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木村太

2月12日 「大祭司キリスト③私たちに必要なお方」(ヘブル人への手紙7章20-28節)

■はじめに

 新しい土地に住んで悩むことの一つに「病院」と「ヘアカット(床屋)」があります。どちらも、いい加減にされては困るから、現地の人に聞いたりネットで調べたりします。「何時までやっているか/ていねいか/腕はいいか/混雑しているか」そんなことを教えてもらい、不安と期待の入り混じった気持ちで出かけます。ヘブル人への手紙もそれに似ていて、著者はイエス・キリストについて様々な情報を与え、読者に安心を与えようとしています。今日は、私たちにとって最も必要な大祭司キリストがいるから安心できる、このことを聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.「イエス・キリストが永遠に大祭司の務めを果たす」ことを神が保証した(7:20-25)

 この手紙の著者は、詩篇110篇と創世記からイエス・キリストについて2つのことを語りました。一つは読者であるユダヤ人の父祖アブラハムよりも偉大であること、もう一つは律法の時代が終わって今は大祭司キリストの時代であることです。けれどもこれだけの情報では、迫害の中にあってどうしてキリストを信頼し続てよいのか、これに満足いく答えには達していません。そこで著者はレビ族の祭司とイエス・キリストとを比較しながら、イエスこそが人にとって必要なお方であることを証明します。


 まず著者は祭司の任命方法について説明します。律法ではレビ族が祭司となるように定められています(20節)。ですので、自動的であり祭司にふさわしいかどうかの判断はなされていません。一方、イエスでは「主は誓われた。思い直されることはない。(21節)」とあるように、主なる神が「イエスがとこしえの祭司にふさわしい」と判断しています。しかも、神は誓っていますから、「イエスがとこしえの祭司にふさわしい」そして「祭司の務めを全うする」この二つを保証しているのです。だから22節「もっとすぐれた」とあるように、イエスはレビ族の祭司よりも、「間違いなく救う」という点ではるかにまさっているのです。いわば、能力や仕事ぶりにおいて非の打ち所がない祭司なのです。


 著者はさらにレビ族との違いを挙げます。レビ族の祭司は人間ですから当然老いて死にますので、交代が必要です(23節)。一方、イエスは永遠に生きていますので交代もなく、年齢による移り変わりもありません(24節)。つまり、神と人との間をとりなす祭司の働きにおいてムラがなく、つねにいつまでも最高の性質を保っているのです。


 それで著者はイエスの祭司の働きについてこうまとめます。25節「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので」とあるように、イエスは人とは異なるからだによみがえり、そののち天に上って父である神の右に腰を降ろし、いつもいつまでもご自身を信じる人と神との間をとりなしています。その上、「イエスはとこしえの祭司にふさわしい」と神が認め保証しています。それゆえ、イエスは昼夜を問わず、私たちがどこにいても、どんな状況でも、膨大な数の人々が求めてきても全員をとりなします。しかも、つねに正しく、公平ですから一人一人に手を抜かず向き合い、その人のためにふさわしいとりなしをしています。


 イエスは今、天におられますから、私たちはイエスがどんな風に神にとりなしているのか見ることも聞くこともできません。けれども、神が「とこしえの祭司としてふさわしい」と太鼓判を押しているのですから、間違いなく祭司の務めを果たしてくださっているのです。ここに私たちの安心があります。


Ⅱ.大祭司キリストがただ一度ご自身を神にささげることで、私たちの罪は完全に赦される(7:26-28)

 ところで「救い」すなわち「罪が赦されて神の怒りを免れる」ために、律法では手続きが定められています。この場で詳しいことがらは申しませんが、大きく二つあります。一つは神の怒りをなだめ罪が赦されるためのささげ物が必要なこと、もう一つはそれを人から受け取り神にささげる祭司が必要なことです。読者であるユダヤ人はそのことを熟知していますから、とこしえの祭司イエス・キリストの説明だけでは不安を取り除くに至りません。それで著者はささげ物について語ります。


 先ほど著者はイエスが永遠に祭司の務めを全うできることを伝えました。それに加えてここではイエスの性質を明らかにし、この方こそ「人が神に近づくために必要」と言います。4つの性質を簡単に説明します(26節)。

①敬虔:神と同じ聖さを持ち神に忠実

②悪も汚れもない:神と人を苦しめたり、不快な思いをさせない

③罪人から離されている:罪からはるか遠くにいる。罪が影響しない。

④天よりも高く上げられた:天は目に見えるもの、見えないものを治める場所。それらよりも高く上げられているから、すべてを治める神と同じ権威や立場にある。


 このことから、律法で定められているレビ族の大祭司との違いを著者は2つ指摘します(27節)。まず一つ目は、自分の罪を赦してもらうためにいけにえをささげる必要がありません。つまりイエスは永遠に職務を全うする性質に加えて、ささげ物なしで神と直接お会いできる完全な大祭司なのです。


 次に2つ目は、民の一つ一つの罪のために毎日いけにえをささげる必要がありません。なぜなら、イエスご自身がいけにえとなったからです。そのことをイエスご自身が証言しています。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マルコ10:45)」罪が完全になく、神と同じ性質であるイエスがいけにえとなって神にささげられました。それが十字架での死です。そして神はイエスといういけにえによってご自身の怒りを収めました。ただ一度のイエスといういけにえがイエスを信じる人への神の怒りをなだめたのです。違う見方をするならば人に対する怒りをすべて、神は我が子イエスにぶつけたのです。


 ここで、いけにえについてもう一つ大切なことがあります。律法では罪が引き起こす悪をしたとき、あるいは自らが咎めを認めたときに、罪を赦してもらうためにいけにえをささげます。けれども、無意識の罪や自分で罪だと認めていない罪については、どうにもできません。しかしイエスのいけにえはすべての罪を赦します。目に見える罪、目に見えない罪、自覚している罪、全く気づかない罪、これまでの罪、これからの罪、その人が地上の生涯で犯したすべての罪をイエスのいけにえが赦すのです。それゆえ、イエスは人を罪の滅びから救うための完全ないけにえなのです。


 著者は大祭司イエスといけにえのイエスを明らかにして、このように結論づけます(28節)。律法で定められたレビ族の大祭司は世代交代があり、働きにムラがり、弱さすなわち罪がありますから、神から見て完全な大祭司ではありません。しかも、動物のいけにえでは人が犯すあらゆる罪を赦してもらうのは不可能です。律法の下では人は絶対に罪ゆえの滅びを免れません。


 その一方、律法の後から来た誓いのみことば、すなわち「イエスによる救いの約束」いわゆる新約では、「永遠に完全な者とされた御子」が大祭司に任命されます。イエスは完全な大祭司ですから、ご自身のためのいけにえもとりなす者も必要ありません。イエスはいつもいつまでも、ご自身を信じる人と神との間にあって両者をとりなすことができます。さらに、イエスは完全ないけにえですから、ご自身を父である神にささげることで、人の犯す一切の罪を赦してもらえます。イエスといういけにえが神の怒りを完全になだめるのです。


 だから、人にとって必要なのは完全な大祭司イエス、完全ないけにえイエスなのです。このお方だけが、信じる者の罪を赦して滅びから救い、天の御国で永遠のいのちを与えるのです。そして、信じる者を助けるために、いつも神にとりなしてくださっているのです。


■おわりに

 本来、私たちは神に完全に従えないから、神の怒りにあって滅びに行かなければなりませんでした。しかし、神は私たちを大切にするので何とかして天の御国に入らせたいのです。それで神はご自身のひとり子であるイエスをこの地上に生まれさせて私たちの辛さを味わわせ、その上で十字架につけて私たちの罪を肩代わりさせました。さらに、朽ちないからだによみがえらせて、永遠にとりなす大祭司としてご自身の右に据えました。


 この手紙の読者であるユダヤ人クリスチャンと同じように、現代の私たちも様々な苦難に遭います。その時、私たちは苦難から逃れるためにもがき足掻きます。けれども忘れてはなりません。私たちはすでにイエスを救い主と信じた信仰ゆえに、滅びを免れ永遠の喜びと平安の天の御国に入れます。そして、この地上ではイエスがいつも私たちを見ていてくださり、神に助けをとりなしてくださっています。神は私たちを愛しているから、「私たちにとってまさに必要なお方」を与えてくださっているのです。

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