■はじめに
日本同盟基督教団発行の「式文」では、洗礼式において誓約が定められています。これは「何を信じ、これからクリスチャンとしてどう生きるのか」を神と人の前で誓うものです。この誓約の一番目にはこう書かれています。「○○兄弟(姉妹)、あなたは天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか。」洗礼を受ける人は誰を信じるのかを最初に問われ、誓うことになります。なぜならキリスト教においては「誰を完全に信頼し崇めるのか」が最も重要だからです。これは仏教やイスラム教といった他の宗教でも同じです。今日は、十戒の第一戒を通して「天地の造り主、生けるまことの神のみを信じること」について聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.わたしは奴隷から解放した「主」すなわち「アブラハム・イサク・ヤコブの神」である
神はモーセに十の戒めを与える前に、戒めを与える神とそれを受けるイスラエルの民との関係を明らかにしています(出エジプト20:1-2)。ここでの「あなた」と「わたし」はエジプトで奴隷だったイスラエルの民が「あなた」であり、その民をエジプトから脱出させた神が「わたし」になります。そしてこの神こそが天地万物をお造りになった「主」と呼ばれる神であり、イスラエルの父祖であるアブラハムと祝福の契約をした「アブラハム、イサク、ヤコブの神」です。
神は「あなたとわたし」を定義した上で、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。(出エジプト20:3)」と、一番目の戒めを与えます。興味深いことに、神はイスラエルの民族を奴隷から解放したのに、「あなたがたには」ではなく「あなたには」と命じています。2節でも「あなたを...導き出したあなたの神」と言っています。エジプトを脱出したイスラエルの民は成人した男性だけで約60万人ですから、その家族を含めると200万人以上になるでしょう。けれども神は民族に命じているにもかかわらず「あなたとわたし」すなわち一対一の関係を求めるのです。なぜなら神は一人一人に目を留めているからです。ヨハネの福音書で見たように、イエスも一度に大勢の病人を治さず、イエスを信頼する者一人一人に応じています。神もイエスも集団ではなくて「あなた」を大事にするのです。
この神が「わたし以外に」と命じています。注釈付きの聖書で「わたしの前に」と別の訳が示されているように、直訳では「わたしの面前に/わたしの顔の前に」となります。つまり、神がイスラエルの民に求めるのは一対一に加えて、神と人が顔と顔を合わせている状態なのです。いわば「あなたとわたし」の間には隔てる物や邪魔をするものは一切ないのです。神はイスラエルの民一人一人を見て、守り、助け、導き、あるいは懲らしめます。一方、人は奴隷から解放した神のみを信頼し、神のみから安心を受け取り、神のみに希望を置き、神のみに従います。これが神がイスラエルの民に求めている関係です。ちょうど万物の創造において人が神だけに顔を向けていたのと同じです。
この関係を保たなければならないから、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」と命じるのです。では「ほかの神がある」とは何を意味しているのでしょうか。直訳では「あなたには」の「には」は「あなたにとって/あなたが所有する」を表します。つまり「ほかの神がある」とは、イスラエルの民が「エジプトから解放した神」とは別の神を神とすることなのです。しかもそうするのは自らの意志であり、「他から押しつけられたから」とか「神が見捨てたから」ではありません。イメージ的には神と自分との間に自分で何かを置くようなものです。ですから、神はイスラエルの民を大事にしようとしているのに、民が自ら関係を断絶しているのです。言い方を変えるならば、奴隷から解放した神とは別の神を信頼し、別の神から安心を受け取り、別の神に希望を置き、別の神に従うのです。それで神は別の神を置くことを第一に禁じるのです。
神が人を造られたとき、人と神との間には何の隔たりもありませんでした。先ほど申しましたように、顔と顔を向き合わせている関係です。しかし、善悪の知識の木から実を食べた結果、人は神ではなく自分の判断を優先するようになりました。それゆえ神以外の何かに頼ったり、安心を置いたり、希望を抱いたりする性質があるのです。イスラエルの民も例外ではありません。出エジプト記には書かれていませんが、ヨシュア記にこうあります。「今、あなたがたは【主】を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、【主】に仕えなさい。(ヨシュア24:14)」
彼らを悲惨な奴隷から解放したのはイスラエルの神すなわち「アブラハム、イサク、ヤコブの神」です。エジプトの神々や人ではありません。これは見える世界と見えない世界において、イスラエルの神だけが彼らを大事にした証です。エジプトを脱出するにあたって10番目の災いでは、イスラエルの民だけに災いを過ぎ越す方法を教えました。これも彼らを大事にした証拠です。天地万物を創造した「アブラハム、イサク、ヤコブの神」だけがイスラエルの民を大事にしているから、その神だけを神としなければならないのです。
Ⅱ.わたしは人を罪の奴隷から解放し永遠のいのちを与えたイエスの父なる神である
前回申しましたように、出エジプトの出来事は単なる過去の話しではありません。現代に生きる私たちにも密接に関わっています。なぜなら、イスラエルの民を救い出した神、すなわちイエスが父と呼ぶ神が私たちを罪による滅びから救い出したからです。
イスラエルの民がエジプトの奴隷いわば人という主人の奴隷だとするならば、現代の私たちは罪という主人の奴隷にあります。罪の奴隷だった時、私たちはみじめな者でした。神からの安心や希望を受け取っていないから、いつも何かしらの不安や恐れ、不満を持っていました。そして死を恐れます。ある意味、こういった気持ちを払拭するために、あるいは満たすために毎日を生きていたのです。けれども一方では空しさも薄々分かっていました。現代に生きる私たちもまた、自分ではどうすることもできない罪の中でもがき、苦しみ、うめき、叫んでいたのです。まさに奴隷を嘆き助けを叫ぶイスラエルの民と同じ姿です。
そして私たちも救われる前は父なる神とは別の神や何かを神としていました。イスラエルの民と違い、現代の日本では他の宗教や自然崇拝的な神々というよりも、目に見える何かを心の拠り所としています。例えば、家系、財産、地位、名誉、学歴、人脈、人の評価といったものを信頼し、安心を受け取り、希望を抱いています。SNSでの評判もその一つでしょう。このことをJ.I.パッカーは「心地よい感情を与えてくれるありとあらゆるものを偶像化し、実質的に礼拝している。」と言っています。神という存在として崇めてはいないけれども、神のように扱っているのが現代の私たちです。
けれども、人が神としてあるいは神のように信頼しているものは、罪による滅びから救い出しません。そして地上の人生においてはどんなときでも安心や満たしを与えることはできません。ただ神の子イエスだけが人を滅びから永遠のいのちに救い出し、罪の奴隷から解放して、どんなときでも安心と喜びと希望を与えるのです。そのことをイエスはこう証言しています。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)」
しかも、イエスによる滅びからの脱出と罪からの解放は、人の力でなしたのではありません。神が我が子イエスを犠牲にして人を救ってくださったのです。エジプトの奴隷からの解放も、すべて人知を越えた神のわざでなされたように、滅びから脱出し天の御国での永遠のいのちを与えられたのも、すべては神のわざなのです。アブラハム、イサク、ヤコブの神すなわちイエスの父なる神だけがイスラエルをエジプトから解放し約束の地カナンに入らせました。そして今やイエスによる救いの時代においては、イエスを信じる人を罪の滅びから解放し、約束の地天の御国に入らせます。
預言者イザヤはこのことをこのように語っています。「わたし、このわたしが【主】であり、ほかに救い主はいない(イザヤ43:11)」他の神々を含むありとあらゆるものの中で、ただ天地万物を造られた神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主と呼ばれる神、イエスの父なる神だけが人を救うのです。言い換えれば、このお方だけが人を大事にしているのです。だから私たちは神の顔と自分の顔が向き合った一対一の関係を保たなければなりません。神とは別の信頼するもの、安心を置くもの、希望を抱くものを自分と神との間においてはならないのです。十字架で死んでよみがえったイエスの父である神だけが唯一まことの神なのです。
■おわりに
聖書には神を忘れ、神ではないものに頼ろうとする人の姿が記されています。民数記では、荒野を旅するイスラエルの民が「肉が食べたい。魚が食べたい。きゅうりが食べたい。(民数記11:4-5)」と、奴隷の苦しみを忘れ、神に助け出されたことも忘れて、エジプトでの生活を懐かしんでいます。また、パウロはガラテヤ書でこう言っています。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。(ガラテヤ4:7-9)」
これと同じように、私たちも罪に苦しんでいたことを忘れ、救われた喜びや感謝を忘れて、お金や地位や名誉や快楽や評判など神以外のものを神との間に置いてはいないでしょうか。誰が永遠に続く罪の苦しみから解放したのでしょうか。誰が自分の子を犠牲にしてまで私たちを救ったのでしょうか。誰がただあわれみによって私たちを救ったのでしょうか。そのことを忘れなければ、唯一まことの神だけを神とすることができるのです。
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