先日、車で走っている時に、転んで起きあがれない人を目にしました。妻はすぐに車を停めてその人の側に行き、体の様子を調べて救急車を手配しました。「何とかしたい」という思いからの行動でした。皆さんが同じ状況に直面しても、きっと同じ思いで何らかの対応をとることと思います。しかし、もし倒れている人が自分を深く傷つけている人だったら、あるいは「善きサマリヤ人」のたとえのように敵対している人だったら、即座にそして全力で助けることができるでしょうか。そこで今日は堕落したイスラエルへの主のふるまいを通して、主の愛について聖書に聞きます。
Ⅰ.主は犠牲を払って堕落したイスラエルを取り戻す(3:1-2)
主はホセアに姦淫の女ゴメルとの結婚を命じ、そして「イズレエル、ロ・ルハマ、ロ・アンミ」という子どもたちの名前を通して北王国イスラエルへ警告しました。しかし、イスラエルが一向に背信を止めないので、主は再びホセアに命じます。
1節「再び行って」とあるように、妻ゴメルは夫との生活を離れて愛人の元にいると思われます。本来は夫すなわち主に向き合わなければならないのに、ゴメルすなわちイスラエルはバアルのような他の神々に向きを変えています。「干しぶどうの菓子」は小麦粉に干しぶどうを入れた菓子で、秋の収穫祭でバアルにささげる物です。ですから「干しぶどうの菓子を愛する」とはバアルの神に熱中している様であり、イスラエルは完全に主に背を向けているのです。妻ゴメルは夫の元に戻る兆しは全くなく、夫に背を向けているばかりか愛人に熱を上げています。そんな妻のところにホセアは出向いて大切にしようとするのです。
ホセアは主のことば通りに妻のところへ行きました(2節)。ここには訳されていませんが、原文では「自分の所有のために」ということばが書かれています。ホセアは愛人の所有になっている妻を自分の所有とするためにここに来ました。本来の夫婦関係に戻そうとしているのです。そこでホセアは愛人に「銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテク」を払いました。手切れ金といったところでしょうか。この金額は奴隷一人分の買い取りに相当します。ただし、大麦と合わせて払ってますから、銀だけで用意できいほどの大金だったのでしょう。
常識的に言えば、ゴメルは自分の不貞を悔い改めて愛人との関係を清算し、謝罪と共に夫の元に戻らなければなりません。けれども彼女は夫から愛されているのを分からずに、愛人に夢中になっています。ホセアはそんな彼女の所へ行き、大金という犠牲を払って取り戻そうとするのです。夫婦だからという義務感や責任感を越えた一方的な愛としか言いようがありません。
主はイスラエル民族をエジプトから脱出させ、荒野で養い、大いなる力を持ってカナンに定住させました。人々の要求に応じてダビデやソロモンといった王を立てて国を繁栄させ、同時に預言者を送って正しい道に歩ませようとしました。にもかかわらずイスラエルは他の神々や他の国々に頼り、堕落の一途をたどりました。なのに主は神の民を喜びと平安という本来の姿に取り戻すために自ら行動し、犠牲を払うのです。何の見返りもなくふさわしくなるかどうか確証もないのにです。これがイスラエルに対する主の一方的な愛なのです。ホセアのふるまいはこの主の愛を見える形でこの世の人々に明らかにしています。
Ⅱ.主とイスラエルが元の関係に戻るには、彼らが長い期間にわたって主に留まらなければならない(3:3)
ホセアは妻を愛人から買い取った後でこう言います(3節)。ホセアは妻が正しい生き方になるようになすべきことを命じました。いわば回復プログラムです。彼女はとにかく夫以外に頼ることを断ち、そして夫に留まらなくてはなりません。「留まる」とは腰を据えて夫と生活することを言います。しかも「長く」とあるように、長期間これを続ける必要があります。なぜなら、彼女の不貞は身に染みついているから、それを無くした上で夫を信頼するには時間がかかるからです。ある牧師が「日課が習慣となり、習慣が人格となる」と言っていました。「悪を断ち切って、正しさに身を投じる」これの継続こそが、ゴメルを正しい歩みに向かわせるのです。一方でホセアは「私も、あなたにとどまろう。」と語っています。「何があっても夫である」という告白は妻にとって深い安心となります。互いに愛する関係を回復するには、恐怖や苦痛を与えるのではなく、「あなたを大切にする」という関わりを忍耐を持って続けることが大事なのです。
預言者エレミヤはこう告げました。「【主】は遠くから私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。』(エレミヤ31:3)」永遠に愛する、そして真実の愛を尽くす、これには忍耐を伴うのは明らかです。イスラエルは長くバアルの神や他の国に頼り切っていました。ですから、躊躇無く自然に主に信頼し従うには時間がかかるのは明白です。しかし、主は「私も、あなたにとどまろう。」と優しさを持って回復を待っているのです。私たちが信仰生活から離れて再び元に戻るときもこれと同じと言えます。「イスラエルが神の民としてあるべき姿に回復するまで側にいて見守り安心を与える」これも主の愛ゆえなのです。
Ⅲ.主は終わりの日に計り知れない恵みをイスラエルに備えている(3:4-5)
ホセアは主から告げられたことばを語ります(4節)。5節にも「イスラエルの子ら」とあるように、「イスラエルの子ら」すなわちイスラエル民族がこれからどうなるのかを告げています。
4節を見ると、イスラエルはかなりの年月にわたって「王も首長も、いけにえも石の柱も、エポデもテラフィムもない」場所で生活することになります。
・王、首長がない:政治、裁判、行政を司る者や村のような共同体を取りまとめる者が存在しない社会です。ですから平和や平安のために頼れる人がいないことを表しています。
・いけにえ、石の柱がない:いけにえは礼拝でのささげものであり、石の柱は礼拝の場所、とりわけ偶像崇拝の場所を指します。当時、イスラエルの神においても、異教の神々においても、定められた場所と定められたささげもので礼拝しなければなりませんでした。ですから偶像崇拝を含めて神に訴え願う手段がないことを表しています。
・エポデ、テラフィムがない:エポデは祭司の服装であり、これがないというのは祭司がいないことを意味します。テラフィムは小さな粘土細工の像で普通は守り神として家の中に据えました。もちろん律法で堅く禁じられていますけれども、背信のイスラエル人は持っていたのでしょう。ですから、祭司や偶像がないというのは神と自分とをとりなす役目のものがないことを表しています。
つまり、イスラエルはこれから異教の神々に頼ることができないだけでなく、神が平安と繁栄のために備えてくださった物や場所そして人がない中で暮らすことになります。言い換えれば、恐怖や不安の中に長期間放り込まれるのです。だから、他に頼らないで主に頼らなければならないのです。
さらに主はその後のことも語ります(5節)。「その後」とは4節にある長い期間の後を言います。イスラエル民族は故郷に帰って来ます。これは礼拝できる場所やいけにえ、祭司の回復になります。そしてバアルのような異教の神々ではなく主なる神とダビデで象徴される統一イスラエルの王を探し求めます。この「ダビデ」こそがイエス・キリストです。つまり、長い期間苦しんだ後、イスラエル民族は悔い改めて主と主がお立てになったキリストの元で生きるのです。彼らは再び主と交わり、主を崇めて、主の祝福を受けられるようになるのです。その上、「終わりの日」すなわちキリストの再臨において、人々はおののくほどのすばらしさを受けます。おののくには震える様子を含んでいますから、人知を遙かに越えた主の恵みによって震えるほど驚くときがやって来ます。長く苦しい期間を生き抜くための希望を主は与えています。これも主の愛としか言いようがありません。
ホセアの時代の後、北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされます。南王国ユダもその様子を知っていながら悔い改めなかったので、バビロニアに滅ぼされます。イスラエル民族は激減し、囚われの身となり異国で70年近く暮らすことになります。そこでは、民族のかしらもおらず礼拝もできなくなり、「神の民」という安心が奪われます。これが背いた罰です。しかし主は、70年の後、イスラエル民族をエルサレムに戻させて、その後キリストという王を立てて神の民として回復させます。しかも、最後には天の御国という驚くべき最高の恵みを備えています。こうなるのは、イスラエルの人々が善のみを行ったからでも、神に完全に従うようになったからでもありません。ただ、主がイスラエルを愛し、大切にしたいというみこころのみなのです。
ホセアとゴメル、主とイスラエルの有様は、現代に生きる私たちと神との関係を表しています。私たちは神の所有、神の代理人として地上に造られました。しかし、神に背を向けさらには神を忘れて心の満たしを神以外に必死に求めていました。私たちも愛人の元へ行ったゴメルなのです。ところが神は再びご自分の所有とするためにイエスという人となって私たちのところへ来てくださいました。それから、全く罪のない我が子イエスのいのちを犠牲にして私たちを買い取りました。犠牲を払って私たちを罪の奴隷から解放したのです。さらに、不安や恐れ、不満を何によっても解消できないこの世にあって、キリストは「私も、あなたにとどまろう。」と私たちとともに生きています。地上の人生は、いわば神以外に頼らず神に生きるための回復期間なのです。そして終わりの日、すなわちキリストが再び来られるとき、私たちは天の御国というこの上ない恵みを与えられます。まさに「【主】とそのすばらしさにおののく。」日が約束されているのです。これらのことは、まず私たちが神を愛し、神の前に善い行いをしたからではありません。使徒ヨハネはこう語っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」私たちが罪から抜け出せず、神に背いていても、神が私たちを愛しているから、私たちのところに来て犠牲を払って神の民としてくださったのです。キリストの十字架とよみがえりこそが「私たちを愛する」何よりの証拠です。
Comments