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木村太

11月10日「ホセアに与えられた命令」(ホセア書1章)

 今日から来年3月末にかけて旧約聖書のホセア書から宣教いたします。テーマは「主はあわれみによって私たちを本来の道に進ませる」です。第一回目の今回は、ホセア書を読み解く土台となっている「ホセアに与えられた主の命令」を見てゆきます。


Ⅰ.ホセアは「姦淫の女と結婚せよ」という主の驚くべき命令に従った(1:1-3)

  1節「ホセア」という名前は「神は救う」を意味する「ヨシュア」を短くしたことばです。ホセアは北王国イスラエルの王ヤロブアム2世の時代に神のことばを人々に告げました。南王国ユダではウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の時代になります。

  ヤロブアム2世の時代、隣の国アッシリヤは強大な敵国でしたが、周辺国からの脅威や国内の問題があったのでイスラエルに攻め込みませんでした。そのため北王国イスラエルは外部からの危険が無かったので、ダビデやソロモンの時代に匹敵するほど繁栄しました。一方、国の繁栄に伴って道徳的、宗教的堕落が深刻になりました。宗教指導者や政治、司法は腐敗し、貧富の差が広がりました。また、イスラエルの人々は表面的には主と呼んでいる唯一真の神を礼拝していましたが、実際には農作物の豊穣や多産をもたらす神バアルを崇めていました。2節「この国は【主】に背を向け、淫行にふけっているからだ。」とあるように、淫行すなわち主以外の神を崇める偶像崇拝が国中に深く浸透していたのです。国の繁栄に伴う堕落はいつの時代も世界中に見られ、人の罪がどれほど大きいのかを示しています。このような中、主がホセアに語ります。

  主が真っ先にホセアに命じたのが姦淫の女との結婚でした(2節)。姦淫は不貞とも呼ばれ、夫以外の男性あるいは不特定の男性と性的関係を持つことであり、女性の場合は遊女が姦淫の女の代表的存在でした。ただし十戒の7番目にあるように、神は姦淫のような性的不道徳を明らかに禁じ、死刑をはじめとする厳しい罰を定めています。もし、ホセアが姦淫の女と結婚したならば自分も子どもも汚れた者として扱われ、さらに預言者としての働きに支障を来すのは明白です。福音書を見ると、パリサイ人や律法学者は遊女や罪人とは絶対に接しなく、その人たちと接したキリストさえも非難するほどでした。

  ところがホセアは主の驚くべき命令に従いました(3節)。ゴメルがどんな姦淫を犯していたのかここからはわかりません。ただ主がこの結婚に異論を唱えていないので、ゴメルはまさに姦淫の女だったのです。2節のことばからは、この結婚とイスラエルの偶像崇拝とに何らかの関係がある予想できます。しかし、この命令の意図は全くわかりません。それでもホセアは姦淫の女ゴメルと結婚したのです。「主のことばを人々に伝える預言者」を主から任命された自覚、そして何よりも主を疑いなく信頼し従うという信仰、これなくしてこんな理不尽で不名誉な命令には従えません。

  現代はキリストの死と復活さらに聖霊の降臨が起こった後の時代ですので、滅びからの救いについては預言者のように神から直接語られないでしょう。しかし、祈りや説教あるいは聖書を読んでいる中で、いま自分がすべきことが示され、はっきり分かるときがあります。ただしそのすべてが自分の思い通りではありません。この世の常識からすれば理解に苦しむことや自分の意にそぐわないこともあるのです。「敵を愛せよ」はその最たるものです。大事なのは、何が起きるのか、どんな成果があるのか分からなくても、ホセアのように主を信頼し主のことばに従う信仰なのです。


Ⅱ.主はホセアの結婚生活を通して、ご自身の義とあわれみを明らかにした(1:4-11)

(1)イズレエル(3-5節)

  さて、ホセアとゴメルの間には3人の子どもが生まれ、それぞれに主の介入がありました。主は最初に生まれた男の子にイズレエルと名付けるように命じました。かつてイスラエルの王エフーはイズレエルの地で悪名高い王の家族を虐殺しました。ですからイズレエルは血なまぐさい土地の代名詞となのです。さらにエフーは主の律法に歩みませんでした。つまりイズレエルの命名は「あなたは主に従うイスラエルではなく主に背くイズレエルだ」という非難を意味しているのです。それゆえ5節「イスラエルの弓を折る」とあるように、主は武力によってイスラエル王国を完全に滅ぼすと告げました。ホセアに生まれた第一子は偶像崇拝にふけったイスラエル王国の滅亡を示しているのです。そして主のことばどおり、この後イスラエルはアッシリヤの攻撃で滅びます。

(2)ロ・ルハマ(6-7節)

  主は2番目に生まれた女の子にロ・ルハマと名付けるように命じました。ヘブル語で「ロ」は否定を、「ルハマ」はあわれむを意味しますので、「あわれまない」という名前になります。その名の通り、北王国イスラエルが滅んで国民が辛い生活となっても、主は二度とあわれまず彼らに救いの手を差し伸べないという宣告です。ただし7節のように、現時点では南王国ユダの方が信仰的にはまだましなので、主はユダをあわれみ、弓や剣といった武力ではなく主の不思議な方法でユダ王国を外的から守ります。実際に、ヒゼキヤ王の時代、主は人知の及ばない方法でアッシリヤの陣営を襲い、ユダ王国を守りました。これはイスラエル王国の人々がユダを見て自らを省み、主に立ち返ることを主が期待しているのです。

(3)ロ・アンミ(8-9節)

  主は3番目に生まれた男の子にロ・アンミと名付けるように命じました。先ほどと同様「ロ」は否定を、「アンミ」はわたしの民を意味しますので、「わたしの民ではない」という名前になります。主は背きに背いたイスラエルを「あなた方はもうわたしの民ではなく、わたしはあなた方の神ではない」と宣告します。「あわれまない」は救いの手を差し伸べないことなので、神とイスラエルの関係は継続していますからまだ望みがあります。しかし、「わたしの民ではない」となれば、これは神との断絶になります。イスラエルの民にとって「神の民」というのは平和と繁栄の拠り所です。主に背いても悔いて再び主に従えば恵みが回復する、という契約に基づいた一縷の望みがあります。けれども神との断絶は契約の取り消しであり、回復の望みが絶たれてしまうのです。偶像崇拝にふけるイスラエルへの最後通告と言えます。

  「イズレエル、ロ・ルハマ、ロ・アンミ」は「これまでにない繁栄をしているけれども、そのまま主に背き続ければこのようになる」という主の罰の警告です。義・聖・善なる主は、ご自身に従わない民を放っておかず、必ず罰します。北王国イスラエルは繁栄を謳歌していても、「主に従う」という最も大事なことに気付かなければならなかったのです。

  ところが主は断絶で終わりません(10-11節)。「あなた方はわたしの民ではない」から「生ける神の子ら」になる、これはまさしく主とイスラエル民族との関係回復を現します。それゆえイスラエルの民は再び繁栄に至るのです。しかも、南王国ユダと北王国イスラエルに分裂していた民族が神の民として一つになります。さらに、一人の人がかしらとなってイスラエル民族は約束の地に戻ってきます。パウロがローマ人への手紙で10節のことばを引用していることから、この一人のかしらこそイエス・キリストなのです。11節「まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。」とあるように、かつて虐殺の代名詞であったイズレエルは「神は種をまく」という本来の意味の姿に回復するのです。ただし、この回復はイスラエルの行いの結果ではありません。ユダとイスラエルの滅亡によって、イスラエル民族は激減し散り散りになってしまったので、民族として主を崇めることはできないからです。しかし、主はそんな民を放っておかず、ただあわれみによって彼らを再び喜びと平安の道に進ませようとするのです。ここに、罪ある人間が永遠の滅びに行くのを放っておかず、我が子キリストを犠牲にして天の御国に行かせたい主のあわれみを見ることができます。



  主はホセアの結婚生活を通して、ご自身の義とあわれみを明らかにしました。「姦淫の女と結婚せよ」何の意図があるのか全くわからない命令でしたが、ホセアは人生を通して主の義とさばき、そしてあわれみを知りました。聖書にはこのような人物が他にもいます。「息子イサクを全焼のささげ物として献げなさい」と命じられたアブラハム。「エジプトの王の所に行け」と命じられたモーセ。「イスラエルの家の咎を負え/牛の糞でパンを焼け/嘆くな。泣くな。涙を流すな」と命じられたエゼキエル。これまでキリストを迫害してきたパウロには「キリストを伝えよ」と命じました。どれも理不尽で理解しがたい命令でしたが、その一つ一つに主のご計画があり、そのことを通して主はご自身のことをこの世界に示しました。ホセアの命令のように、私たちにも「どうして/納得できない/こんなことはいやだ」と思うような導きや出来事があります。「神様は何を考えているのか全然わからない」という出来事に出会います。でも私たちがそれを生きている中で、主はご自身の正しさや聖さやあわれみをキリストを通して私たちに知らせます。その時、私たちはすべてのことに主の意図があるとわかるのです。そして、ホセアを通して主がみこころを人々に明らかにしたように、私たちの生き様を通して主はご自身の存在とあわれみを人々に明らかにするのです。

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