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7月27日「主は主の民を力づける」(ゼカリヤ書10章1-12節)

  • 木村太
  • 7月27日
  • 読了時間: 8分

■はじめに

 神は約束の地カナンを目前にして、イスラエルの民をこのように激励しました。「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(申命記31:6)」これから入って行くカナンの地には強大な現地住民がいたから、神はこう励ますのです。ただし、神は気休めに言っているのではありません。このことばの直前に、ご自身が計り知れない力でイスラエルを助けた事実を語り、「この神が見放さず、見捨てない」という保証を付けた上で「強く雄々しく」と命じています。ですから、イスラエルの民は神のことばを信頼して新しい土地に足を進めることができるのです。今日は神に望みを置く私たちがどのようにしてこの世を歩めるのかをみことばに聞きます。

 

■本論

Ⅰ.すべてを治める主が、ご自身に頼る民をあわれみ、羊飼いとして彼らを力づける(10:1-7)

 主は主に望みを持つ者を死からいのちへ解放すること、そして繁栄を約束しました(9章)。ただし、こう約束するのは単に彼らを安心させ喜ばすためではありません。結論から言うと、彼らの生き方が主の民としてふさわしくなるためなのです。

 

 1-2節をご覧ください。「後の雨」とは3月から4月に降る雨であり、これが麦の実りを豊かにします(1節)。それゆえ祝福の雨とも呼ばれます。主は稲光や大雨といった天地万物を治めるお方です。ですから、本来、人は主に頼るべきなのです(2節)。主を信じる主の民であればなおさらです。

 

 ところが、捕囚からエルサレムに戻って来た民の父祖たちは、テラフィムに代表される偶像や偽りの占い師・預言者に頼りました(2節)。彼らは主のみこころではなく、さも主のみこころであるかのように自分の意見を口にします。だから、人は主を羊飼いとしていないから迷い苦しむのです(2節)。イスラエルの衰退、滅亡、捕囚という事実がそのことを明らかにしています。

 

 今、エルサレムでは神殿が完成してもなお敵の脅威があり、また目に見える形での主の恵みがありません。それで人々の信仰は萎えて形式的になっています。このままであれば彼らは父祖たちと同じようにさまよい苦しみます。そのため、主はご自身に頼るように命じるのです。その上で主は「羊飼い/雄やぎ」でたとえられている宗教的・政治的指導者に怒ると同時に、「戦場の威厳ある馬」のごとく堂々となるように主の民を力づけるのです(3節)。その結果、主の民はこのようになります(4-5節)。

 

 「かしら石/杭/戦いの弓」はいずれも全体を支え導くメシアを指します(4節)。それゆえ、「この群れ」すなわちイスラエルの民からメシアとともに指導者たちが起されます。彼らは主の代理人として民を励まし、正しい方向へ導きます。それによって「勇士のようになり、戦場で道端の泥を蹴散らして戦う/彼らは馬に乗る者どもを辱める」とあるように、圧倒的に戦力で劣る歩兵が騎兵に勝つように、主の民は何事にも恐れなく主の民として生きるようになります(5節)。偶像や偽りの預言者あるいは指導者に頼っていた人生からの脱出と言えます。

 

 ここで主は主の民に対するご自身のみこころを明らかにします(6-7節)。「ユダの家/ヨセフの家」はイスラエルの民全体を指しています。主は主の民イスラエルを「捕囚から、捨てられた者から」解放し、神の国に連れ戻します。ただし、主がこうするのは「羊飼いである主」に頼らず、羊のようにさまよい苦しむ者をあわれんだからです(6節)。彼らが苦しむのは主に背いた彼らのせいです。けれども主はそんな彼らをあわれむ、すなわちかわいそうに思っているから、主に望みを持つ者を救い、彼らの嘆きに答えるのです。救いはあくまでも主のあわれみによるのであり、人が良いことをした結果ではありません。

 

 それで、「ユダの家/ヨセフの家/エフライム」と呼ばれる主の民は、酔いで陽気になるように安心しきって喜ぶのです。「その心は【主】にあって大いに楽しむ。」とあるように、後の雨も、良い指導者も、堂々とする勇気も、捕われからの解放も、神の国に入れるのも、すべての恵みが主のあわれみだから、主の民は主とともにあることを喜び楽しむのです(7節)。これが主の民本来の生き方です。

 

 私たちも主のあわれみによって、イエスを信じる信仰を通して滅びから解放され、天の御国という私たちの故郷に連れ戻されます。それゆえ、私たちも主がともにおられるから安心し、主がともにおられることを喜ぶのです。これが私たちのまことの生き方です。

 

Ⅱ.主の民は主によってどんな苦難をも乗り越えて、神の国に入ることができる(10:8-12)

 主はあわれみによって主の民を力づけ、救い、連れ戻す、と約束します。そのことをより具体的に語ります(8-9節)。

 

 「わたしは合図をして彼らを集める」とあるように、主の日は何らかの合図(角笛を鳴らすように)とともにやって来ます(8節)。その日、主に背いたために神の国からあちこちに散らされていた者たちは生き延びて神の国に集められます。「集める(8節)」は「一つの場所にまとめる」ではなく主が一人一人をがっちり握る様を言います。主に頼らず自ら主の手を離して散り散りになった民は、神の国から遠く離れた場所で主のあわれみを思い出し、主に望みを持ちます(9節)。

 

 エジプトで奴隷として重労働にあえいでいた民は主に嘆き叫びました(出エジプト2:23-25)。バビロニアで捕囚となった民はバビロン川のほとりでシオンを思い出して泣きました(詩篇137:1)。そんな彼らを助けたように、主は散らされて主に望みを持つ者を贖い、ご自身の手でがっちりとつかみ神の国へ入らせて繁栄させます。「わたしが彼らを贖ったから」とあるように、主ご自身が彼らの代価を払って、すなわち主が行動を起こして彼らを連れ戻したのです。これも、ただ主のあわれみによるのであり、主の民の手柄ではありません。

 

 ここで主は贖うことをよりわかりやすく説明します(10-11節)。「エジプトの地から連れ帰り、アッシリアから集める(10節)」は直接的には出エジプトと捕囚からの帰還を意味しますが、ゼカリヤ書の文脈からすれば、すべての地から主が主の民を集めて神の国に連れ帰ることを言っています。「彼らは苦難の海を渡る。海では波を打ち破り、ナイル川のすべての淵を涸らす。(11節)」とあるように、散らされた地において苦しんでいる民を主は励まし力づけます。そして、アッシリアの傲慢を抑えつけ、あるいは、エジプトの杖とたとえられているエジプトの誇りを取り去ります。イスラエルの民が割れた海を渡ってエジプトから解放されたように、主はご自身を恐れない国を滅ぼして、主の民を苦難の海から解放するのです。

 

 主は神の国に連れ帰るだけではありません。「ギルアデの地とレバノン」は、かつては北王国イスラエルの土地でしたが、今では他民族に治められています(10節)。つまり、主は神の国を取り戻し再びその地に主の民を住まわせるのです。しかも、「そこも彼らには足りなくなる。」とあるように、主はその地に住むには足りなくなるほど、民を栄えさせるのです。「二倍のものをあなたに返す(9:12)」のことばどおり、主は解放だけでなく繁栄も約束されます。

 

 ここまでの約束の締めくくりに主はこう言います(12節)。「わたしは【主】にあって彼らを力づける。」と主は言います。苦難の中でも堂々と力強く生きるために主の民を力づけるのは主しかありません。目に見える形で頼れる偶像や、もっともらしいことを語る偽りの預言者や指導者は気休めで、その場しのぎで、まことの助けにはなりません。なぜなら彼らは苦難にある人よりも自分の誉を大切にするからです。一方、主はかわいそうに思い、ご自身が人のために行動を起こしてくださるのです。背いた人を放っておいても良いのに、自ら手を出してくださるのです。

 

 それで、主に贖われた者は、主の名によって歩き続けます。「主の名によって」とは「主にあって」と同じ意味で、「主に頼り主に力づけられながら」を言います。ここで大事なのは「歩き続ける」が直訳では「自ら歩ませる」と語られていることです。「主にあって生きる」のは無意識あるいは自動的ではありません。主がともにいることを意識し、自らの意志で主に頼り、主からの励ましに気づこうとする意欲が必要なのです。「主が主の民を力づける」「主の民は自らの意志で主の力づけを受け取って生きる」この往復運動が主の民の生き方なのです。

 

■おわりに

 今日のみことばを現代の主の民である私たちに適用します。かつて私たちは天地万物を創造した神以外の神々や物や人に頼っていました。それで羊飼いのいない羊のようにいつも不安で不満を抱いていました。その上、背きのゆえに永遠の滅びに定められていました。ところが、神はそんな私たちをあわれみ、ご自身の子であるイエスを犠牲にして、私たちを滅びから買い戻してくださいました。これがイエスによる贖いです。私たちが何が良い生活をしたからではありません。ただ、神のあわれみによって私たちは滅びから解放されて、天の御国に入れるのです。

 

 ただし、私たちはこの地上に散らされていて、海の大波のようにナイル川の深みのような苦難を生きています。信仰によって救われていても苦しみを免れません。しかし、そんな私たちを神は放っておきません。「わたしは【主】にあって彼らを力づける。」と神は聖霊を通して私たちに生きる力を与えてくださっています。ですから私たちは、主の名によって歩き続けるのです。散らされていた地上を生き延びて、まことの故郷である天の御国に帰り、永遠の平安と喜びというこの上ない繁栄を受け取るのです。これが私たちの姿です。

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