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木村太

10月27日「喜びと感謝の礼拝」(詩篇100篇)

 私たちにとって日曜日は神を礼拝する日として、他の6日間とは異なる特別な日です。ただ、世間からは「クリスチャンは日曜日に礼拝に行かなくてはだめなんでしょう」とか「クリスチャンは日曜日休みじゃないんだよね」と言われます。キリスト教にとって礼拝が義務のように見られているのは確かです。でも、私たちも人のことを言える立場ではありません。「親に言われて渋々行く」「今日は面倒くさい」といった経験が誰にでもあると思います。今日は、「キリストを信じる者にとって礼拝とは何なのか」このことを詩篇100篇から見てゆきましょう。


Ⅰ.礼拝は喜びをもって神の前に来ることから始まり、喜び・感謝・賞賛・尊敬をことばや歌で表す

  詩篇100篇は、神の民イスラエルの人びとが礼拝のために神殿へ入る際に歌われたものと考えられています。キリストによる救いの前、いわゆる旧約の時代には、神が来られる場所は神殿の至聖所でしたので、神の民は礼拝のために神殿に集りました。一方キリストの死と復活以降においては、神と私たちとの間をキリストがどこででもとりなしてくださいますから、私たちはあらゆるところで神の前に出ることができます。家庭礼拝や野外礼拝ができるのもそのゆえです。ただ、キリストを信じる者が集まって礼拝するためには特定の場所が必要ですから、私たちは教会という建物に集まり、ここに神がおられると確信して礼拝しています。それで、神のおられる場所に神の民が一堂に会して礼拝する、という意味において、この詩篇をこんにちの礼拝に当てはめることができるのです。

  1節「全地」は神がお造りになったすべてを指しています。「全地」を見渡すと、平和な国もあれば争いのただ中にある国もあります。自由な社会もあれば、迫害や差別の社会もあります。満たされている人もいれば、貧しさに苦しむ人もいます。つまり、「全地よ【主】に向かって喜びの声をあげよ。

」とは、どのような状況の中でも、天地万物を造った主なる神を大いに喜ぶのが礼拝の中心なのです。嬉しいときだけ喜びの礼拝をささげるのではなく、嬉しくても悲しくても楽しくても辛くても、神を喜ぶのが礼拝なのです。大切なのは「主に向かって」とあるように、出来事を喜ぶのではなくて、あくまでも神を喜ぶことです。

  続く2節と4節にはどのように喜びの礼拝をするのかが、そして3節と5節にはなぜ神を喜ぶ礼拝となるのかが記されています。まず、「どのように喜びの礼拝をするのか(2,4説)」について見てゆきましょう。

2節「主に仕える/御前(神の前)に来る」は礼拝の中で行っているすべてを指します。また、4節「主の門に入る/大庭に入る」は、神殿の門を通って一般人が入れる庭(広場)に来ること、つまり神の民が礼拝に来る様子を表しています。ここで注目したいのは、「仕える/御前に来る/主の門に(入る)/大庭に入る」といった行動のすべてに「喜び/感謝/賛美」のことばが付いていることです。これらのことばには「笑い楽しむ/喜びの叫び/喜びの賛美」の意味があります。ですから、礼拝では喜びや感謝を内側に秘めるのではなく、神に向けてことばや歌で明らかにするのです。さらにこれは礼拝の時だけではありません。「感謝しつつ主の門に賛美しつつその大庭に入れ。」とあるように、礼拝者は礼拝に足を運ぶ時点から、喜びと感謝を携えているのです。「いやいや/渋々」ではありません。

  さて、4節「主に感謝し御名をほめたたえよ。」とあるように、礼拝の中心は喜びや感謝に基づいて主をほめたたえることです。具体的に言えば、礼拝でなすことは「あなたは良いお方ですと感謝し、あなたこそ神ですと敬いほめたたえる」これだけです。それを実現するために、祈りや歌(賛美)、証し、罪の告白、信仰の告白、神のことばを聞くといった行為が礼拝の中にあるのです。

  こんにち、プロテスタント教会のほとんどは、前奏から礼拝が始まり、喜びの中で神を崇め、感謝し、ほめたたえる内容となっています。それゆえ、私たちは口に出すことばや賛美あるいは礼拝の流れが、礼拝にふさわしいかどうかを吟味しています。しかし、「喜びをもって/喜び歌いつつ/感謝しつつ/賛美しつつ」とあるように、神を喜び感謝しつつ礼拝に臨んでいるかという、私たち一人一人の心が最も大事なのです。


Ⅱ.神を喜ぶ礼拝の源は神を知ることである

  ではなぜ、礼拝では神を喜ぶのでしょうか。 3,5節には、いかなる状況でも私たちが神を喜び、神に感謝し、神をほめたたえる動機が記されています。

(1)3節:神は私たちを救い、神の民として養い、守り、正しい方向に導く

  「私たちにとって神はいかなる存在か」これが礼拝の動機になります。「主が、私たちを造られた。」とは、主なる神がイスラエルの民を選び、律法を通して契約し神の民とした、という意味です。イスラエルの民は神の所属であり、神の家族なのです。さらに、約束の地カナンに至る途中で、そしてカナンに入ってからも神は「私はあなたを見放さず、見捨てない」と語り、「岩、とりで、やぐら、翼」となってイスラエルの民を守り、正しい方向に導きました。まさに、神が羊飼いであり、イスラエルの民が羊飼いによって養われている羊の群なのです。

(2)5節:神のいつくしみは永遠に変わることがない

  神は5節「【主】はいつくしみ深くその恵みはとこしえまでその真実は代々に至る。」神です。神はイスラエルの民を大切にし、誠実を尽くしました。たとえ神に背いたとしても神は忍耐をもって神の民を見守り、正しい方向に導きました。しかも悔い改めて従えば恵みをお与えになりました。愛の神が羊飼いとして神の民を養い守り、正しい方向に導いてくださっているから、神の民はどのような状況であったとしても、神を喜びほめたたえるのです。大事なのは現実に起きている出来事を喜ぶのではなくて、あくまでも神の存在とあわれみを喜び感謝し、それにお応えするのが礼拝なのです。

  それゆえ詩人は「知れ。【主】こそ神。」と語るのです。「知る」とは知識に加えて、認めて納得するまでを言います。イスラエルの民は「神がすべてを治め、自分たちのために力を発揮していること」を知り、肌で感じ取っているからこそ、喜びの礼拝で神にお応えしているのです。

  私たちも神の民イスラエルと同じです。罪によって滅びに行くしかない私たちを、神はキリストを犠牲にして罪を赦し、天の御国に入らせてくださいます。それに加えて、地上では日々の養い、平安、助けを聖霊によって与えてくださいます。まさに、神は羊飼いであり、私たちは牧場の羊なのです。だから私たちも日々の生活の中で神のあわれみを知るからこそ、神への喜びと感謝がわき起こり、それが喜びの礼拝へと向かわせるのです。「感謝しつつ主の門に賛美しつつその大庭に入る」ごとく、喜びと感謝を伴って礼拝に来るのは、どれほど神が自分をあわれんでいるかを知らなければできません。見方を変えれば、喜びと感謝で神をほめたたえる礼拝は、礼拝を終えて会堂を出たときから始まっているのです。どんなに辛く厳しい中にあったとしても、私たちはすでに天の御国を手にし、日々神の守りと助けの中にあります。これを気づき知ることが、神を喜び感謝し誉めたたえる礼拝につながるのです。


  今日から新しい1週間が始まります。毎日の生活に何が起きるのか私たちにはわかりません。しかし、何があったとしても、私たちは神の民として天の御国と地上での平安が約束されています。そして神のあわれみは変わらず尽きることはありません。日々、キリストを通して神が自分にどう関わってくださっているのかを知り、その喜びと感謝を携えて、神の家族と共に礼拝しましょう。

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