■はじめに
昨年の流行語大賞に「親ガチャ」という言葉がノミネートされました。親ガチャとは「家庭環境によって人生が大きく左右されるという認識に立ち、生まれてくる子供は親を選べない」このことをスマホゲームの「ガチャ」 に例えた言葉です。例えば、顔立ちや体つきといった姿形、運動神経や学力といった能力は親で決まるので自分ではどうにもならない、という考え方です。この言葉に対しては賛否両論がありますが、ある意味、現代日本の社会構造を表していると言えます。ただ、ガチャのアタリやハズレは「何が幸せなのか」にかかっているのは確かです。今日は、第五番目の戒めから神は親と子について何を語っているのかをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.父と母は神の代理として神の権威を帯びて命と信仰を次の世代につなげてゆく
まず、神は父と母をどのように定めているのかを創世記から見てみましょう。創世記には神が最初の男と最初の女を造った様子が記されています。
・男:神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)
・女:神である【主】は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。神である【主】は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。(創世記2:21-22)
男と女の両方に「神である【主】は...した。」とありますから、最初の男と最初の女を造ったのは神ご自身です。一方、それ以降の人間についてはこのように記されています。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。(創世記2:24)」
明らかなように、最初の男アダムと最初の女エバから後(のち)は男と女によって人が産まれます。赤ちゃんの誕生はまさに神秘ですから、生まれた時には誰もが「神のお陰だ」と思うでしょう。しかし、子どもの誕生は神のみわざだけによるのではありません。そこには、男と女が精神的に肉体的に関わっています。すなわち、最初の人は神のみわざだけによって造られましたが、それ以降は神のご支配の元で男と女が命を造っているのです。
つまり、命の源は神にあるけれども、人の誕生は神から父と母に委ねられているのです。これは、十戒が与えられた出エジプトの時代も現代も変わりなく、またイスラエルと日本という地域が違っても変わりありません。「男と女が子を産み、父となった男と母となった女が育てる」これが、「命の継承」に対する神のみこころです。
次に「育てる」ことについて見てみましょう。神は親すなわち父と母が子どもに対して何をするのかをこのように命じています。「私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。(申命記6:6-7)」ここで「今日あなたに命じるこれらのことば」とは神がモーセに与えた律法であり、唯一まことの神だけを信じ従うこと、いわば信仰です。子育てにおける神の関心は信仰だけです。神は直接モーセに信仰を伝え、モーセは大人に信仰を伝え、大人は子どもに信仰を教えます。
なぜ信仰を継承する必要があるのかを神はこう語っています。「それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、【主】を恐れて、私が命じるすべての主の掟と命令を守るため、またあなたの日々が長く続くためである。(申命記6:2)」イスラエルの民は神を恐れ、神の命令すなわち律法に従って生きなければなりませんでした。それは、死なないためであり、さらには繁栄するためでした。神ご自身が子どもにエジプトからの救いのみわざと律法を直接教えてもいいはずですが、神はそうなさらず、親に託しました。それゆえ、父と母は神に代わって、神の不思議なみわざと信仰を子供の成長に合わせて教えるのです。言い換えれば、イエスが弟子たちにご自身の権威を授けて派遣したごとく、親は神の代理者という権威を神から与えられているのです。
これが「父と母を敬う」理由です。「立派な人だから/社会的な地位が高いから/学歴が高いから/収入が高いから/優しいから」のように、自分を含めて「人の目から見て親がどうだから」という理由で親を敬うのではありません。あるいは「自分は幸せだから親を敬う/自分は惨めだから親を蔑む」のように自分の幸不幸で親を敬うのでもありません。あくまでも、神の代理として神の権威を帯びて命と信仰を次の世代につなげてゆくから敬うのです。
ただし、親は神の権威を帯びているからと言って、ただ偉そうにしていてはいけません。先ほどの申命記6:6-7において、神は子どもに教える前に、親である大人に「今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。」と命じています。神に代わって命と信仰の継承をするのですから、まず親が神に従わなければなりません。親には信仰に立った生き方、すなわちみことばに従った考えや振る舞いが必要なのです。
Ⅱ.父と母を敬うことで神との正しい関係が保たれ、神からの祝福が代々に続く
次に「敬う」について聖書を見ましょう。20:12「あなたの父と母を敬え。」の「敬う」はもともと「重たい、重んじる、価値がある」を意味します。この意味と「親は神の代行者である」このことから「敬う」は、次のように言えるでしょう。
①神に従うように、親を重んじ、正しい教えと命令に従う
②神に感謝するように、愛に基づく親の配慮や導きに感謝する
③神の栄光を現すように、自分を通して親の栄光(すばらしさ)を現す
④愛をもって親の弱さを忍耐し、神の代行者としてふさわしい者となるように祈る
最後の「愛をもって親の弱さを忍耐する」はサウルに対するダビデの振るまいがお手本です。サウルはしつこくダビデの命を狙いましたが、ダビデは逃げるだけで反撃はしませんでした。しかも殺すチャンスがあったにもかかわらずサウルを殺しはしませんでした。そして、サウルが死んだ時には悲しみ嘆き哀歌を作りました。「サウルは主から油注がれた者、すなわち王としての権威を神から授かった者だから」という理由で、ダビデは報復せず、忍耐という形でサウルを敬い続けました。
先ほど申しましたように、親は神の愛、聖さ、正しさを目指さなければなりません。けれども、人には神に完全に従えないという弱さがあります。サウルもダビデもキリストを信じる私たちも例外ではありません。神の代理者である親も善悪の判断を誤ったり、理不尽なふるまいをしたり、悪事を働くのが現実にあります。このようなとき私たちは「父と母を敬え」と頭では分かっていても、悲しみや苦しみや怒りや恐怖などによって「尊敬できない/大切に思えない」のも事実です。忍耐が限界に達して「悪には悪で返したい」気持が起き、行動に出てしまうこともあります。ですから、子どもも神からキリストを通してなぐさめと安心を受け取り、神の愛に満たされる必要があるのです。そして親が神の愛に反して、子どもの心や体を危険にさらす場合には、ダビデがサウルから遠ざかったように、親から離れることも必要です。大事なのは「神の代理者として」父と母に応じるということです。
さて、神は父と母を敬う目的をこう言います。「あなたの神、【主】が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。(20:12)」「日々が長く続く」とは文字通り長寿を表しています。この当時、イスラエルでは長寿や出産、豊作や富といった幸いは神からの祝福と受け取っていました。特に長寿は祝福の象徴でした。つまり、子どもが親を敬い、親から信仰を受け継ぐ、すなわち主と呼ばれる神を唯一まことの神として信じ従えば祝福されるのです。言い換えれば、神と神の民とのあるべき関係を保てるから、長寿に代表される祝福が代々に続くのです。父と母を敬うのは単に良好な親子関係を築くためだけではなく、あくまでも神との正しい関係を維持するために、神はこのように命じるのです。人を大切にし、人に幸せになって欲しい、という神のあわれみがここにあります。
■おわりに
ところで、「父と母への敬い」は家族としての父と母に限りません。子どもの命と信仰を育てる人は家族以外にもいます。例えば、教会では小・中・高校生には彼らのお父さんやお母さん世代が親に相当し、大人にとってもその親に相当する兄弟姉妹がいます。数々の試練をくぐり抜けてきた年長者の持つ信仰と経験が次世代を担う者たちを育てるのです。
さらにこの戒めは、自分の関係する人々にも適用されます。神はこのように命じています。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは【主】である。(レビ記19:32)」親ではないけれども、親と同じように命を大事にしてくださり、神のみこころと同じモラルを教え指導してくださる方々が職場や地域におられます。年長者を敬うことで子どもたちは正しい道から逸れることなく、幸いな道を歩むことができます。
父と母は神に代わって命と信仰を育てる役割を担っています。同じように教会でも命と信仰を育てる年長者がいます。その方々への尊敬は神に従うことへとつながり、幸いな道を歩むことにつながるのです。そして、命と信仰がいつまでも続いてゆくのです。
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