■はじめに
現在航空各社では「フライトシュミレーター」という装置でパイロットの訓練をしています。この装置では実際の機体と同じコックピットで、実際と同じ操縦を体験できます。例えば、窓の風景やメーターはもちろんのこと、旋回時の傾きや着陸時のGも感じられます。本物の機体と唯一違うのは操縦に失敗しても人的被害がゼロという点です。律法における祭司といけにえの制度もこれに似ています。と言うのも、人が罪の滅びから救われるためにはイエスという祭司とイエスといういけにえが必要だからです。今日は、「幕屋での祭司の務め」と「キリストの救い」の関係についてみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.キリストは今、天において神の右に座し、大祭司としてまことの幕屋で神と人との間をとりなしている(8:1-3)
この手紙の著者はキリストが完全な大祭司、完全ないけにえであり、このお方が私たちの救いに必要だと読者に語りました。その上で、著者はキリストが今何をしているのかを明らかにします。詳しく語ることで読者に安心と従順になって欲しいのでしょう。それで著者はユダヤ人読者が良く知っている「幕屋での祭司の務め」を持ち出して、キリストを説明しようとします。
1節「以上述べてきたこと」とはキリストが完全な大祭司であるという説明を指しています。そのキリストが今どんな様子なのかを著者は3つ示しています。
①場所:「この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し(1節)」→天。あらゆる存在を治めるところであり、父なる神のおられるところ。
②立場:「大いなる方の御座の右に座す(1節)」→神から全権を委ねられた神の代理人
③働き:「大祭司(1節)/まことの幕屋、聖所で仕える(2節)」→天における幕屋で神と人との間をとりなす
人間の祭司は人が設営した幕屋で律法に従って務めています。一方、キリストは天で主である神が設営した幕屋で務めをなしています。「まことの」とは後ほど語られるようにこちらが本物の幕屋で、地上のものはその模型という意味です。違う言い方をするならば、人を罪の滅びから救うという意味において、天の幕屋が本物なのです。
ところで祭司が務めているのは幕屋以外にも神殿があります。著者が神殿ではなく幕屋を用いたのはモーセやアロン、出エジプトなど幕屋時代のことがらを扱っているからでしょう。加えて、神殿は政治的なイメージがありますから、「とりなしの働き」に集中するためにも幕屋にしたと思われます。
続けて著者はまことの幕屋での大祭司の働きについて語ります。レビ族の大祭司のように大祭司キリストも献げ物を持参して神と人をとりなします(3節)。献げ物には感謝を表すためのものと罪を赦してもらう動物のいけにえがあります。著者は罪の赦しに焦点を当てているので、一般的な「ささげ物」に加えて「いけにえ」を入れています。
人の大祭司と同じように大祭司キリストも神にいけにえを献げます。ここでは詳しく述べていませんが、すでに語っているように、キリストは人のすべての罪を赦してもらうために、ただ一度ご自身をいけにえとして神に献げました。これによりキリストを救い主と信じる人への怒りを神は鎮め、その人の罪を赦します。
キリストは神の右に座していますから、人を治める立場であり、人を顧みなくても問題ありません。けれども、キリストは人のためにまことの幕屋で大祭司の働きをしています。一見すると矛盾しているように見えますが、これこそが神のあわれみなのです。本来は罪を持っている人間をそのまま放っておいても良いのです。しかし、神はそうしないでキリストに人の苦しみを味わわせ、人の辛さを身を持ってわかった者としてとりなしの働きに任命しました。ここに、人を滅びから救いたい神のあわれみが明らかにされています。
Ⅱ.地上の幕屋とレビ族の祭司たちは「キリストによる救い」を不完全ながら明らかにしている(8:4-6)
「いけにえによって神と人とをとりなし、人の罪を赦す」という点では「地上の幕屋と大祭司」も「天でのまことの幕屋と大祭司キリスト」も同じです。しかし、冒頭のフライトシミュレーターが実際と違いがあるように、この両者もまったく同じではありません。そのことを著者は語ります。
すでに語られているように、ユダ族のキリストはメルキゼデクの例に倣って神が認めた大祭司です。律法で定められたレビ族の祭司ではありません。もし、キリストが地上で祭司となるなら律法に従ったレビ族でなくてはならないのです(4節)。著者はレビ族の祭司とキリストとの違いを明らかにしたいのでしょう。
では地上の祭司と天での祭司において、どこが同じでどこが違うのでしょうか。著者はこう語ります(5節)。「地上の幕屋と祭司の務め」は「天におけるまことの幕屋と大祭司キリストの務め」の写しと影である、と著者は言います。写しは「模範」を意味しますから、天における幕屋と大祭司キリストを模範として地上の幕屋と祭司が定められています。それで、神はシナイ山でモーセに型すなわち天のことがらの写しを告げ、モーセは語られた通りに幕屋を造り、祭司の役割を民に告げました(5節)。郷土資料館などにある地域とか開拓時代のジオラマのようなイメージです。つまり、地上の幕屋と祭司の務めが天でのことがらを示しているのです。
律法で定められた罪の赦しを簡単に言うとこうなります。「人の罪を赦してもらうために、大祭司は怒りをなだめるためのいけにえを携えて幕屋に入り、幕屋で神にとりなす。」大祭司がとりなすという赦しの方法、幕屋という設備、いけにえという物品、この点で地上のことがらは天でのことを表しているのです。これが写しです。
一方で著者は地上のことがらを「天にあるものの影」とも言っています。物に光を当てると影ができます。なので、影から物の形がわかりますが、奥行きや色、表面のざらつきなどは影からわかりません。つまり、律法で定められた幕屋と祭司の務めは、天にあるまことの幕屋と大祭司キリストのすべてを表していないのです。
先ほど申しましたように、律法における幕屋、大祭司、いけにえは罪が赦され滅びから救われるためのやり方を明らかにしていますが、それらが実際に何なのかは律法ではわからないのです。さらに言うなら、律法における罪の赦しは不完全だから、完全に罪を赦す幕屋、大祭司、いけにえが必要だ、ということを気づかせるために与えられているのです。
しかし今や真実が明らかになっています。「よりすぐれた契約/はるかにすぐれた奉仕/よりすぐれた約束(6節)」とあるように、写しや影の元である本物すなわちキリストが現れました。人の罪をすべて赦すために罪がまったくないキリストがいけにえとなりました。それが十字架での死です。そして死からよみがえったキリストは天で神の右に座して、大祭司としてご自身といういけにえを携えてまことの幕屋で神に赦しをとりなしています。「キリストを救い主と信じればだれでも救われる」という約束に基づいて、レビ族の大祭司では全うできなかった「滅びからの救い」をキリストが成し遂げたのです。だから、はるかにすぐれた、と断言できるのです。
ユダヤ人たちは律法を守れば滅びを免れて天の御国いわゆる神の国に入れると信じていました。けれども著者は、それは本物の写しと影に希望を置いているのであり、今や本物が来たことを言いたいのです。そして、天のまことの幕屋において完全な大祭司キリストが完全ないけにえを神にささげているから、信じる者はすでに罪が赦され天の御国に入れると言いたいのです。さらに、たとえ迫害にあってもキリストが見放しているのではなく、今も信じる者を思って神にとりなしていると励ましたいのです。
■おわりに
律法で定められた幕屋と祭司の務めは天にあるものの写しと影、と手紙の著者は言います。ということは、この時すでに天におけるまことの幕屋と大祭司、いけにえがあった証拠です。つまり、神はキリストがこの世に来られるはるか前から、キリストによる救いを完全に整えていたのです。
「律法の時代から神はキリストによって救おうとした」モーセに示した幕屋と祭司はこのことを私たちに教えています。我が子イエス・キリストを犠牲にすることをすでに定めていたのです。律法は失敗だったからキリストを用意したのではありません。ここに、行いではなく信仰によって人を救いたい神のあわれみが現れています。
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