2月16日「八つの幻④~大祭司ヨシュアの役割~」(ゼカリヤ書3章1-10節)
- 木村太
- 2月16日
- 読了時間: 7分
■はじめに
今から二十数年前、ある牧師から礼拝の流れを矢印で教わりました。「→↑↓→」という流れです。それぞれの矢印は礼拝を構成する要素を表していて、左から順にこんな風になっています。
①→:神によって集められること
②↑:賛美と祈りによって神をほめたたえること
③↓:宣教によってみことばに耳を傾けること
④→:祝祷によってこの世に派遣されること
そしてここには、神の民クリスチャンの特徴、すなわち「神への感謝/神への従順/神を証言」が表されています。ただし、この特徴はキリストが来られる前の時代、いわゆる旧約の時代から見られるものです。そこで今日は大祭司ヨシュアの幻から、「神の民」という者の姿を見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.主はヨシュアの大祭司任命を通して、信仰におけるイスラエルの復興を宣言した(3:1-5)
ゼカリヤは測り綱の人に続いて4つ目の幻を見ます。幻の中で、主は大祭司ヨシュアをゼカリヤに見せました(1節)。ヨシュアはバビロニアの捕囚からエルサレムに戻った民の一人であり、神殿再建の際には総督ゼルバベルのもとで大祭司の務めを果たしました。大祭司は祭司のリーダーで、神の民すなわちイスラエルの民全員と主との間をとりなす働きをします。いわばイスラエルの民の代表と言えます。
ゼカリヤは主の使い、ヨシュア、サタンを見ました。彼らの立ち位置と状況から察するに、これは主の法廷でサタンがヨシュアの罪を御使いに訴えている様子を描いています。後で説明しますが、このときヨシュアは罪の象徴である汚れた服を着ていました。ここでサタンはヨシュア個人の罪を主に訴えているのではなく、ヨシュアを代表としてイスラエルの民全体の罪を訴えています。
ところが主はサタンの訴えを退けるだけでなく、いまだ罪を挙げようとしているサタンを非難しました(2節)。というのも「エルサレムを選んだ【主】」とあるように、主はエルサレムを再び神の都として選び、再建しようとしているからです。そしてそれが可能なのは、イスラエルの罰はすでに終わっているからです。「この者は、火から取り出した燃えさしではないか。」と主は言います。「燃えさし」は燃えるところが残っているにもかかわらず、火が消えています。つまり、主は罰を終えたのであり、イスラエルは罰から解放されているのです。ですから、過去の罪を訴えることはできません。
ただしヨシュアは罪もその罰も主のみこころによるとわかっているので、「汚れた服のまま」主に身を任せています(3節)。そこに、主のみこころに従って御使いが命じます(4節)。「自分の前に立っている者たち」は何らかの奉仕をする御使いと思われます。御使いは、罰を終えて無罪となったヨシュアから汚れた服を脱がせ、礼服を着させます。「礼服」は大祭司の装束であり、ヨシュアが大祭司としてふさわしいと主が認めた証拠です。それを見てゼカリヤがこう言います(5節)。
ゼカリヤが出しゃばっているように思えますが、そうではありません。「ターバン」は大祭司が務めをするときに頭に巻くものであり、それを身に着けることによって大祭司は神の栄光と美と聖さを現わします。加えて、「きよいターバン」とあるように、ヨシュアは唯一無二の完全な大祭司だとゼカリヤは認めているのです。そして、そのとおりヨシュアは礼服ときよいターバンを身に着けました。ゼカリヤが主張した通り、主はヨシュアを完全な大祭司に任命したのです。最初に申しましたように、ヨシュアは全イスラエルの代表ですから、主はヨシュアの大祭司任命を通して、イスラエルの罪を赦し再び神の民として歩むことを明らかにしているのです。
前回、測り綱の幻において、主はイスラエルと神の都エルサレムの復興をゼカリヤに告げました。そこでは、主を畏れない者を滅ぼすこと、主を畏れる者を神の民にすること、エルサレムを完全に守り繁栄を取り戻すこと、こういった目に見える復興を宣言しています。一方、今回の幻では大祭司任命を通して罪の赦しという聖さを扱っています。すなわち神と神の民との関係回復、違う言い方をするならば目に見えない信仰の回復を宣言しているのです。しかも、これは神の方から一方的になされています。イスラエルの民が何か善いことをしたからという、いわば功績によるものではありません。これが神のあわれみです。このあわれみによって、現代の私たちもキリストを通して咎が取り除かれ、神との関係が回復しているのです。
Ⅱ.主はヨシュアに大祭司としてすべきことを命じた(3:6-10)
大祭司の装束を身に着けたヨシュアに御使いが語ります。6節「諭して」とは「戒め/厳か」の意味ですから、これから語られることは大祭司として重要事項なのです。御使いはまずヨシュアの役割を告げました。
(1)イスラエルの民が聖さを保つこと(7節)
「もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら」とあるように、大祭司は「わたしのの道に歩む」すなわち「主の聖さ、正しさ、善性」に沿って生活し、さらに「わたしの戒めを守る」すなわち「主が命じたこと」を一つもおろそかにすることなく果たさなければなりません。一言で言うならば、主のみこころを身をもって現すのです。
その上で、御使いは3つの働きを言います。
①わたしの家を治める:主の家である神殿の奉仕を通して民の信仰を保つ
②わたしの庭を守る:主が治めるすべての領域において汚れから守る
③この立っている者たちの間に出入りすることをわたしはあなたに許す:御使いたちと同じように主に近づき、主と民との間をとりなす
つまり大祭司は神の民としてのお手本を示しながら、神の民を汚れに歩ませないようにし、信仰を深める役割があるのです。旧約聖書の登場人物で言えば、イスラエルを率いたモーセがこれにぴったりです。
(2)メシアによる神の国の完成を証しすること(8-10節)
御使いは大祭司の役割に続いて不思議なことを語ります。8節「あなたの前に座している同僚たち」はヨシュアと同じ祭司を指しています。そして、彼らは「しるし」すなわち何らかのことを人々に示す証言者となるのです。その「何らかのこと」が「見よ」から始まる3つのことがらです。ただし、3つのことがらについてはいくつかの解釈がありますので、ここではやがて来るメシアに関わることとして解説します。
①見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる(8節):旧約聖書において若枝は救い主メシアを象徴しています。ですから、やがてメシアが来るのです。
②見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。一つの石の上には、七つの目がある。(9節):石は神の国の土台であるメシアを指しています。また、目はものごとを見張るとか見守る、あるいは判別するという働きがあります。さらに「7」は完全を表す数字ですから、この石は、メシアが神の国を完全に聖めて守ることを象徴しています。
③見よ、わたしはそれに文字を彫る(9節):石に文字を彫るは碑文を意味します。碑文には彫る人の思いが刻まれていますから、この石は、「わたし」である主のみこころを表すものです。
つまり、3つのごとがらは「若枝であるメシアが来て神の国が完成し、神のみこころをなす」と解釈できるでしょう。その上で、メシアが来た時に何が起きるのかを御使いは言います。「わたしはその地の咎を取り除く(9節)」とあるように、メシアが来たとき神の国となるところは一切の咎が除かれ、完全に聖いところとなります。また、「互いに自分の友を招き合う」は宴会の様子、「ぶどうの木といちじくの木」は平和と繁栄を象徴しています(10節)。ですから、メシアによって神の国に平和と繁栄がもたらされ、そこに住む者は喜びに満ちるのです。
ここまでの3つの幻を通して、主は神の国と神の都の再建をゼカリヤに告げました。ただし、その完成は若枝であるメシアの到来を待たなければなりません。その時まで、ヨシュアは大祭司としてイスラエルの民の信仰をますます高めるのです。と同時に、メシアが来て神の国が完成することを祭司たちは人々に証し続けるのです。このことが、エルサレムに戻った者たちの励ましと希望になるのです。
■おわりに
大祭司ヨシュアの幻を現代の私たちに適用します。主はあわれみによってヨシュアの咎を取り除いて聖い祭司としました。同じように、私たちもあわれみによって、キリストの死とよみがえりを通して罪が赦され、聖い者とされ、大祭司のように神の前に出ることができます。また、ヨシュアは神の民のお手本となって神の民の聖さを保たせ、信仰を深める働きを担っています。と同時にやがて来るメシアとメシアによってもたらされる神の国の素晴らしさを証しします。それと同じように、私たちも自らの生き様を通して人本来の姿を世の中に明らかにします。そして、福音を語ることで、「主の日において滅びを免れて天の御国に入る」という希望を証言します。大祭司ヨシュアの幻は「地の塩、世の光」というクリスチャンのあるべき姿を語っているのです。
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