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木村太

12月29日「責任ある者たちへの叱責」(ホセア書4章)

  パウロは牧師としての経験がまだ浅いテモテに手紙を書き、励ましとアドバイスを与えました。手紙の中でパウロは、教会の信徒が健全な信仰に留まるためには俗悪な無駄話や無知な議論を避け、みことばすなわち現代で言うところの聖書を正しく語りなさい、と命じます。神のことばにちゃんと留まっていれば、偽の教えが入って来ても揺るがされないからです。ですから、みことばを説き明かす教職者の責任はたいへん大きいのです。そこで今日は、宗教指導者の堕落とその影響について聖書に聞きます。


Ⅰ.祭司は民を正しい道に導かないばかりか、自ら主を捨てて偶像崇拝に浸っていた(4:1-10)

  1節「イスラエルの子らよ、【主】のことばを聞け。」とあるように4章からは、主がホセアを通して北王国イスラエルに語ります。まず主は神の民イスラエルの背きを3つのことばで告発します。

・真実もない:神の民であることの確かさがなく、信頼に値しない

・誠実さもない:神のことをないがしろにしている

・神を知ることもない:神のことをわかろうとしていない

  3つのことばで訴えられているのに加えて、「神を知ることもない」と告発されるのですから、北王国イスラエル全体が神の民としての体をなしていないのです。その証拠に2節には彼らがどれほど十戒を破っているのかが挙げられています。「流血に流血が続いている」とあるように、主がお造りになった人、しかも同じ民族の人間を傷つけ殺すというのは、まさに神をないがしろにしている極みと言えます。それで主は3節のように、食料や供え物となる動物を絶やし、人が生活できなくなる土地に変えてしまいます。この土地は本来「乳と密の流れる地」であり、神の祝福によって繁栄が約束された土地でした。しかし今や、ここは嘆きの土地となるのです。イスラエルの背きがどれほど深いのかが伺えます。

  ここで主は、こうなったのは誰の責任が大きいのかを指摘します(4節)。背いているのはイスラエルの民ですけれども、主は彼らを罪に定めるのではなく、祭司や預言者といった者たちを責めています。なぜなら、彼らは民衆に律法を教えたり、あるいは主から預かったことばを語ることで、人々の信仰を健全に保つ使命があるからです。にも関わらす5節「あなた(祭司)は昼つまずき、預言者も、あなたとともに夜つまずく。」とあるように、人々の信仰を整えるための指導者自らが正しく歩んでいなかったのです。

  主は祭司について3つの堕落を指摘します。

①6節:「知識を退ける/神の教えを忘れる」とあるように、祝福の土台である律法を教えないばかりか、それに注意を払いません。礼拝のような儀式を適切に行っていても、祭司の務めを放棄しています。

②8節:律法では、祭司がいけにえの一部を食べ物として受け取るように定めています(レビ2:3,6:16,10:12-13)。ところが、民の咎すなわち民の罪が増えれば増えるほどいけにえが多くなるので、民が罪を犯すように望んでいるのです。祭司にあるまじき振る舞いと言えます。

③9-10節:「民も祭司も同じようになる。」とあるように、信仰の指導者として見る影もありません。なぜなら民はともかく祭司が先頭に立って主を捨てて、姦淫でたとえられているごとくバアルのような異教の神を信じ頼っているからなのです。祭司が堕落しているのですから、民も堕落するのは当然です。

  7節にあるとおり、祭司は主のために直接仕える特権があり、それゆえにたいへん誉れある働きです。しかし、今や祭司でありながら異教の神を崇めているのですから、主から見ても民衆から見ても彼らは恥ずかしい存在になります。現代の教会も同じことが言えます。牧師や宣教師のような教職者は教会員の信仰を整えるために聖書から神の教えを説き明かします。しかし、聖書を使って自分の考えをあたかも神のみこころのように教えたり、自らが不品行を続けるなら、教会に集う人々は正しい道からはずれ、クリスチャンといえども神に反した生き方になるでしょう。そうなればもはや地の塩、世の光ではなくなり、世の中全体の堕落につながります。「信仰を整える者/神のことを伝える者」だからこそ、信仰の模範を示すのです(Ⅰテモテ4:12,Ⅰペテロ5:3)


Ⅱ.祭司の堕落によって民も異教の教えや礼拝行為にふけっていた(4:11-14)

  続く11-14節には祭司の堕落によって、イスラエルの人々が愚かな道を歩んでいる姿が記されています。

①11節:農作物の豊作を祝う異教の祭りで泥酔して浮かれ騒いでいます。豊作が主からもたらされているのに、違う神を崇めているのです。主の恵みに気づいていない証拠です。

②12節:木や棒を神として崇めて、それらにお告げを求めています。自分たちの神よりも他の神々の方が力がある、あるいは助けてくれると信じている証拠です。

③13節「心地よい」というのは、神の力を感じやすいとか願いが神に届きやすいといった感覚と思われます。神が定めた神殿ではなく、自分たちの心地よい場所で礼拝するのは、神よりも自分たちの思いを優先しているからです。

④13-14節:女性も男性も姦淫にふけっています。ただし、主が娘や嫁を罰しないのは、女性や子供たちの模範となるべき男性が不品行をしているからです。男が神殿娼婦と姦淫していますから、他の神々に魅力を感じているのでしょう。

  このような人々の姿を主は「悟ることのない民」と呼んでいます。つまり北王国イスラエルの人々は神の民でありながら、神に注意を払わず神をわかろうとしていないのです。イスラエルの歴史を振り返れば、主とイスラエル民族はどんな約束をしたのか、これまで主はどのように助けてくださったのか、あるいは何が原因で災いが与えられたのかがわかります。これがわかれば今もらっている恵みが誰からもたらされているのかが明らかになります。神に目を向けず、神からの恵みに心を向けていないから、神ではないものの誘惑に乗ってしまうのです。


Ⅲ.北王国イスラエルは頑なに主を拒んだので滅びに至る(4:15-19)

  ところで主の関心は北王国イスラエルだけではありません。同じ神の民である南王国ユダにも目を向けます(15-16節)。北王国イスラエルは再三の警告にも関わらず一向に主に従わないばかりか、祭司のような宗教指導者が堕落の一途をだどっています。「今、【主】は彼らを広いところにいる子羊のように養うだろうか。」と主は問いかけますが、これは「いや。それはない。」を強調するためのことばです。つまり、イスラエルの背きはもう猶予できないところにまで達しているのです。それゆえ「ユダを咎ある者にさせてはならない。」のように、主は南王国ユダを巻き込むなと警告するのです。15節にあるギルガルとベテ・アベンはユダとの国境近くの町で偶像崇拝の拠点でした。だからそこで異教の神を崇めたり、主の御名を使って自分たちを正当化しないように命じるのです。見方を変えれば、北王国イスラエルはもう自ら信仰を回復できない、と主は認めていると言えます。

  事実、17-18節のように、イスラエルの代名詞であるエフライムは偶像と一体化し、神の民として恥ずべき偶像崇拝を大切にすることで喜びと安心が満たされています。主はイスラエル民族をエジプトでの奴隷から解放し、肥沃なカナンの地に導き入れ、そこにいた民族との戦いに勝利させて定住させました。さらにダビデやソロモンのような王を立てて王国を確立し、繁栄をもたらしました。でもイスラエルの民はそんな事実を忘れ気にもせず、バアルのような異教の神々に夢中になってしまいました。加えて、民を正しい道に導くための祭司自体も堕落しています。祝福とのろいの約束を思い出し、悪を悔いて再び主に向きを変える可能性はないのです。まさにホセアに愛されていながら愛人に走ったゴメルの姿が北王国イスラエルなのです。

  それで主は彼らに罰を下します(19節)。「風はその翼で彼らを巻き込む」とは、災いという風の翼に完全に覆われる様を言います。つまりイスラエルは神の災いを逃れる余地がないのです。ただし、念を押すように主は「自分たちのいけにえのゆえに恥を見る。」と語ります。いけにえすなわち偶像への礼拝が主からの災いを招き、彼らは青くなります(恥をかく)。北王国イスラエルが滅びるのは主のきまぐれや偶然ではなく、頑なに偶像にこだわり主を拒んだ彼ら自身によるのです。「知識を退ける/神のおしえを忘れる/悟らない」と警告するように、主の恵みに目を向けない、主の語りかけに耳を傾けない、これまでの主の働きを覚えていないといった小さなことがらが信仰の堕落を生むのです。



  旧約聖書の箴言と詩篇にこうあります。

「箴言1:7 【主】を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」

「詩篇103:2 わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

 主を知ることによって畏敬の念が生まれます。また、主の恵みに気づき忘れないことで主への感謝が生まれます。この両方が人を主への従順に至らせます。クリスチャンのみならず、人が人本来の生き方に戻るには、主を知ることが何よりも大事なのです。しかも、キリストが再び来るまでの間はこだわりを捨てて、キリストを信じ主に従うことができます。けれどもキリストが来たら、もう悔い改める余地はなく、破滅に向かうのみなのです。そのためにもキリストを伝える教会と私たち一人一人の存在がこの世界には欠かせません。だからまず私たちが日々の生活の中で主の存在を確認し、平安や喜びといった恵みがキリストを通して与えられていることに気づきましょう。

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