■はじめに
皆さんは自分が原因で誰かが嫌な思いをしたり、心身を傷つけたと知ったら、どうしますか。たいていは、すぐにやめて謝るでしょう。場合によっては金銭による賠償もあるでしょう。人は不完全ながらも神の愛とか聖さを持っているからそうできるのです。その一方で、自分をかばいたい気持ちが大きい時は「みんなやっている/誰々から頼まれた」など責任を逃れたり、「あなたにも非がある」といった、いわゆる逆切れを起こす人もいます。今日は主に背く者を主はどのように扱うのかを、ヨナの姿から見てゆきます。
■本論
Ⅰ.ヨナは嵐の原因が自分であると確信し、嵐が静まるには自分の命しかないと悟った(1:11-13)
ヨナは「ニネベ宣教」という主の使命を放棄して、できるだけ遠く主から離れようとしました。しかし、ヨナが乗ったタルシシュ行きの船は、主の怒りによる大嵐で沈没しそうになります。船の人々はこれが神の怒りだと確信し、くじ引きで誰が原因なのかを探しました。その結果、ヨナが嵐の原因だとわかりました。それゆえ乗船者すべてがヨナに注目します。
大嵐によって船は今にも沈没しそうです。それで、人々はヨナに助かる方法を尋ねました(11節)。それに対しヨナは、自分を海に投げ込むように命じます(12節)。荒れ狂う大海原に投げ込まれるのですか、おぼれ死ぬのは間違いありません。「この激しい暴風は、私のせいであなたがたを襲ったのです。」とあるように、ヨナは、自分が主に背いたせいで船の人たちの命が脅かされていることを自覚しています。だから、自分を海に投げること、すなわちこの船から神の怒りの原因を取り除くように命じたのです。ヨナの中では今の状況を解決するにはこれしかないのです。
ヨナは他者の命がかかっているから、神の怒りに抗えきれませんでした。ただし、このことはニネベの人々の救いと同じなのです。ヨナが何もしなければ船は沈没し人の命が奪われるように、ニネベ宣教をしなければ彼らは滅びるのです。ヨナが船の人々の命を大切にするように、主はニネベの人々の命を大切にしています。そのことをヨナはまだわかっていないのです。
さて、ヨナの提案に対し船員たちはどうしたのでしょうか。彼らはヨナの命令を実行せず、陸に戻ろうと努力しました(13節)。なぜなら、ヨナを海に投げるのは自分たちの手でヨナの命を奪うことになるからです。ところが、海がますます荒れてきたので、それはできませんでした。もし、かろうじてでも陸に戻って沈没を免れたとしたら、ヨナの背きは明らかにされません。それゆえ、ヨナを海に投げ込むしかない方向に主が導いているのです。
ここからわかるのは、神の怒りをなだめるには怒りの原因を取り除かなければならないということです。創世記のノアの箱舟やヨシュア記のアカンの罪などはその典型です。このことは私たちの救いにもつながっています。私たちの中には神の怒りの原因である罪があります。けれども私たちは自分の手で罪を取り除くことはできません。それゆえ、ちょうどヨナが船にいる限り嵐が静まらないように、罪がある限り永遠の滅びは免れません。
しかし、イエスが私たちの罪の罰を負ってくださったことで、私たちは罪がない者とみなされます。ちょうどヨナが海に投げ込まれ、船から怒りの原因が取り除かれるように、イエスの十字架によって私たちから怒りの原因が取り去られるのです。ここに神のあわれみが示されています。
Ⅱ.ヨナが海に投げ込まれたことで嵐は静まったが、主は魚を備えてヨナを助けた(1:14-17)
船員たちは船の沈没を免れるために最善を尽くしましたが、嵐はますますひどくなります。万策尽きて、ついにヨナの提案を実行しなければなりません。そこで彼らはこう言います。
14節「【主】に向かって叫んだ/ああ、【主】よ/【主】よ。あなたは」とあるように、彼らはヘブル人であるヨナが嵐の原因だと確信しているので、ヨナの神すなわちイスラエルの神、主に叫んでいます。ここで彼らは2つのことを主に嘆願しています。
一つ目は「どうか、この男のいのちのことで、私たちが滅びることのないようにしてください。」とあるように、ヨナの背きによる罰を自分たちに負わせないように、という訴えです。もう一つは、「ヨナを投げ込むことで、わざわいを自分たち下さないように」という訴えです。先ほど申しましたようにヨナを海に投げるのは、ヨナを殺すことに他なりません。ただし、ヨナに何の咎がないとしてもこうせざるを得ないのは、「【主】よ。あなたは、望まれたとおりになさったのですから。」とあるように、「ヨナのせいで主が嵐を引き起こしたから」だと彼らは確信しています。ですから、「ヨナが死ぬのは私たちのせいではなく主にある。だから血の報いすなわちヨナの死の報いを私たち下さないよう」に嘆願するのです。
船の人々はこう嘆願した上で、ヨナの言う通りを実行しました(15節)。するとたちまち海は静まりました。つまり、神の怒った原因がヨナであることが明らかになったのです。しかも、怒ったのはヨナの崇めているイスラエルの神であることも明らかになりました。それで人々は、彼らが知っている限り最も恐ろしいイスラエルの神、すなわち「海と陸を造られた天の神、【主】」の存在と支配を悟ったから「【主】にいけにえを献げて誓願を立て(16節)」ました。この航海が終わるまで主に従うことを誓い、主の守りを願ったのです。見方を変えれば、ヨナの出来事を通してイスラエルの神を崇めるようになったのです。後のイエスの伝道もこれと同じです。
ところで、海に投げ込まれたヨナはどうなったでしょうか。主はヨナに二つの助けを与えています(17節)。まず、投げ込まれた場所に大きな魚を備え、飲み込ませました。これでヨナはおぼれ死ぬことなく、とりあえずは命が守られます。ティンデル聖書注解では、魚をヨナの救命ボートと解説しています。
次に、「三日三晩、魚の腹の中にいた」とあります。ここで「三日三晩」は必ずしも文字通り72時間とは限りません。イエスは「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。(マタイ12:40)」とヨナの出来事とご自分のこととを重ね合わせています。一方で、「三日目によみがえる(マタイ16:21)」とも言っています。ですので足かけ3日間かもしれません。いずれにしても、ヨナは魚の胃の中で長い時間消化されずに生き延びています。この出来事から、ヨナ書を事実ではなく寓話とかたとえばなしという解釈もありますが、イエスがこのことを事実として語っていることから、これは神のわざだと言えます。ダニエル書でも、火の中に放り込まれた若者は死にませんでしたし、ダニエルも獅子の穴に投げ込まれても助かっていいます。神のわざに不可能はありません。主から逃げることをやめたヨナを主は驚くべき方法で助けたのです。
■おわりに
ヨナは主の使命を放棄し、はるか遠いタルシシュへ逃げようとしまし。けれども、背いたヨナを主は滅ぼしはしませんでした。主の怒りによる嵐を通してヨナが主に抗うことをやめたからです。主はご自身に屈する者を助けます。しかも、大きな魚でヨナを助けたように、人が想像もつかない方法で助けるのです。
そして、この真実は私たちにも適用されています。伝道者の書に記されているように、私たちもかつては自分の力で不安や恐れを取り去り、安らぎや喜びを得ようとしていました。しかし、すべてが空しいと悟り、すべてをご支配している主に従うしかないと気づいたのです。そのことを伝道者はこう言っています。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。(伝道者の書12:13-14)」それで、主が差し出してくださったイエスを救い主と信じ、永遠の滅びから助け出されました。
私たちは、罪のない神の子イエスのいのちによって滅びから天の御国に助け出されました。ただし、私たちが助け出される方法を考え、生み出したのではありません。神がヨナのために大きな魚を備えたように、神は私たちのためにイエスという救いの道を備えてくださいました。これが神のあわれみです。
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