■はじめに
イエスは、律法は「神を愛することと人を愛すること」の2つに要約されると教えました。そして人についてはこう言いました。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい(マタイ22:39)」「自分自身を愛する」は、人は真っ先に自分のことを気にかけることを指しています。例えば、とげは命に関わりませんが、いつもチクチクして気になってしょうがないから何とか取ろうとします。その一方、他の人の心身の苦痛に寄り添えなかったり、関心を払わなかったりします。だからイエスは「自分自身のように愛しなさい」と命じるのです。今日は、神は人の滅びをどう思っているのか、このことを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.ニネベの悔い改めはヨナを不愉快にし怒らせた(4:1-4)
ヨナのことばによってニネベ全体が深く悔い改めました。そして神はその悔い改めを認めて、わざわいを思い直し、下すことを止めました。その様子を見てヨナはどうなったでしょうか。
預言者の働きからすればニネベの悔い改めは喜ばしいことです。けれどもヨナは喜ばないどころか熱くなるほど怒りに燃え、その怒りを主にぶつけました(1-2節)。「私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。」ここに怒りの理由がありそうですが、ここからは具体的なことはわかりません。ただ、ニネベの悔い改めを見て不機嫌になりましたから、ヨナは神のあわれみがニネベにかけられていることに怒りを感じているのは確かです。
「あなたが情け深くあわれみ深い神であり...わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。(2節)」とヨナが言うように、神はイスラエルだけでなくすべての人をあわれむことをヨナは知っていました。それでも、「神の民でもなく、たいへんな悪をやっていて、しかもイスラエルを脅かす」アッシリアの首都ニネベの悔い改めを目の当たりにして、ヨナは受け入れることができないのです。彼からすればニネベは悔い改めて助かるよりもむしろ滅んだ方がよいのです。
それでヨナは怒りのあまり狂い死にしそうなので、神に自分のいのちを取るように嘆願するのです(3節)。それに対し神は「あなたは当然であるかのように怒るのか。(4節)」と答えました。神は「あなたの怒りはよいことなのか」とヨナに問いかけます。もちろんこの答えは「当然ではない/良いことではない」です。神はヨナの怒りが間違っていることを指摘するのです。
ニネベの悪は天に届くほどひどいものでした。ですから、当然、神もニネベを怒り滅ぼします。ただし神はニネベをあわれむがゆえに、ヨナを通して「40日という悔い改めの猶予期間を」伝えました。一方、ヨナはタルシシュに逃げましたから、ニネベが滅んでも構わないのです。それゆえ、自分の気持ちとは正反対の結果になったので死を願うほど怒るのです。ここに、人のいのちよりも自分の気持ちを優先してしまうヨナの自己中心が示されています。
実は、ヨナも神からの使命を放り出して逃げたから神の怒りの対象でした。だから海は大荒れになりました。けれども神はそんなヨナを魚で助けました。つまり、神からすれば背きという点においてはヨナもニネベも同じなのです。そのことをヨナは気づいていません。でもこのことは私たちも同じです。私たちも「キリストを救い主と信じる」という信仰告白と「神に従う」という誓いによって洗礼を受けました。しかし、いまだヨナのように他者に無関心だったり、悪者の救いを快く思えないものです。ヨナの姿はまさに私たちの姿なのです。
Ⅱ.神はとうごまの出来事を通してヨナの自己中心を指摘し、すべての人へのご自身のあわれみを明らかにした(4:5-11)
ニネベのことで怒ったヨナはある行動を起こします。ヨナはニネベ全体が見渡せる場所に、強い日差しを避けるための小屋を作り、そこに留まりました(5節)。悔い改めたニネベが本当に滅びないのかどうかを確かめるためです。神はわざわいを思い直しましたが、その結果は40日後でないとわからないからです。
そんなヨナに神が関わります。神はヨナを暑さから守るために唐胡麻を生えさせました(6節)。唐胡麻は柔らかいつる状の茎とぶどうの木のような大きな葉を持ち、2-3日のうちに大きく生長して十分な日陰を作れます。ただし、茎が少し傷ついただけでも枯れてしまうひ弱な性質を持っています。神のみこころ通り、ヨナはこの唐胡麻を大喜びしました。ただ、「神はご自身に怒る者であったとしてもあわれみをかけること」をヨナはここで気づくべきでした。ヨナへのあわれみはニネベへのあわれみと同じだからです。
ここで神は虫を用いて唐胡麻を枯らしてしまいました(7節)。その上、焼けるような熱風をヨナに吹き付けました。唐胡麻が枯れてただでさえ暑いのに、日射病になるほどの熱さにヨナはさらされました(8節)。それでヨナは熱さで弱り果てどうにもできないので、神にこう願いました。「私は生きているより死んだほうがましだ。(8節)」今のヨナにとってはニネベの行く末どころか、神に助けられた自分のいのちでさえもどうでもいいのです。
この訴えに神が答えます。神は再び「あなたの怒りは当然ではない/良いことではない」と指摘します(9節)。それに対してヨナは反論します。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。(9節)」ヨナは植物である唐胡麻が枯れるのは当たり前なのに納得できず、快適さを奪われたことに猛烈に腹を立てています。ヨナが気分に左右されていることがニネベのときよりも一層明らかになっています。
そんなヨナの態度に神が語ります(10節)。「惜しむ」は「あるものに心を与える/心を割く」という意味があり、「とても大事に思い、失われて欲しくない気持ち」を言います。ヨナは自分を快適にしてくれる唐胡麻を惜しみます。その一方、自分の敵であるニネベは惜しみません。自分の手ではどうにもできないはかない植物は惜しみます。その一方、神が特別に造った人であるニネベ、しかも自分の働きで滅びから救えるのに惜しみません。つまり、ヨナが惜しむかどうかは「快か不快」にあるのです。対象とするものがどういったものなのかは関係ないのです。これが自己中心です。
それで神はご自身のことをヨナに伝えます(11節)。「右も左も分からない」とは、善悪の判断がつかない者を言います。ニネベを首都とするアッシリアは、神からすれば善悪の判断がつかず、天に達するほどの悪を続けています。しかも、神の民イスラエルを脅かす存在です。ですから、神は彼らを怒り、今すぐにでも滅ぼしてもいいのです。けれども、神は彼らを惜しみます。なぜなら神は人をあわれむからです。神のみこころは人が滅ぶことではなく、悔い改めて生きることだからです。さらに「家畜」に触れているように、人が治めるこの世が万物の創造のときのように、本来の姿になることを望んでおられるのです。ここが「快か不快」かでふるまうヨナとの決定的な違いです。それゆえ神は、ヨナを通してニネベに警告し、悔い改めの猶予期間を与えるのです。
ヨナは自分の感情に左右されますが、神はそうではありません。ご自身の怒りや不機嫌よりも人へのあわれみを優先するから、たとえ神に抗う者であっても人のいのちを惜しみます。神はそのことをヨナに気づかせようとしました。神の使命から逃げたヨナを魚で助け、ニネベへのあわれみに怒ったヨナを唐胡麻でなぐさめました。神はご自身に背く者を怒り、必ず罰を与えます。しかし、怒りに身を任せるのではなく、罪を悔い改めて神に向き直り生きる機会を与えます。「あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。(4:2)」このことばが真実であることをヨナ書は明らかにしています。
■おわりに
ヨナ書の宣教を閉じるに当たり、最後に「惜しむ」ということばを取り上げます。ヨナは自分を快適にしてくれる唐胡麻を惜しみました。反対に、異邦人でありイスラエルの敵すなわち自分にとって不快なニネベは惜しみません。タルシシュに逃げたことがその証拠です。
では神はどうでしょうか。万物が造られたとき、人は神にとって非常によい存在でした。けれども罪が入った結果、今では神の怒りを受ける存在です。しかし、神は人のいのちを惜しみ、滅びではなく永遠のいのちを持つことを望んでいます。一方、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。(マタイ3:17)」と言うように神にとってイエスは愛する存在です。しかし、神はイエスのいのちを惜しまず、犠牲にしました。怒るべき存在である人を惜しみ、愛する我が子を惜しみません。これが神のあわれみです。本来、滅ぶべき私たちが永遠のいのちに救われたのは、この神のあわれみによります。まさに、救いは【主】のものです(2:9)。
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