「神のひとり子イエス・キリストのいのちによって私たちは永遠のいのちを得た」と使徒ヨハネは語ります。それは10節「宥めのささげ物としての御子を遣わされました。」とあるように、私たちの罪に対する神の怒りをなだめるために、キリストがこの地上に遣わされ(誕生)、ささげもの(犠牲)になりました。キリストのいのちをささげることで神の怒りがなだめられたのです。そしてヨハネは「ひとり子キリストをささげたことが神の愛だ」と言います。なぜひとり子キリストをささげることが愛なのでしょうか。だれもが知っているテーマではありますが、今日はキリストをささげるに至った神の愛について、旧約聖書から見てゆきます。
Ⅰ.神の目には人は高価で尊く、永遠に人を愛する(イザヤ43:4,エレミヤ31:3)
神は人を特別な存在としてお造りになり、格別な扱いをしました。人は平安と喜びと満たしを永遠に味わえたのです。しかし、神に背いた結果、神との信頼関係を失い、この世で苦しみの人生を送り、待ち受けているのは永遠の死になりました。神に背いたのですから当然の結果と言えます。ところが神は「苦しみと永遠の死を脱する方法」いわゆる救いの道を備えてくださいました。どうして神は罰を受けるべき人に救いの手を差し伸べるのでしょうか。その理由を神は預言者を通して明らかにしています。
イザヤ43:4において「わたし」は神、「あなた」は神の民イスラエルを指しています。イスラエルの民は神の民でありながら度々預言者から警告を受けても、形式的な信仰に留まり、真の悔い改めには至りませんでした。けれども神は「高価で尊い」と語っておられます。「高価」とは貴重、大切を意味し、また「尊い」は価値がある、誉れであることを意味します。聖く正しい神からすれば、人は完全に神の基準から逸れています。ですから人には、評価できるところは全くなく、喜ばしいところも全くなく、ほめられるところも全くないのです。ましてやイスラエルは何度も神に背いているからなおさらと言えます。にも関わらず、神は人を大切で誉れある喜ばしい存在としています。この世では他人から見下されたり、評価が低かったり、価値がないと見られたとしても、あるいは自分で自分をさげすんでいたとしても、神の目には人は何にも代え難いほどの尊い存在なのです。これが人に対する神の愛なのです。人の愛はそうではありません。「私を大切にしてくれたら/言うことをちゃんと聞いてくれたら」のように、条件をクリアしないと大切な存在として認めてくれません。しかし、神の基準からすれば完全に失格であっても、神は大切にしてくださるのです。まさに神の愛には条件がありません。ただ「人だから」愛してくださいます。
しかも神の愛は永遠に変わることがありません。エレミヤ31:3「永遠の愛」とは何があっても神の愛は変わらない、ということです。だから神は背いている人に対しても、なすべきことを愛ゆえにきちんと手を抜かずに実行します。その証拠として、イスラエルという国が滅んで散り散りになっても、イスラエル民族を再びエルサレムに帰らせ復興させました。神の愛に基づく誠実は人の誠実とは違います。人は自分に都合の良い者には誠実ですけれども、自分に反する者、敵対者には誠実ではないときがあります。これが人の愛と神の愛との違いと言えます。
私たちが神に対してどのような有様だったとしても、神は私たちを価値ある尊い存在としてくださっています。神の愛は私たちの振る舞いに左右されず、時代が移り変わっても決して変わることがありません。ただ「人だから」という理由で、神は私たちを常に変わらず愛してくださっています。
Ⅱ.神は人が苦しむ姿を見て、あわれみで胸が熱くなっている(エレミヤ31:20,ホセア11:8)
神は地上で苦しむ人をどう見ているのでしょうか。エレミヤ31:20では、神の民エフライムは神への背きを重ねたために、周辺国からの攻撃というかたちで神から罰を受け苦しんでいます。ただし、苦しみは当然の報いであっても、神は苦しむ民を見るときに、大切な喜びの子であることを思い出します。そして「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」とご自身の思いを語っています。「はらわたがわななく」とは、内臓(下腹、子宮)がぶるぶる震える様子で、ユダヤ文化ではあわれむ様を表しています。つまり、神のあわれみとは人の苦しみを自分の苦しみとすることなのです。神は罪の罰に苦しむ民を見て、「当然の報いだ」と突き放すのではなく、彼らの苦しみに寄り添ってくださるのです。
同じように、ホセア書にも苦しんでいるイスラエルを見た神の思いが記されています(ホセア11:8)。神に背いたイスラエルがアデマやツェボイムの町ように、今や滅亡に苦しんでいます。その姿を見て神は「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」と語ります。「心が沸き返り、胸が熱くなる」とは「苦しむ姿を見て、何とかしてあげたくて心が痛く締め付けられる様」と言えます。確かに、イスラエルが背きに背きを重ねた結果、彼らに怒りの罰を与えているのは神ご自身です。それでも、神はご自身の民が苦しみの果てに破滅するのを黙って見ていられないのです。どんなに悪い人であったとしても、痛めつけられて苦しみ滅ぶのは忍びなくて心が痛くなり胸が苦しくなるのです。これが神の愛なのです。
この世で人は罪の罰として全員苦しみの人生を送ります。例外はありません。争い、差別、暴力など悪ゆえの苦しみ。自然災害、貧しさ、病のように自分ではどうすることもできない苦しみ。死の恐怖や孤独のような苦しみ。数え切れないほど人生には苦しみがあります。それは人が神に背いたゆえにもたらされます。けれども、神はその様子をただ眺めているのではありません。はらわたがわななき、あわれみで胸が熱くなっているのです。神にとって人はどうでもいい存在ではありません。「高価で尊い」存在だから、神はこのように苦しみもがいている人をご自身の愛ゆえにあわれみ、何とかしたいと思っているのです。
Ⅲ.神は人の罪を赦すために、我が子を犠牲にした(イザヤ53:5,10)
今申しましたように、神はこの世で苦しみ永遠の滅びに向かう人々が、そのままであることを良しとしていません。「あわれみで胸が熱くなる」のは、苦しみを脱して欲しい気持ちの表れだからです。何とかして、万物を創造したときのように、平安と喜びと満たしを永遠に生きて欲しいのです。ただし、かわいそうだからといって、罪を放っておくことはできません。なぜなら、もし神が罪を見逃したら、あるいは見落としたら、神は不正をすることになるからです。一方で、人間は自分の罪をぬぐい去ることは決してできないのです。そこで神は愛ゆえに神自ら罪を赦す手段を与えてくださいました。
イザヤ53:5において「彼」とは「私たちのために苦難を受けるしもべ」を指しています。しもべは私たちが受けるべき懲らしめ、すわなち神へのそむきの罰を代わりに受けてくださいました。「刺され/砕かれ」とあるように、言葉では言い尽くせないほどの痛み苦しみを、しもべは人のために受けました。それで、しもべが身代わりとなって罰を受けたので、人は神の怒りから解放されるのです。
ただし、しもべに人の罪を負わせたのは神のご計画でした(イザヤ53:10)。神はしもべに、人のすべての罪を負わせて、怒りをなだめるいけにえとしたのです。人は自分で自分の罪を滅ぼすことはできません。汚い手で自分の汚れを落とすようなものだからです。人間の努力ですべての罪を赦してもらうことは絶対に出来ません。それで、神はそんな人をあわれんで神ご自身がしもべという供え物を与えてくださいました。「【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。」とあるように、「高価で尊い者を何とかして滅びから救いたい」この神の思いを、しもべが成し遂げました。人は罪を赦されることを何もしていません。いやできないのです。ただただ神が人を愛するがゆえに、人の代わりにしもべが犠牲になったのです。
このしもべこそがイエス・キリストです。キリストはあれほど慕われていたにも関わらず、人に見捨てられ、弟子さえも逃げてゆきました。そして、十字架の上で苦痛と屈辱の果てに死にました。「彼は私たちの背きのために刺され、砕かれ、懲らしめられた」ということばは、キリストによって事実となりました。しかも、キリストは神のひとり子です。どれほど神は人のために犠牲を払ったのでしょうか。まさに十字架によるキリストの死が、計り知れない神の愛を私たちに明らかにしているのです。
人は神に似た者として、他の生き物とは違う特別な方法で造られ、格別な扱いを受けました。しかし、神に背いた結果、罪ある者となり、本来の人生すなわち永遠の平安、喜び、満たしを失いました。生きている限り苦しみがあり、その果てには得体の知れない死しかないのです。私たちはそのような存在なのです。決してこの地上で神のすばらしさを放てる者ではなく、逆に神をおとしめ辱めるふるまいしかできないのです。でも神は罪ゆえに苦しむ私たちを見て、当然の罰であるにも関わらず、私たちをかわいそうに思っています。そして、私たちの罪を赦すために、神ご自身が怒りをなだめる供え物として、ご自身のひとり子イエス・キリストをささげてくださいました。私たちはこのお方が、前もって告げられていたしもべ、すなわち救い主と信じるだけで、罪が赦されるのです。私たちは何も犠牲を払っていません。キリストを救い主と信じるだけです。しかし、神は大切なひとり子を供え物としてささげました。見捨てられても良いはずの人に、捨てる理由のないキリストを犠牲にしたのです。神は、「ただ人だから」私たちを愛し、尊い存在として大切にしてくださっているからです。神はただ愛するがゆえに、そのひとり子を世に遣わしました。それがクリスマスです。
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