■はじめに
キリスト教では悔い改めは2つあると言われています。一つは神からの罰の恐れや痛みから、罪を悔いて犯さないようにするものです。もう一つは、本来罰を受けるべきであるのに神があわれみによって罰を赦してくれたことから、罪を憎み神に従うというものです。どちらも罪を悔い改めるという点では同じですが、その後の生き方に違いが出てきます。罰を恐れる方では、恐れを恐れと思わなくなれば、再び罪に向かいます。一方、あわれみによる方では、主のために生きようとしますから罪を犯そうとなりません。今日は、海に放り込まれたヨナのその後から、神のあわれみと悔い改めについて、みことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.ヨナは「海の中にいる自分」を「よみの中にいるよう」に受け止め、主との断絶に苦しんだ(2:1-6前半)
ヨナは海に投げ込まれましたが、主の備えた魚に飲み込まれ命は助かりました。この出来事によりヨナは変わります(1節)。
ヨナは船が難破しそうなとき、「神に助けを願え」と船長から命じられましたが、祈りませんでした。あれほど主から逃げていたのに今は主に向き合っています。なぜそうなったのかをヨナは祈りという形で主に告白します。
ヨナは放り込まれた時から魚の腹に入るまでを振り返っています(2節)。海の中でヨナは苦しみました。ただし、「よみの腹から私が叫び求める」とあるように、その苦しみは「冷たいとか息苦しい」といった肉体的な苦しみだけではありません。「よみ」と訳されている「シェオル」はイスラエルの民にとって死者の行くところを指しています。彼らはよみを地の深い底にあるところ、暗闇の穴、地上世界との断絶と理解しています。2章で言えば「深いところ(3節)、大いなる水(深淵,5節)、山々の根本(5節)、地のかんぬき(5節)、滅びの穴(6節)」が「よみにいるような感覚」を表しています。
そして、よみは死者の場所ですから、神との関係が断ち切られている場所です。なぜなら、神との契約はあくまでも生きている者との間だからです。イエスがラザロをよみがえらせたように、神は死者にも関与できますが、よみにおいては神と神の民という関係は断絶しているのです。
ヨナが「あなたは私を深いところに投げ込んだ/あなたの波、あなたの大波(3節)」と言っていることから、彼は、「投げ込まれたのは主への背きに対する主の怒り」だと自覚し、そのために自分は深い海にいるとわかっています。その様子をこう言っています(5-6節前半)。「山々の根元」である海底で潮の流れや海藻でがんじがらめになっています。しかも、「地のかんぬきは、私のうしろで永遠に下ろされました」とあるように、あたかも牢獄に閉じ込められたごとく、二度と地上の人生には戻れません。それゆえ、彼は今の状況をよみのように捉えているのです。つまり、ヨナにとっての苦しみは主との関係が断ち切られたことなのです。
預言者でありながら、主の使命を放棄して逃げたゆえの罰は当然です。「神の怒りを静めるために自分を海に投げ込みなさい」と命じていることが、その罰の自覚を示しています。それでもヨナは主との関係を断ちたくはないのです。その思いをヨナは告白しています(4節)。「私は御目の前から追われました。」とあるように、ヨナは主が自分との関係を断ち切ったと確信しています。よみにいる者のように、主のあわれみの対象外となってしまっただけでなく、主への祈りも届かない者になったのです。だから「もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。」と、神殿での礼拝や祈りといった主との関係を取り戻したいのです。
イエスは十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫びました。人にとって最も辛いのは神との断絶です。自分を顧みてくださる方からの絶縁は絶望を生むのです。
Ⅱ.滅んで当然のヨナを主が助けたので、ヨナは主に対して悔い改めて従う(2:6後半-10)
海の中にいるヨナを魚が飲み込みました。そのことをヨナは主との関りとして語ります(6節後半-7節)。海に放り込まれたヨナを大きな魚が飲み込みました。この事実をヨナは「滅びの穴」、すなわち永遠に閉じ込められているよみから、私の神、主が引き上げたと理解しています。言い換えれば、背きの罰として滅んでも当然の自分を主が助けた、と驚いているのです。それが、「しかし、私の神、【主】よ。あなたは」に込められています。
そして、滅びの穴から助かったのは祈りが主に届いたから、と受け取っています。彼は海の中をあたかもよみのように捉えていて、主との関係が断たれたと確信したから、もう一度主を仰ぎたいと叫び祈りました。ところが今、ヨナは魚の腹の中で生きています。ヨナからすれば、よみから解放されて生きる者となったのです。それでヨナは自分の祈りが聖なる宮、すなわち神殿におられる主に届き、主が自分との関係を元通りにしてくださった、とわかったのです。魚によって命が助かったのは、自分が主のあわれみの対象となった証拠なのです。
それでヨナはこう語ります(8-9節)。「空しい偶像に心を留める者」これは神以外に平安や喜びを求める者を言います。まさに8節のことばは主から逃げたヨナの姿です。しかし、背きの罰によってよみに入れられても当然の者を、主はそこから命に戻しました。それゆえヨナは「救いは【主】のものです。」とよみから引き上げたのは主以外にない、と告白します。
主との関係が断たれて滅んでも当然の自分を主が助けてくださった、すなわち主との関係が回復したから、ヨナは主に感謝の声をあげて、主を礼拝し、主への従順を誓うのです。ヨナはこれまでの自分を悔い、もう一度主に向き合います。これが悔い改めです。そしてヨナの誓いを主は認めたから、主は魚からヨナを吐き出させました(10節)。再び、預言者としての働きに就かせるためです。
ヨナはまだ魚の腹の中にいるときに「救いは主のもの」と告白しています。地上に吐き出されたあとではありません。つまり、ヨナにとっての救いは「この世での生活に戻ること」ではなく、主と主の民という関係が回復することなのです。「主から関係を断たれて、あたかもよみにいるようだ。けれども祈りが主に届いた。」これが魚の腹の中にいてもヨナにとって何よりの喜びなのです。「主はあなたを見放さず、見捨てない」この約束は人にとって何よりの安心と希望です。
■おわりに
主から逃げていたヨナは魚の腹の中で、逃げていたことを悔い改め、主に従うと誓いました。主の祝福を受けられないどころか、よみに投げ込まれても当然の自分が助けられたからです。この助けは、自分が主に対して何かをしたわけではありません。ただ主のあわれみです。
ヨナの祈りは次のことを明らかにしています。「悔い改めたから助けられた」のではありません。「助けられるべき存在ではないのに助けられたから、悔い改める」のです。簡単に言えば、神のあわれみゆえに悔い改めるとなります。
このことは私たちの救いに通じています。私たちが悔い改めたから、イエスが十字架で罪を贖ってくださったのではありません。イエスが私たちのために十字架にかかったから、私たちは罪を認め、悔いて神に向き直るのです。そして「救いは【主】のものです」と真心から告白し、主に従ってゆこうとなるのです。
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