■はじめに
イエスが地上に来られる前、神は律法や預言者を通して数多くの教えや戒め、導きをイスラエルの民に語りました。ただしイエスは「神が語ったすべては2つの戒めに含まれている」と語ります。それが「主を愛しなさい」と「人を愛しなさい」です(マタイ22:37-40)。興味深いことに、キリスト教では神だけでなく人を愛することも守るべき命令とされています。しかも、「愛しなさい」と命じられているように意識しなければできないことがらです。モーセに与えられた十戒においても第一から第五までは神に対しての戒めであり、第六から第十は他者に対する戒めとなっています。今日は、なぜ人に対する戒めがあるのかについてみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.神はご自身の代理者として人を造り、人が生きることを望み喜ぶ
第六から第十の戒めを見ると明らかなように、第六から第九までは行動や言葉のように他者が見て聞くことができます。一方、第十は自分の内側に生まれるものであり、本人しか分かりません。そこでこの宣教では第六から第九までを一つのまとまりとして扱って行きます。
・第6戒:殺してはならない
「殺してはならない。(20:13)」これが人に対する戒めの最初です。神は故意に人の命を奪うことを禁じています。なぜなら、神にとって人は特別な存在だからです。創世記1章を見ると、神は人以外のすべてを「~あれ」という命令で造りました。けれども人についてはこのように造りました。
・男:神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)
・女:神である【主】は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。神である【主】は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。(創世記2:21-22)
人は神のことばによって造られたのではなく、神ご自身が直接の作業で造りました。さらに神は人にすべての生き物を正しく管理するように命じました(創世記1:26-28)。つまり、神は地上におけるご自身の働きを人に委ねたのです。いわば人は神の代理人なのです。だから人の命を奪うのは神よりも自分を上に置いていることになるのです。しかも神は人のいのちについてこう語っています。「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18:23)」神は悪人のいのちを終わらせることもできるのに、たとえ悪人であっても悔い改めて生きることを喜びます。神は人が生きることを望んでおられ喜ぶのです。それゆえ、神が造り神の喜びである人を殺してはならないのです。
・第7戒:姦淫してはならない
姦淫とは夫婦が配偶者以外の者と肉体的関係を持つことです。最近は余り使われませんが「姦通/不貞」とも呼ばれます。神は夫と妻についてこう語ります。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。(創世記2:24)」ですから、姦淫は神の定めた正しい夫婦のあり方と家庭生活のあり方を破壊します。前回扱った「父と母を敬いなさい」の点から言えば、姦淫は自分を満足させることに心が向いていて、信仰の継承と命の継承への心が失われています。
・第8戒:盗んではならない
盗むとは、人が持っている物をその人からだまって奪うことを言います。金品や貴重品はもちろんのこと、当時は羊などの家畜も盗まれました。主の祈りに「私たちの日ごとの糧をお与えください」とあるように、私たちは生きるために食べ物や、着る物、住むところなどが必要です。突き詰めて言えば、人が物を持つのは生きてゆくためですから、盗みは最悪の場合人を死に至らせます。盗みもいのちに関わるから神は禁じるのです。
・第9戒:あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
「隣人」は友人のような関係が深い人であり、また「偽りの証言」は法廷における偽証を意味します。つまり、本来は助けるべきなのに、偽証によって罪に陥れる行為です。裁判における偽証は人の人生を狂わせるばかりか、場合によっては死に至らせます。さらに、偽証を「うそつき」という日常的なレベルまで広げたとしても、うそは人を困らせ、死に追いやることもあります。
第六から第九に共通しているのは、神が特別に造った人のいのちを大切にする、ということです。そして、第六から第九にかけて「いのちを直接左右する度合い」が薄くなっています。その反対に「犯したことがらの程度」は広がっています。例えば「いのちを奪う」ことには大きいも小さいもありませんが、盗みやウソは重大なものから軽いものまであります。人は神が造ったいのちを奪ってはいけません。けれども、どんな小さなウソも人のいのちに関わるから神は禁じるのです。
Ⅱ.欲望がすべての罪を生む
次に第十戒を見てみましょう。「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。 (20:17)」神は十番目の戒めで「欲する」ことを禁じています。
「欲する」には「切望する/むやみに欲しがる/欲求する」のように強く望む心を意味します。その様子が創世記に記されています。「神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく...(創世記2:9)」「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。(創世記3:6)」そして「好ましい」気持ちが取って食べるという行動を起こしました。ですから「欲しがる」とは行動に結びつく欲望を表しているのです。「あれいいな」のような単なるあこがれではありません。
その上で神は「隣人」すなわち「他人」の「家、奴隷、家畜」への欲求を禁じます。簡単に言えば、他の人が所有するすべての物を欲しがってはならないのです。さらに、これらには物質的なもの以外も含まれます。例えば、地位や名誉、知識、身体能力、技術など他の人に備わっているすべても禁じる対象に含まれます。
つまり自分には備わっていないものを手にしたい欲求を神は禁じるのです。なぜなら、その欲求が具体的な行動を起こさせるからです。そのことをヤコブはこう言います。「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブ1:14-15)」人は欲望を自制できなくなって、嘘、盗み、姦淫、殺人など実際の行動を取ってしまう弱さを持っています。主に従い通したと言われる、あのダビデでさえ欲望によって、バテ・シェバを手に入れたいばかりに彼女の夫ウリヤを死に追いやりました。欲しがったゆえに殺人と姦淫を犯したのです。つまり、第六から第九の戒めは十番目の戒めにかかっているのです。
「欲しがる」ことがウソ、盗み、姦淫はては殺人に人を至らせます。そしてこのことは個人同士だけではなく組織や民族、国家といった集団にも当てはまります。集団での争い、民族間の紛争、国家間の戦争もすべては第十の戒めにかかっているのです。すべての人が第十の戒めを守れば、個人の平安も世界の平和も実現できるのです。
■おわりに
人はどうして他人のものを欲しがるのでしょうか。それは、神ではないものに安心や喜びを見出し、持っていないことに不満や不安、恐れを抱くからです。あるいは何かを持っていることで人よりも優位に立ちたいというのもあるでしょう。
しかし神は我が子イエスのいのちを犠牲にするほどまでに、私たちを大切にし、たとえ悪人でさえもイエスを信じて生きて欲しいと願っておられます。その神であるイエスがともにおられるのですから、私たちは「これがない、あれがない」と不安になったり、「持っていない私は惨めだ」と思わなくていいのです。「自分の目には足りないと見えるけれども、神様がいてくださるから私は安心。神はご自身のご計画によって私に必要なものを与えてくださる。」このように愛とあわれみの神を完全に信頼すれば欲望は消え去り、殺人も姦淫も盗みも嘘も犯さないのです。
繰り返しになりますが、神は私たちを滅びから救うために、私たちの身代わりに我が子イエスを十字架にかけました。これほどまでに私たちを愛してくださる神を信頼し、神から安心を受け取れば、他者を傷つけることはありません。さらには、神によって満たされているから、自分ではなく他者に心が向くのです。
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