私は洗礼を受けてから3年くらい、信仰は何の役にも立たないと思っていました。キリストを信じれば抱えている問題が解決に向かうと思っていたからです。しかしこの思い込みは見事に外れました。この時は目に見える出来事しか見ておらず、神から守られていることに気づいていなかったのです。今日は、私たちは常に神の愛の中にいることを聖書に聞きます。
Ⅰ.私たちには地上の人生においても最後の審判においても敵対できるものはいない (8:31-34)
ローマ8:31-39は「勝利の賛歌」と呼ばれ、パウロが神の愛に感動して神をほめたたえています。パウロはここに至るまで、キリストを信じた者には聖霊が働くこと、そして神のご計画の中で生きていることを語ってきました。ここから「では、これらのことからどう言えるでしょう。」とことばをつないで、キリストを信じた者の人生について語ります。
31-32節には私たちが受ける2つの苦難があります。まず31節では「敵対」とあるように、精神的あるいは肉体的苦痛を与える存在を、続く32節では「すべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」とあるように食料や経済の貧しさとか欠乏を挙げています。この二つは当時のローマにおいても、こんにちの日本においても、クリスチャンを信仰から遠ざける苦難と言えます。冒頭に申しましたように「キリストを信じたのにどうして」という疑問を生むからです。
ところがパウロは「だれが私たちに敵対できるでしょう。/どうして...恵んでくださらないことがあるでしょうか。」と言っています。これは「いや、そんなことはない。」という答えを強調する言い方です。つまりパウロは「だれも敵対できないし、神は必ず必要を満たしてくださる。」と断言するのです。なぜなら、私たちの背後に神が立っているごとく、万軍の主である神が私たちの味方だから、何ものも敵対できないからです。別の言い方をするならば、後に語られるように、がっちりと捕まえられた人から神を引きはがすことなどできないからです。また、神は最も大切な御子キリストを私たちのために惜しまなかったのだから、ましてや御子以外のものはより惜しまずに与えてくださるからです。詩篇作者も欠乏や敵対者についてこう歌っています。「【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。... たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。(詩篇23:1-2,4)」神が私たちの味方であるから私たちはどのような苦難に直面しても、あるいは思い通りになっていなくても、もうろたえ続けることはないのです。
さらにパウロは苦難という地上のことに加えて、将来のさばきについて語ります(33-34節)。「訴える/義と認める(無罪)/罪ありとする(有罪)/とりなす(弁護)」これら裁判用語を用いて、パウロはキリストの再臨で行われる裁判いわゆる最後の審判を明らかにしています。最後の審判において、神はご自身の前に立つ人間が無罪となって天の御国に行くのか、それとも有罪となって永遠の滅びに行くのかを神ご自身が判決を下します。しかし、ここでも私たちは安心して良いのです。なぜなら、十字架の死からよみがえったキリストが「この人の罪の罰を私が引き受けました。だから私を救い主と信じるこの人の罪を赦してください。」と神にとりなすからです。完全に正しく偽りのない神の子が弁護しているのですから、誰も訴えることはできないし、誰も罪に定めることはできません。
地上の人生においてはクリスチャンゆえにからかわれたり、差別にあったりします。ひどい時には、獅子の穴に投げ込まれたダニエルのように、不当な法令によって有罪判決となり刑罰を受けることもあるでしょう。けれども私たちが最も恐れるべきは最後の審判で有罪となり永遠の滅び行くことです。でもキリストによって無罪判決がすでに確定しているから私たちは安心していられます。地上の人生においては神が守り支え与えてくださるから安心できるし、やがて受ける審判では無罪そして天の御国が確定しているから安心できるのです。
Ⅱ.私たちは圧倒的な勝利者であって、何ものも私たちを神の愛から引き離すことはできない(8:35-39)
パウロは、何があっても安心できることを自分の経験から説明します。35節「苦難、苦悩、迫害、飢え...」とあるように、パウロは福音を伝える働きの中であらるゆ苦しみを受けました。コリント人への手紙を見ると「むち打ち、石打ち、難船と漂流、盗難、飢え渇き、寒さと凍え」など驚くほどの苦痛を受けてきました(Ⅱコリント11:23-28)。36節にあるように、日々激しい苦しみを受けているその姿は、まるで屠殺場でただ死を待つ羊のようだったのです。しかし、どれほどの苦難であっても、神と自分との関係、すなわち父と子の愛の関係を分断することはできません。なぜなら、キリストの十字架での死という事実が、神が私を愛し続けている証拠だからです。そして神の愛は決して変わらないからです。
それでパウロはこう断言します(37節)。激しい苦しみ、辛さの中にあり、死を待つだけの羊のように何もできない状態であったとしても、何ものも私たちから神を引き離すことはできません。また、最後の審判ではキリストがとりなすので何ものも私たちを滅びに定めることはできません。何ものも神を揺るがせないから圧倒的なのです。もし、この世で権力、財力、体力、知力といった力によって敗北者とみなされても、真実は神の守りの中にあり、そして天の御国がすでに決まっているから圧倒的な勝利者なのです。たとえこの世で勝ち組となっても、永遠の滅びに定められる方が恐ろしいのです。
そして圧倒的な勝利者という感動から、パウロは神の愛を語ります(38-39節)。「死、いのち、御使い...高いところにあるものも、深いところにあるものも...は」神から私たちを引き離す力あるいは存在です。人や地域、社会、国家といった目に見えるものもあれば、サタンのように目に見えない存在もあります。これらの力と存在が「患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」のような苦しみをもたらし、人と神とを分断しようとします。ヨブ記1章に出てくるサタンがまさにこれです。
けれども、どんな力も存在もキリストと結ばれたクリスチャンを神の愛から引き離すことはできません。言い換えれば、「我が子キリストを犠牲にしてまでも人を滅びから救いたい」という神の愛、「自分のいのちを差し出し、人知を越えた苦しみ・痛みを受けても人を滅びから救いたい」というキリストの愛、これに私たちはがっちりと永遠に捉えられているのです。たとえ私たちが罪の誘惑に乗ってしまい、神を無視したり忘れたり見失っても、神は私たちを愛し捉えているのです。人の愛は困難によってたやすく壊れます。自分の子どもを大切にしていても、思うようにならないから虐待する、互いに支え合う関係でも利害の対立で敵対者になるなど、人の愛は状況によって変わります。しかし、私と神との間に何があろうとも、神の愛は永遠に不変なのです。神の愛はどこまでも一方的で相手の様子やふるまいに左右されません。
何ものも引き離すことのできない永遠不変の愛、この中にキリストを信じる私たちは生きています。旧約聖書にあるように、神は決して私たちを見放さず、見捨てません。この真実があるから、私たちはどんな困難においても圧倒的な勝利者として神から平安を受け取り、天の御国を見上げながら生きることができるのです。
私たちの人生には苦しみがあります。病気や災害、貧困、差別、戦争など、キリストを信じていてもいなくても誰にも苦難はあります。それに加えて、私たちにはキリストを信じた故の苦しみもあります。過去には耶蘇と呼ばれて馬鹿にされ時代や地域もありました。今でも偏見を持たれることがあります。家族や学校、職場などでたった一人であれば、価値観や倫理観の違いから苦しむことがあるでしょう。仏式や神道の宗教行事にどう対応したらよいのか悩むこともあるでしょう。「信じたのにどうして次々と苦しみが来るの/信じなければこんなに悩み苦しむことはなかったのに」と嘆く事態に誰でも遭うのです。そんな時は、目の前の物事だけを見るのではなく、高いところから自分の置かれている様子を見、そして神のことばに耳を傾けましょう。そうすれば神の愛の中にいることがわかります。神はあなたをがっちりと掴んでいます。決して離すことはありません。だから、平安という圧倒的な勝利が訪れるのです。
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