■はじめに
新約聖書「使徒の働き」を見ると、キリスト教の初期ではユダヤ人は異邦人がキリストを信じて救われるのを驚きました。なぜなら、救いはユダヤ教に属する者だけに与えられると信じていたからです。それでユダヤ人クリスチャンは、「異邦人も割礼や儀式を守ることなどでユダヤ教に改宗しなければ救われない」と主張していました。そのためパウロは、「救いはキリストのみであり、誰でも救われる」と伝え続けたのです。今日は、ニネベでの出来事から、神はどんな悪人でも滅ぶのを望んでいないことを見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.悔い改めたヨナは主に従い、ニネベで主のことばを叫んだ(3:1-4)
主のあわれみによってヨナは主との関係が回復し、命が助かりました。このことにより、ヨナは主から逃げていたことを悔い改め、主に従うと誓いました。それで主はヨナを再び預言者の働きに就かせるために、魚の腹から吐き出させました。ヨナが上げられた土地はイスラエルと考えられています。ここで主はヨナに語ります。
1節「ヨナに...【主】のことばがあった」とあるように、ヨナは預言者としての働きを命じられます。その使命はタルシシュに逃げる前の命令と同じであり、ニネベで主のことばを告げることでした(2節)。そのことばは「あと四十日すると、ニネベは滅びる。(4節)」という滅びの警告です。ここには明らかにされていませんが、滅びの警告を出すというのはニネベが滅ぶのを主は望んでいないからです。主は契約の民であるイスラエル民族だけを助けるのではなく、異邦人であっても助けたいのです。これが主のあわれみです。
この命令にヨナが応じます。ヨナは主に誓った通り、すぐに主からの使命を果たします(3節)。主が命じたニネベはアッシリアの首都であり、イスラエルから約800kmの所にあって、イスラエルから行くのには約一か月かかります。またニネベは「行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都」でした。ただし考古学調査によればニネベ自体は周囲12kmなので、行き巡るのに3日かかるほどではありません。おそらく、ニネベ周辺の町を含んでいるのでしょう。
ヨナはまず一日で行けるところまで歩きながら「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」と叫び続けました(4節)。この「滅びる」は「くつがえる/転覆する」とも訳されますから、元通りに回復できないほど激しい破壊が40日後になされるのです。ある意味40日は猶予期間と言えますが、滅びに対処するには余りにも短かいので、まさにニネベにとっては危機が直前まで来ているという状況なのです。
ヨナがタルシシュに逃げたのは「敵国であるアッシリアを救う」という働きが嫌だったからです。この当時、イスラエルの民は「救われるのは神の民である自分たちだけであり、異邦人は神のあわれみの対象外」と信じていましたから、ヨナが自分の使命を嫌っても不思議ではありません。しかし、主は悔い改めたヨナを通して、当初の目的であるニネベへの警告を実現しました。アッシリアは契約の民ではないだけでなく異教の国です。しかも、イスラエル王国に攻めてきています。さらには、「彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。(1:2)」と主ご自身が言うように、アッシリアの悪は天に届くほどひどいのです。それでも主はこの国を救いたいのです。
人は自分の感情で「あんな人とか国には幸せになって欲しくない/死んで欲しい/無くなってしまえばいい」と思ったり、さらには行動に移してしまう性質があります。けれども主なる神はそうではありません。「どんな悪人でも滅ぶのを望まない」これが主のみこころです。
Ⅱ.ヨナのことばによってニネベが悪を悔い改めたので、主はニネベを滅ぼさなかった(3:5-10)
さて、ヨナの叫びでニネベはどうなったでしょうか。驚くことにニネベの人々はヨナのことばでイスラエルの神を信じました(5節)。ヨナのことばを神からのことばと受け取ったのです。それで彼らは、神による滅びを恐れて断食し粗布をまといました。この行為は滅びの悲しみや嘆き、そして罪の悔い改めを神の前に現すものです。全部を行き巡るのに3日かかるところを、まだ1日しか告げていないのに、ニネベの人々すべてが悔い改めたのです。
ヨナが「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」と宣言しただけでニネベの人々は悔い改めました。間違いなく、彼らは自分たちがとてつもない悪をやっていることに気づき、その悪によって神のさばきがもたらされることをわかったのです。一言で言えば、イスラエルの神を恐れたのです。なぜ、そうなったのかはここからはわかりません。ヨナのことばを聞いた人々に神の力が働いたとしか言いようがありません。
ヨナのことばと町の様子は王の知るところとなりました(6節)。「王座から立ち上がって、王服を脱ぎ捨てる」とあるように、王座や王服といった王の権威の象徴を外すことで、王は自分が一人の人間であることを神に表しました。その上で、「粗布をまとい、灰の上に座り」自分が無価値であり愚かであることを神に示し、自らの悪を悔い改めました。アッシリア帝国の首都ニネベの王でさえも、神の権威の前にひれ伏し、神のさばきを恐れたのです。
王の悔い改めはそれだけに留まりません。王は悔い改めをニネベ中に知らせました。「人も家畜も、牛も羊もみな、何も味わってはならない。」とあるように、王は徹底的な悔い改めを、ニネベのすべてに徹底させました(7節)。というのも、あと40日しか猶予がないからです。ここで注目すべきは「それぞれ悪の道と、その横暴な行いから立ち返れ。(8節)」とあるように、王自身もこの滅びは自分たちの悪によるものと認めたことです。これまで好き放題やってきたこと、あるいは習慣的にやってきたことが悪と不正であると気づきました。それゆえ、神に背く悪から反転して神に向き合い、必死に助けを願うのです。それほど神の滅びが恐ろしいのです。それが9節に表れています。
王は悪からの悔い改めによって神の怒りが収まって滅びを免れることを期待しています。ただし、「もしかすると、神が思い直してあわれみ」とあるように、神が怒りを収めるのはあくまでも神の意志によるのであり、主権は神にあることを示しています。「悔い改めたから神は必ず赦してくれる」といった自己中心ではありません。「悔い改め」で大切なのは、悔い改めた結果を神に委ねるという神への恐れとへりくだりです。
このニネベのへりくだりと徹底的な悔い改めに神が応じます。神は彼らの悔い改めがみこころにかなっていると判断し、悪に対するわざわいを思い直して実行しませんでした(10節)。たとえ、異邦人であっても、さらには天に届くほどの悪者であっても、「悔い改めて神の主権に身を委ねる者」を神は滅びから救うのです。
真の悔い改めとは、まず自分の悪を認めてその悪をひたすら嫌い、悪から神に向き直ることです。そして「悔い改めによって罰を免れるかどうかは神の側にあると」神の主権に委ねるのです。ヨナとニネベはこのことを明らかにしています。
■おわりに
神への背きを悔い改めたヨナは、神の使命によって約800km離れたニネベに行き、そこで神らのことばを叫びました。あれほど嫌っていたニネベの働きを忠実に行いました。その結果、まだ町の1/3しか告げていないのに、王をはじめニネベすべてが罪を悔い改め、神に助けをひたすら求めました。その姿を神はご覧になって彼らへのさばきを止めました。
神はとてつもない悪に染まっているニネベでさえも滅びることを望まず、それゆえにヨナを通して警告を与えました。ニネベが助かったのは、ただ神のあわれみによるのです。ただしヨナが「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」と叫ばなかったら、ニネベは間違いなく滅んでいたでしょう。ですから、どんな人に対しても神のことばを語らなくてはならないのです。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。(Ⅰテモテ2:4)」とパウロは言いました。ニネベに起こったことは現代の日本にも起こっています。その証拠が私たちクリスチャンです。日本はニネベよりも遥か遠く、ほとんどの人は宗教を信じていないのに宗教的行事や習慣を受け入れている不思議な国です。それゆえ、確固たる宗教を持っていないので善悪や正不正の基準がなく、社会や集団の判断に左右される国民です。けれども、神はそんな日本をもあわれみ永遠の滅びから救われて天の御国に入って欲しいのです。それで神は様々な方法で福音すなわち「キリストを信じれば滅びから救われる」ことをに日本に伝えてきました。神は人が滅びに向かうのを放っておきません。ですから、私たちもヨナと同じように神のことばを伝えるのです。
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