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8月3日「良い羊飼いを拒む」(ゼカリヤ書11章1-17節)

  • 木村太
  • 8月3日
  • 読了時間: 8分

■はじめに

 聖書では、神あるいは神に遣わされた指導者と神の民との関係を、羊飼いと羊の群れでたとえています。羊を飼っていたイスラエルの民には、とてもわかりやすいたとえです。詩篇23篇はその典型であり、ここには良い羊飼いとこれに従う羊の理想的な姿が描かれています。では、良い羊飼いの養いを拒んだらどうなるのでしょうか。今日はこのことについてゼカリヤ書11章に聞きましょう。

 

■本論

Ⅰ.主はご自身のあわれみを拒んで従わない者を完全に滅ぼす(11:1-6)

 主なる神はご自身に望みを持つ者への約束をこのように宣告しました。「苦難から解放され神の国に入る/神の国での繁栄/その日に至るまで苦難を乗り越えさせる」ただし、「ご自分の群れであるユダ(10:3)」と主が言うように、まことの羊飼いである主に従うことが条件です。なぜなら、テラフィムや偽りの占い師といった偽の羊飼いはさまよいと苦しみしかもたらさないからです。それで主は、良い羊飼ではなく偽の羊飼い、後のことばでは愚かな羊飼いに従ったらどうなるのかを詳しく語ります。

 

 1-3節「レバノンの杉/バシャンの樫の木/ヨルダンの茂み」これらはイスラエルの豊かさや威厳の象徴です。そこに「おまえの門を開け(1節)」とあるように、主がやってきます。主の目的は「火が焼き尽くす/杉の木は倒れる」のとおり、イスラエルを徹底的に滅ぼすためです。国の滅亡によって、牧者や若い獅子でたとえられている政治や宗教指導者はわめくように嘆きます(3節)。

 

 なぜ主はイスラエルを徹底的に滅ぼすのか、その理由をこう語ります(4-5節)。「屠られる羊の群れ」は主への背きによって滅びに定められているイスラエルの民を指します。羊を売り買いする羊の商人は自分の利益しか頭にないので、羊ことをまったく気にかけません。そのように、背きの怒りとして主は強大な国を用いてイスラエルを痛めつけます。その際、攻め込む国は羊の商人のごとくイスラエルをまったく顧みません。と同時に、牧者であるイスラエルの指導者たちも保身に夢中で、民をあわれまないから、主に悔い改めるという正しい方向に導きません。だから、イスラエルは「ほふられる羊の群れ」と呼ばれるのです。

 

 ところが不思議なことに主はゼカリヤに「羊の群れを飼え」と命じます。「飼う」は「養う」ことですので、ゼカリヤは主から遣わされた羊飼いとして羊をあわれみ養います。それによって羊は羊飼いを信頼し従うようになります。つまり、ゼカリヤという羊飼いをとおして、主は民を死からいのちに救おうとしているのです。いわば、主はあわれみによって、救いのラストチャンスを与えているのです。

 

 しかし6節のように、イスラエルの民は主からあわれみをかけられず、滅びから救われません。ゼカリヤに養われてもほふられる羊のままなのです。なぜなら、彼らはゼカリヤを頼らず従わなかったのです。それで羊の商人である他国によって徹底的に滅ぼされるのです。

 

 捕囚からエルサレムに戻ったイスラエルの民にとって、このことは目新しいことがらではありません。自分たちの父祖の歴史を振り返れば、これが真実なのは明白です。前回申しましたように、エルサレムでは神殿完成後もなお敵の脅威があり、また目に見える形での主の恵みがありません。そのため人々の信仰は形式的・表面的になっています。それゆえ主はこのようにに警告するのです。これも主のあわれみです。

 

 私たちにも滅びを免れるチャンスが与えられています。それがイエスを信じる信仰です。しかも、聖書には滅びがどのようにしてやって来るのかも記されています。主は聖書をとおして警告しています。だから私たちはイエスというラストチャンスを逃してはいけないのです。

 

Ⅱ.良い羊飼いを拒む者は愚かな羊飼いに飼われ、羊飼いとともに滅びに至る(11:7-17)

 ゼカリヤは主の命に従います。ゼカリヤは商人に雇われて羊を管理しました(7節)。その際、彼は羊飼いの道具である杖を2本用意し、一本には「慈愛」もう一本には「結合」と名付けました。

 

・慈愛:羊をあわれみ大切にする心です。後ほど出て来る愚かな羊飼とは正反対の羊飼いです。

 ①迷い出たものを尋ねる:瀕死の羊を救う

 ②散らされたものを捜す:さまよっている羊を捜して見つける

 ③傷ついたものを癒やす:傷を負っている羊を介抱する

 ④衰え果てたものに食べ物を与える:飢えた羊に飲食を与える

 

・結合:羊飼いから慈愛を受け取るために、すべての羊が羊飼いに頼り従う姿です。

 

 いわば、慈愛が羊飼いから羊への働きとすれば、結合は羊から羊飼いへの応答と言えます。これが良い羊飼いと羊との健全な関係であり、主が求める「主と主の民との関係」を現しています。

 

 ところが実際に羊を養ってみると、主やゼカリヤの期待とは全く逆の状況となりました。「彼らの心も私を嫌った。(8節)」とあるように、ゼカリヤが雇った牧者はゼカリヤの思いを一つもくみ取ろうとしませんでした。つまり、羊をあわれまなかったのです。それでゼカリヤは彼らを解雇しました。それだけではありません。「彼らの心も私を嫌った。」は悪い羊飼いだけでなく、羊も同じでした。良い羊飼いであるゼカリヤの慈愛を受け取らず、自分勝手に生きて一つになりませんでした。

 

 この状況にゼカリヤはこうふるまいました(9-10節)。9節「死ぬ者、滅びゆく者、互いに相手の肉を食べる者」は瀕死の羊、さまよって死に向かっている羊、飢えている羊の姿であり、生きるためには羊飼いの養いが必要です。けれども、彼らが「慈愛」という養いを拒んだために、ゼカリヤは「好きにしろ」と言い放ち、「慈愛」という杖すなわち「主が主の民をあわれみ祝福する」という契約を破棄しました。つまり、ほふられる羊であるイスラエルは主からのラストチャンスを拒んだのです。加えて、ゼカリヤは「結合」という杖も折りました。羊飼いから全員が慈愛を受け取ろうとしなければ、一致もないからです(14節)。

 

 そしてこの様子を見ていた商人すなわちイスラエルの周辺国は、イスラエルが自ら羊飼いに背いたゆえに神から捨てられた有様をとおして、神のことばがそのとおりになったことを認めました(11節)。言い換えれば、イスラエルの神の存在とそのみわざを彼らも悟ったのです。だから、のちのち彼らが主を知っていても主を恐れないから、彼らもまた主のさばきを免れないのです。

 

 ここでゼカリヤは羊の商人に言います(12節)。ゼカリヤは商人に雇われて羊を養う仕事に就いていました。それを放棄するのですから正規の賃金を要求できません。それでゼカリヤは「目にかなうなら」とあるように、牧者として役に立ったのであればそれに見合う賃金を払うように、そうでなければ払わなくていい、と申し出ました。この申し出に対して商人は銀30シェケルを支払いました。この金額は、牛に突かれて死んだ奴隷の値段ですので、ゼカリヤは非常に低い評価をされたのです。

 

 この様子に主はこう言いました(13節)。主からすればゼカリヤの働きはたいへん尊いものであり、銀30シェケルというのは侮辱以外にありません。「尊い価」は主の強烈な皮肉です。ただし、この賃金を自分の懐に入れてしまうと、その価を認めることになります。それゆえ主は、神殿の儀式に使う陶器を作っていた陶器師に銀30シェケルを与えるように命じ、ゼカリヤはそのとおりにしました。なぜ、「陶器師」なのか明確な理由はわかりません。ただはっきりしているのは、この出来事が後の時代にイエスの身に実現しました。言い換えれば、良い羊飼いであるイエスが軽んじられることがこの時代に語られているのです。

 

 イスラエルの民は良い羊飼いであるゼカリヤを拒みました。この状況で主はゼカリヤに再び命じます(15-16節)。主はゼカリヤに愚かな牧者を演じるように命じました。「愚かな牧者」とは主のみこころに従わず、自己中心の牧者を言います。具体的には16節にあるように、生きるために牧者を必要としている羊を放っておくのです。それだけではありません。「かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。(16節)」とあるように、羊を自分の食欲を満たすために利用するのです。つまり、良い牧者を退けたイスラエルの民は愚かな牧者、すなわち民をあわれまない牧者に扱われ、安心も喜びもないただ苦しみだけの人生を歩み、最後は強大な国に滅ぼされるのです。それは愚かな牧者も同じで「腕はすっかり萎えて、右の目の視力は衰える(17節)」のごとく、何もできなくなり滅びに至ります。愚かな牧者に従えば1-3節がそのとおりになるのです。主は、良い羊飼いと愚かな羊飼いをゼカリヤに命じることで、いのちや平安や喜びや満たしに至るのはどちらかを、イスラエルの民を含む全世界にはっきりと示しているのです。これも主のあわれみのゆえです。

 

■おわりに

 主は背きのゆえに滅びに向かう主の民を何とか救いたいのです。それで、良い羊飼いであるゼカリヤを彼らに与えました。主のみこころを受け取って、良い羊飼いに従うのか、それともそれを拒んで愚かな牧者に従うのか、その選択はイスラエルの民にかかっているのです。

 

 それと同じように、罪ゆえの滅びに向かっている私たちにもイエスという良い羊飼いが与えられています。私たちの意志で主に背いているので、主は私たちを放っておいても良いのです。しかし、主はあわれみによって、救いの道であるイエスを与えてくださいました。イエスが私たちのいのちを救うためにご自身を犠牲にしてくださったのです。しかも、よみがえりのイエスは良い羊飼いとして私たちを「慈愛」という杖で養っています。使徒ペテロはこう言っていいます。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」良い羊飼いイエスに従うのが人にとって正しい道なのです。

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