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木村太

11月17日「イスラエルの背き」(ホセア書2章)

  罪の悔い改めとは、罪を犯したことを心から悲しみ、その罪を忌み嫌い、罪から離れることをいいます。ただし悔い改めには罰に対する恐怖や痛みから生じるものと、「こんな自分でも愛されている」というあわれみによって罪を赦した者への心から生じるものがあります。子どもも「親に怒られないために悪さをしない」というのと「親に喜んで欲しいから悪さをしない」というのがありますね。しかし、罰を恐れる悔い改めは自らを変えようとはならないので一時的です。あわれみによる悔い改めこそが正しい道を歩ませる唯一の方法です。そこで今日は「主は背きを罰するが、あわれみによって主に立ち返らせる」このことを聖書に聞きます。

Ⅰ.主はバアル神に頼る道を閉ざし、苦難を与えて主に向かわせる(2:1-13)

  元々、ロ・アンミ「わたしの民ではない」、ロ・ルハマ「あわれまない」者が「わたしの民」「あわれまれる者」となりますからこれはイスラエルの回復の約束です(1節)。ただし、偶像崇拝を止めて主に立ち返らなければ厳しい罰が与えられるから、そうならないために母ゴメルの不貞をあばき、そこから離れさせよと命じます(2節)。なぜなら「彼女はわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではないから。」とあるように、ホセアが離婚を決意するほどにゴメルの不貞はひどかったのです。その姿が5節にあります。

  「彼らはパンと水、羊毛と麻、油と飲み物をくれる」とあるようにゴメルは愛人が自分を養ってくれると確信して、愛人のところに通い不貞を働きました。しかもその愛人の子どもを産みました。1:3「彼女は身ごもって、彼に男の子を産んだ。」と記されているように、「彼に男の子を産んだ」とあるのはイズレエルだけでロ・ルハマ、ロ・アンミにはありません。「彼に~を産んだ」とは、彼が血のつながった父を意味しますから、ロ・ルハマ、ロ・アンミは愛人の子どもと理解できます。ゴメルは自分の欲望を満たすためにホセアを捨てて愛人のもとに行き、姦淫を続けていたのです。これが偶像崇拝にどっぷりと浸かっているイスラエルの実体であり、その様子が8節に書かれています。主は彼女すなわちイスラエルに「穀物、新しいぶどう酒、油、銀、金」といった農産物や財産を豊かにしました。けれどもイスラエルはそれを主の恵みとわからず、バアルからの恵みと受け取りました。だから「バアルに造り上げる」つまりバアルの神を崇めたのです。

  そんな妻に対して夫ホセアは罰を決意します(3節)。ホセアはゴメルを生まれたばかりの赤ちゃんのように無力にし、荒野や砂漠のような劣悪な環境において彼女が生きられないようにするのです。一言でいうならば、彼女を困難に追いやり助けないとなるでしょう。具体的にはまず、6-7節にあるように愛人のところへ決して行けないような措置を取ります。さらに9節「わたしの穀物、わたしの新しいぶどう酒を取り返す。わたしの羊毛と麻をはぎ取る。」とあるように、食料や衣類、住居を欠乏させて肉体的な苦しみを与えます。加えて10節「彼女の恥を、愛人たちの目の前で暴く。」のごとく精神的な苦痛にさらします。「彼女をわたしの手から救い出せる者はいない。」とあるようにホセアの罰からだれもゴメルを取り出すことはできません。それほどまでにホセアの罰は徹底的なのです。ただしこの罰には目的があります。7節「彼女は言う。 『私は初めの夫のところに戻ろう。あのころは今よりも幸せだったから』と。」あります。ゴメルが「ホセアのところに戻ればこの耐え難い苦しみから逃れて、今よりはましな生活ができる」と思わせるための罰なのです。罪の深さを反省するとか夫に申し訳ないといった姦淫の悔い改めに至っていませんが、姦淫を止めさせることになります。つまり、主は凶作やアッシリヤによる国の滅亡によってイスラエルを激しく苦しめ、バアルは何も役に立たないとあきらめさせて、主に戻るようにするのです。

  ゴメルが愛人に幸せを求めたように、私たちも金銭、地位、名誉、人間関係など主ではないものを頼り、それに一生懸命になってしまうことがあります。そして頼る道が閉ざされたり、失敗して痛い目にあって「私は初めの主に戻ろう。あのころは今よりも幸せだったから」となるのです。2章に描かれているゴメルの姿はキリスト以外を頼る私たちの姿を映しているのです。


Ⅱ.主は一方的なあわれみに基づく恵みによって、イスラエルを神の民に戻す(2:14-23)

  ゴメルの姦淫とホセアの罰、この流れから14節「それゆえ」が来ると、さらなる懲らしめを予想しますが、主は驚くべきことばをかけます(14-15節)。

  主は彼女すなわちイスラエルを脅しや恐怖で接するのではなく、魅力と優しさを持って語りかけます。「荒野に連れて行く」とは、かつてエジプトを脱出した後、主がイスラエルの人々を荒野で養ったことを思い出させる行為です。つまり、エジプトを出た後、神がイスラエルを神の民に契約したときのように、主は背いたイスラエルを再び神の民として養いたいのです。荒野をぶどう畑にするように繁栄をもたらし、「わざわい・悩み」の代名詞であるアコルの谷を希望の入り口に変え、イスラエルが神の民として祝福の道を歩ませたいのです。イスラエルが主を捨ててどれほどバアルを頼ったとしても、主はイスラエルが主からの喜びと平安の中を再び歩んで欲しいのです。まさに主の一方的なあわれみがここに示されています。

  そして主はイスラエルを回復させるために何をするのかを語ります。

①偶像崇拝との断絶(16-17節):どのような方法か明らかではありませんが、主は彼女からバアルを慕う思いを取り去り、夫はバアルではなく主(ホセア)と確信させます。

②繁栄と平和(18節):「野の獣、空の鳥、地面を這うものと契約」はすべての生き物が人に危害を加えず、農作物に被害を与えないようにし、人に安心と繁栄をもたらします。同時に、他国との戦いを無くし完全な平和を与えます。

③堅い決意(19-20節):主は「義、さばき、恵み、あわれみ、真実」を持ってイスラエルと契約を結びます。人間的に言えば、主は全身全霊をかけて契約を堅く結ぶと宣言しているのです。しかもその契約は永遠ですから、いかに主がイスラエルを大事にしたいのかが分かります。

  この主の計り知れないあわれみによってイスラエルがどうなるのかが21-23節に記されています。主は愛人に走ったイスラエルの罰として、穀物と新しいぶどう酒と油を取り去りましたが、これらを元通りにします。つまり天は気候を良くし災害を無くすので、大地は豊かな実りを回復します。物質的な面ではイズレエルすなわち神は種をまくの通りになるのです。一方信仰の面では「あなたはわたしの民」「あなたは私の神」と互いに認め合う関係になります。あのダビデの時代のように、イスラエルは主を神として崇め、主はイスラエルを祝福します。そしてイスラエルを通して主の栄光が全世界に知られるようになるのです。「わたしは、わたしのために地に彼女を蒔く」とあるように、まさに主はこの世界にイスラエルという種をまいて繁栄させ、その繁栄を通して主の存在と人知を越えた力を世に知らしめるのです。

  夫ホセアは妻ゴメルの不貞によって離婚をも辞さない思いでした。しかし、ホセアはゴメルが愛人のもとへ行けないようにし、さらに愛人からの養いを断ち切って、ゴメルを激しい苦痛に至らせます。それでゴメルはホセアのもとに戻ってきます。ただし、それはホセアのあわれみに応えたいという動機ではなく、あくまでも自分の幸せのためです。けれどもホセアはそんなゴメルに全身全霊をかけて永遠に夫婦としての喜びと平安を約束します。ゴメルはホセアに対して不貞の償いをしていないばかりか、赦しを請うてもいないのにです。これこそまさにホセアすなわち主の一方的なあわれみなのです。20節「真実をもって、あなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは【主】を知る。」とあるように、ゴメルはホセアの一方的なあわれみによる恵みによって、ホセアに応えるようになるのです。冒頭に申しましたように、罰は罪を止めさせますが、表面的な悔い改めにしかなりません。あわれみこそが人を真の悔い改めに変えるのです。



  ホセアはゴメルが自分の言うことに従ったから「わたしは永遠に、あなたと契りを結ぶ。」と宣言していません。ただただゴメルへのあわれみによるのです。それと同じように「私たちが主に従ったから/何か主に良いことをしたから」という理由で、キリストが身代わりとなって十字架で死んだのではありません。私たちは自分自身では罪と永遠に断絶できないから、神は御子キリストを犠牲にして私たちへの怒りをなだめたのです。まさに怒りからの解放、すなわち罪の滅びからの解放は神のあわれみ以外のなにものでもありません。キリストを信じた私たちは、ただあわれみによって救われ、天の御国での永遠の平安を約束されています。だから私たちは罪を悔い改めて、主に従いたいとなるのです。

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