。ペテロともう一人の弟子は主イエスのよみがえりを信じました。しかも二人はよみがえりのイエスを見ていないのにです。同じ光景を見たのに両者には違いがあります。


 確かにマリアと弟子たちではイエスと接していた時間や教えられたことがらについて大変な差があります。特に「死刑で殺され3日目によみがえる」という予告をマリアは聞いていなかったかも知れません。けれども一番の違いは、ペテロともう一人の弟子はすでに神からイエスに与えられた者という事実です。十字架にかかる前、イエスは弟子たちのために父なる神にこう祈りました。


「あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。(ヨハネ17:6)」


 つまり、よみがえりを信じたのは神の選びという神の働きによるのです。さらに言うならば、イエスを救い主と信じる信仰も神の働きによります。現代でも、一度の礼拝説教でイエスを救い主と信じる方がいます。一方で、イエスやキリスト教、聖書を研究する方々が全員イエスを信じるとは限りません。よみがえりのイエスを見ないで信じるのは、人の性格や能力やイエスについて接している時間に拠りません。ただただ神の働きしかないのです。


 神が誰にいつ働いてイエスを救い主と信じるようになるのか、私たちにはわかりません。私も生まれてからずっと「神なんていない」と断言していたのに、今は「イエスは救い主です」と語っています。だから、信じられない出来事を信じ、イエスを信じるようになった自分を誇るのではなく、神に感謝し、十字架で死んだイエスに感謝するのです。そしてキリスト教に触れた人々全てに神の働きがあるように祈るのです。

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