・はじめに
「あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。(ヨハネ8:15)」私にとってこのことばがイエスを信じるきっかけとなりました。就職してから私は、人間の価値は世の中で役に立っているかどうかで決まると考えていました。けれども、会社勤務ができなくなった時にこの考えを自分に当てはめると「人としての価値はあるのか/何のために生きるのか」という疑問が生まれました。一方で「必要の無い命は一つもない」とも思っていましたので、両者の間を埋める答えを探していました。そんな中で出会ったみことばがヨハネ8:15でした。このみことばから「人が人の価値を計ることはできない。」と気づき、「人が万物の中心である」といった考えこそが罪であることを知りました。いわば「なぜ生きるのか」という問題にイエスが光をもたらしたのです。今日は「イエスのことばはなぜ真理なのか」を聖書に聞きましょう。
Ⅰ.イエスは神であると同時に父の代理者だから「わたしは世の光です」という証言を信頼できる(8:12-14)
イエスが宮で教えていた最中に律法学者とパリサイ人が姦淫の女を連れて来てイエスを罠に掛けようとしました。ところが、イエスのことばによって連れてきた者たちは罪を認めてその場を立ち去りました。その後、イエスは再び人々に語ります(12節)。
仮庵の祭りでは、大きな燭台に火が灯されていました。これは、エジプトを脱出する際に主が火の柱を用いて民を導いたことを憶えておくためのものです。ですから、闇のような世の中にあってイエスご自身が罪の赦しと永遠のいのちそして正しい生き方に人々を導く光であることを、このことばは暗示しているのです。しかも、たった今人々が目撃した姦淫の女がこのことばを証明しています。
・闇の中を歩む:姦淫の罪で石打ちの定めにある。そうならないとしても一生、罪人として生きてゆく。
・私に従う者:イエスを信頼しイエスに従った。
・決して闇の中を歩まず:罪が赦され死から解放された。
・いのちの光を持つ:平安と人生への希望を持つ。姦淫の女では示されていないが、これまでのイエスのことばからすると永遠のいのちを持つことも含まれる。
つまり、これまで教えていた事柄が女に用いられて彼女の人生が一変したのを全員が目撃したから、教えを再開した最初に「わたしは世の光です。」と語ったのです。
ところがこのことばにパリサイ人が反応します(13節)。モーセの律法によれば、証言は二人以上でないと有効と認められません。「わたしは世の光です。」という証言はイエスただ一人だから「信用できない」とパリサイ人は反論するのです。戒律に厳格なパリサイ人ならではの言葉と言えます。ただ、明らかなのは、パリサイ人は「ことばの中身」ではなく「証言の手続き」に注目しています。「イエスはガリラヤ出身だからキリストではない。」と判断したように、彼らはまさにうわべしか見ていません。姦淫の女の出来事とイエスのことばがまったくつながっていないのです。
それでイエスはこう答えました(14節)。イエスは、自分のことを自分だけが証言してもその証言は真実だと言います。簡単に言えば、イエスの証言は律法に縛られないのです。なぜなら、「わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。」とあるように、イエスは父なる神の元から来て、父なる神の元へ戻るからです。つまり、自分は神と同一で、この地上に神の代理として来たから証言は真実なのです。
パリサイ人を初めとするユダヤ人は神のことば、そしてモーセやイザヤのような神の代理者のことばについては他者の証言を必要としていません。なぜなら神のことばそのものだからです。けれどもイエスには他者の証言が必要と言っています。ということはイエスを自分たちと同じ人と見ていて、神とも神の代理人とも見ていないのです。13節のことばは「あなたは人だ」と言っているのと同じです。
「わたしは世の光です。」をはじめイエスのことばを数学のように証明するのは困難です。なぜなら、イエスの再臨によって最終的な神のさばきがあり、そして新しい体で天の御国を生きることになるからです。一方で、闇の中を歩いていないというのは現実となっているから、たくさんの証しがあります。私たちもイエスのことばを疑わずに信じ、毎日の生活の中で「イエスは世の光です。それは本当です。」と実感することが大切です。
Ⅱ.父なる神がイエスを証言しているからイエスの証言もさばきも正しい(8:15-20)
イエスはご自身の証言だけでも真実なのに、さらに説明を加えます(15節)。さばきは罪あり・罪なしの判決をくだすことであり、証言と同じ裁判用語です。ただし、証言はだれでもできるのに対して、さばきはそれに見合った資格、地位、知識を必要とします。それゆえ、パリサイ人や律法学者たちはしかるべき立場にあるので人々をさばきます。けれども彼らは「肉」すなわち罪の影響を受けている心で判断するので、神のみこころと同じにはなりません。人をうわべで判断するというのはその典型と言えます。
一方、イエスは「わたしはだれもさばきません。」と言います。なぜならイエスの地上での役割は罪の赦しと永遠のいのちについて語り、十字架によってそれを実現することにあるからです。違う言い方をするならば「わたしは世の光です。」と証言するように、人を闇から解放し、滅びから救うために遣わされたからです。しかし、もし人をさばくとしてもそのささばきは完全に正しいとイエスは言います(16節)。普通のユダヤ人が「私はさばきができる。しかも正しい。」と言うのですから、パリサイ人たちには驚きと疑問と不愉快が沸き上がったでしょう。
イエスは自分のさばきが正しい理由をこう言います。「わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。(16節)」先ほど申しましたように、イエスは神であり神の代理人です。だからイエスのさばきは、イエスを遣わした父である神のさばきでもあるのです。私たちも「あの人だったらきっとこうするだろう」と考えて行動するときがあります。けれども自分と相手には違いがあるから、必ずしもうまく行くとは限りません。しかし、イエスは神と同一であり、その上神の判断に従っているから、イエスのさばきは正しいのです。
ここでイエスはご自分の証言もさばきも正しいことについてさらに説明を加えます(17-18節)。繰り返しているように、イエスは神と同一であり、神の代理者ですからそれだけで正しいのです。その上、自分と自分を遣わした父なる神の二者が同じ証言あるいは同じさばきをしているから、律法からしても正しいと言えるのです。イエスはパリサイ人が「証しについての律法」にこだわっているから、律法という土俵に上がったのです。
ただし、イエスが何か話したり判断した時に、神が「私もイエスと同じです。」とリアルタイムで証ししません。なぜなら、神はモーセの律法・詩篇・預言書を通して神の子イエスが到来することをすでに知らせ、加えてイエスのわざを通してイエスが神であることを明らかにしているからです。もしそのことが分かっていたならば、あのバプテスマのヨハネのように「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(1:29)」と言えるのです。
イエスのことばにパリサイ人が答えます(19節)。彼らはイエスがガリラヤ地方出身で父ヨセフと母マリヤも知っていました。ですから「父はどこにいるのですか。」という問いには「イエスが神を父と呼んでいるのではないか」という推測があるのです。しかしイエスは「私の父は神です。」と答えません。ユダヤ人であれば自分が誰であるのか、自分を遣わした父が誰であるのかを悟れるからです。神の民を自負していた彼らなのに「神を知らない」という厳しい事実をイエスは指摘しているのです。
さて、世の光の話題を締めくくるに当たりヨハネはこう書いています(20節)。火の柱を象徴する燭台は神殿の「婦人の庭」にあり、婦人の庭のそばに献金箱がありました。ですから「献金箱の近くにある燭台」と「わたしは世の光です」のことばから、イエスが「自分は火の柱」つまりは「自分は神だ」と暗に宣言していると人々は気づきます。これは神冒涜に当たります。けれどもイエスの時すなわち十字架の時には至っていないから、イエスは神の働きによって逮捕されないのです。目の前に自分たちの光となる人がおられるのに、その人を逮捕したいというのは、まさに霊的盲目によって幸いを逃しているのです。
・おわりに
あの姦淫の女のように、現代の日本に生きている私たちも闇の中にあります。
・「人をねたむ、意地悪する、人の不幸を喜ぶ、他者に無関心」のように自分の悪をわかっているけれども止められない。そんな自分を赦せない。
・迫害やいじめのように肉体的・精神的苦痛が執拗に続く。
・世の中から見捨てられた、必要とされていない。
・病や経済、将来についていつも不安で希望がない。
これらがすべてではありませんが、「自分は闇を生きている」と分かった者にとってイエスは光となります。イエスはその人を受け入れて罪を赦し、苦しみを共に担ってくださり、心に不思議な平安を与えます。イエスは私たちをさばくために来たのではありません。私たちの罪を赦して滅びを免させ、永遠のいのちと平安のために来ました。真実なイエスが私たちの中で光を輝かせています。
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