・はじめに
キリスト教では悪人と呼ばれる人も善人と呼ばれる人も、神からすれば正しくない者であり、永遠に苦しむ滅びに行かなくてはなりません。しかも、どんなに悪い人でもキリストを救い主と信じれば天の御国に入れますが、どんなに良い人でも生まれたままでは入れません。だから「キリスト教は理不尽だ。」と言われることがあります。けれども「私たちの目から見た判断と神との判断との違いがある」これがキリスト教ではたいへん大事なのです。今日はこの世界に生きている人間の行く先とイエスとの関わりを聖書に聞きます。
Ⅰ.この世の者は罪のために永遠の死へ行くが、イエスを神と信じる者はそれを免れる(8:21-24)
イエスはエルサレムの神殿で、ご自分の証言やさばきが正しいとユダヤ人に語りました。その中で、自分は父から遣わされて来たことを明らかにしています。ここでイエスは、自分がどこから何のために来たのかを語ります(21-22節)。
「派遣された者が去って行く」のですから、イエスはこの世での役割を果たしたら、父の所すなわち天に帰ります。ただし人はイエスの所へ行くことはできません。なぜなら、人は自らの罪によって罪の世界である地上で死ぬからです。ここでの死とは肉体の死に加えて滅びとも呼ばれる永遠の苦しみを言います。罪を持つ人は死亡が終わりではなく、たましいが永遠の苦しみに入るのです。
ユダヤ人たちは、イエスが人の行けない所へ去って行くと言ったので、この世ではない世界を真っ先に思いつき、自ら死に向かうのではと考えました。ここで彼らは「あなたがたは来ることができません。」に引っかかっていますが、「自分の罪の中で死ぬ」には目を向けていません。彼らは、律法と戒律をきちんと守れば神の国に入れると信じているので、「罪と死」には無関心なのです。
そこでイエスは「来ることができない」ことと「罪」との関わりを明らかにします(23-24節)。イエスの言う「下と上」は「下界と天界」を意味しています。ですから、下界すなわちこの世に生きている人間は例外なく罪を持っているので、罪が蔓延しているこの世で命が終わり、そして滅びに行きます。当然、だれ一人イエスが戻って行く天には入れません。ユダヤ人はイエスを自分たちと同じ人と見ていますが、イエスは人との決定的な違いをはっきりさせているのです。
ここでイエスは不思議なことばを言います。「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」この「わたしはある」は大変重要なことばです。と言うのも、神がモーセに「わたしは『わたしはある』という者である。」と語っているからです。つまりイエスが「わたしが『わたしはある』である」と言っているのは、「わたしは神だ」と宣言しているに等しいのです。当然、ユダヤ人は出エジプトのことを知っているので、イエスの神宣言に気づきます。
24節のイエスのことばはユダヤ人ひいては人にとって最も必要なことがらです。なぜなら、イエスを神と信じれば自分の罪の中で死ぬことにならないからです。「イエスを神と信じる」これこそが、滅びとも呼ばれる罪による死、永遠の苦しみを免れる唯一の方法です。ですから一生涯犯罪を犯さず善良に生きていても滅びに至り、どんなに悪事を働いてもイエスを信じれば滅びを免れて天の御国に入れるのです。
繰り返しになりますが、ユダヤ人は神から正しい者と認められて神の国に入ることを目指して、律法から生み出した膨大な戒律を必死になって守っていました。一方で、彼らはイエスを殺そうと企み、罠を仕掛けています。ここに罪があります。そんなユダヤ人に対してイエスは「どんなにきちんと戒律を守っても、人は罪があるから絶対に死ぬ。ただしわたしを神と信じれば死から免れる。」と教えるのです。放っておいても、強烈な罰を下してもよいのに、滅びから免れる救いの方法を語ります。これが神のあわれみです。
Ⅱ.イエスの十字架によって、この世の者はイエスが預言されたメシアであるとわかる(8:25-31)
イエスがご自身を「わたしはある」と口にしたので、ユダヤ人はイエスに言います(25-26節)。ここでも彼らは罪による死やそれを免れる方法には目もくれず、神を宣言したイエスの正体を知りたがっています。けれどもイエスが答えたように、旧約聖書全体においてイエスが救い主であることが記されています。だから、真理を見極めていれば「わたしが『わたしはある』である」を聞いて「イエスは私たちを救う神だ」とわかるのです。「あなたはだれなのですか。」のことばがユダヤ人の霊的盲目を示しています。
そんな彼らですから、イエスには説明したいことや非難したいことがたくさんあるのです。しかし、イエスはご自身をこの世に遣わした父なる神のみこころを最優先にします。自分がしゃべりたいことではなく、預言者のように神から託されたことばを語るのです。ヨハネが「彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。」と説明しているように、父である神がユダヤ人のためにイエスを代理人としてこの世に送りました。ユダヤ人はイエスという人物を知ろうとしていますが、それよりも何のために神はイエスをこの世に送ったのか、といういわば自分との関係に気づくべきなのです。
ただイエスもユダヤ人の霊的盲目を分かっているので、こう語ります(28節)。「あなたがたが人の子を上げたとき」はイエスの十字架刑を指しています。イエスが十字架で死んだ時、「神殿の幕が裂ける/聖なる人が墓からよみがえる/地が揺れて岩が裂ける」といった驚くべき現象が起こり、それを目撃した者たちは非常に恐れて「この方は本当に神の子であった」と告白しました(マタイ27:51-54)。ユダヤ人は神の民でありながら本来の歩みから外れてしまいました。イエスは彼らに語りたいことはいくらでもありますが、大切なのは十字架とよみがえりを通して「イエスが神であり、罪からの救い主である」と彼らが分かり信じることなのです。だから今、彼らに必要なことがらを語るのです。
ところで、イエスはこれまで神から託されたことばを語り、人知の及ばない不思議なわざをなしてきました。ここで初めて「あなたがたが人の子を上げたとき」とあるように人の手に落ちることを明らかにしています。それはあたかも神から見放されこの世に一人にされたように見えますがそうではありません。天に属する神の子がこの地上に遣わされ、しかも人によって十字架刑で殺される、これらはすべて人を罪の滅びから救うために父なる神がご計画したことでした。イエスは神のご計画をすべてその通りに行ったのです。決して父に捨てられてこの世で一人きりになったのではありません。29節はそのことを言っているのです。
さて、イエスのこれらの話を聞いてユダヤ人はイエスを信じました(30節)。ただ、信じたというのは、罪による滅びを救う救い主と信じたのではありません。イエスの不思議なわざや威厳のある語り方によって、イエスという人に信頼を置いたのです。ことばを加えるならば、「自分にとって絶対に必要なお方」と信じたのではありません。この後の問答や逮捕から十字架に至る経緯を見れば明らかです。
「あなたがたが人の子を上げたとき」とあるように「イエスの十字架」は間違いなく人の判断、人の仕業によります。けれどもそれは「イエスが人の罪を代わりに担う」という神のご計画の実現です。ユダヤ人にしてみれば待ちに待ったメシアの到来なのです。ところが彼らは「戒律を守る」いわば行いによって神の国に入れると信じていたから、人の罪や罪のもたらす滅びに無関心でした。それゆえ、イエスを神と信じれば滅びを免れることも分からないのです。福音は真っ先にユダヤ人に語られているのに、彼らはすばらしいチャンスを見逃していると言えます。
・おわりに
私たちは社会科の宗教や世界史を学ぶ中でイエスが実在の人物であると理解しています。イエスの誕生に基づく西暦が全世界で用いられているのも実在の証拠です。さらに歴史に加えて絵画や彫像、音楽など芸術などによってイエスが十字架刑で死んだことも知っています。けれどもそのイエスが自分と関わっていること、もっと言うならば、イエスは自分にとって最も必要な方とはわかりません。たとえイエスについて研究しても気づかないでしょう。なぜなら、ユダヤ人と同じように自分の中にある罪と罪の罰である滅びに目が開かれなければ、イエスに必要はないからです。
神は人を善いものとしてお造りになりました。しかし、最初の人アダムが神に背く罪を持ったため、アダムから始まる人間すべてが罪を持っています。神からすればひと思いに滅ぼしてもよいのです。けれども神は人を大切にするが故に、我が子イエスをこの世に遣わし、私たちの代わりに十字架という罰をイエスにお与えになりました。この世に来る必要のない方が来られて、そして死ぬ必要がないのに死んだゆえに、死ぬべき私たちが天の御国で永遠に生きるのです。だからイエスは私たちにとってなくてはならないお方なのです。
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