2月23日「八つの幻⑤~金の燭台とオリーブの木~」(ゼカリヤ書4章1-14節)
- 木村太
- 2月23日
- 読了時間: 8分
■はじめに
以前、あるイベントの準備中、プロジェクターから映像が出なくなりました。私はすぐにパソコンや配線などを調べようとしたのですが、その前に、ある牧師が「主が解決してくださるように」と祈りました。私たちは何か問題があるとすぐに、状況を確認して取れる手段を考えるものです。そのこと自体はとても大切です。ただ、どんな中でもキリストがともにいてくださり、キリストが神にこの状況をとりなしている、と神に委ねるのはもっと大切です。牧師の祈りはそのことを私に気づかせてくれました。今日は、金の燭台の幻を通して、私たち自身が主の栄光を表すためにはどうすればよいのか、ということをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.ゼルバベルの監督の下で主の介入によって神の国が復興し、神の民が主の栄光を輝かす(4:1-7)
主は4つ目の幻を通して、大祭司ヨシュアの役割をゼカリヤに示しました。それは、ヨシュアがお手本となってイスラエルの民が聖さを保ち、エルサレムを神の都として再建すること、そしてメシアによる神の国の完成を証しすることです。いわば、神の国イスラエルの復興における信仰面をヨシュアに委ねたのです。それに続いて、ゼカリヤは新しい幻を見ます。
「私と話していた御使い」いわゆる伝令役の御使いは、測り綱の幻のときにどこかへ出てゆきましたが、新しい幻を告げるためにまた戻って来ました(1節)。御使いはゼカリヤが何を見ているのかを尋ね、ゼカリヤはそれに答えました(2-3節)。
燭台はともしび皿(オイルランプ)を乗せるための台です。この皿にオリーブ油がある限りともしびは消えません。ただしここでの燭台は一般的なものではありません。というのも、幕屋を作る際に神がモーセにこの構成を指示し、聖所に置くことを命じた燭台と同じだからです(出エジプト25:31-39)。また、金は永遠に不変や最高の輝きを、七は完全を表し、しかも聖所に置かれます。それゆえ、大祭司か被るターバンと同様、この燭台は神の臨在や神の栄光を象徴するのです。ここで「その鉢の上には七つのともしび皿があり(2節)」とありますが、これ以降の内容では鉢から管を通して油がともしび皿に注がれるので、「その燭台の上には七つのともしび皿があり」の解釈がふさわしいでしょう。
神殿では祭司がこの燭台を担当しますから、祭司の家系であるゼカリヤは燭台を知っています。しかし、オリーブの木(3節)を含めた幻全体が何を意味しているのかは分かりませんでした。それで、ゼカリヤは御使いに幻を尋ねました(4節)。それに対して御使いは「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。(5節)」ということばで、ゼカリヤが知っておくべきことだと示した上で解説します。
「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。(6節)」とあるように、この幻はゼルバベルに関わることであり、『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって(6節)』を意味している、と御使いは答えます。ゼルバベルはバビロニアからエルサレムに戻って来た民のリーダーであり、エルサレムにおける総督の立場にありました。当然、彼が神殿再建を含めたエルサレムの復興を指揮します。しかし、ゼルバベルの前には「大いなる山(7節)」すなわち大変な困難がありました。神殿建設においてソロモンのときには父ダビデが準備を整えていましたが、今はまったくないどころか、壊された神殿ががれきの山となっています。それに加えて敵対者の妨害もあります。
こういった困難に対して、指導者は「権力や能力」に頼ります。「権力と能力」は似たようなことばですが、強いて言うならば「権力は物質的・経済的・軍事的な力」であり、「能力は個人の生産力や指導力」と言えます。ですから、人は目に見える世の中のものに頼り、それによってできるかどうか、あるいは困難を超えられるかどうかを判断するのです。
けれども万軍の主は「わたしの霊によって」と命じます。「わたしの霊」とあるように、主の息が吹き込むごとく、ゼルバベルが担っているものごとに主が介入します。大いなる山のような困難も真っ平らに取り除かれます。建築の完了を意味する「かしら石」をゼルバベルが置くとき、「主が恵みによって完成した」と民衆全員が大喜びします(7節)。つまり、ゼルバベルの監督の下で、エルサレム神殿の再建を含めて主が神の国の復興を成し遂げる、と幻が伝えているのです。それゆえ「全幅の信頼を置くべきはこの世のものではなく、主に置きなさい」とゼルバベルに命じるのです。
7つのともしび皿を持つ金の燭台が象徴しているように、神の国の復興により主の臨在するエルサレムから主の栄光が再び輝きます。エルサレムを都とする神の国イスラエルが燭台となって全地に主の偉大さを輝やかせるのです。それを主に信頼しながら進めるのがゼルバベルの役割なのです。現代の私たちで言えば、私たち一人一人がともしび皿となって、主の栄光を世の中に知らせます。ただし、それをなさせるのは私たちの力ではなく、主の働きによるのです。
Ⅱ.主がゼルバベルと大祭司ヨシュアを通して、神の民に主の霊を注ぐ(4:8-14)
主はゼルバベルについて御使いを通してさらに語ります。エルサレム神殿の再建開始から完成までゼルバベルが重り縄を使って測量し、監督しながら工事の指揮を執ります(9節)。ただし、「その日を小さなこととして蔑むのか。(10節)」とあるように、国が亡ぶ前の神殿に比べて、今建てようとしている神殿はあまりにもみすぼらしいと嘆いている民がいました。しかし、「これら七つは、全地を行き巡る【主】の目である。(10節)」とあるように、7つのともしびが照らすごとく主が全地のすべてをご覧になり、すべてをご支配している中で、神殿再建が進み神の国が復興して行きます。注目すべきは、神殿の大きさや豪華さではなく、ゼルバベルを通して主がどんな困難な中でも神殿を完成に導くことなのです。つまり、主がゼルバベルを任命して復興することを主ご自身が証明しているのです。
さてここでゼカリヤが再び御使いに尋ねます。ゼカリヤは祭司として7つのともしび皿を持つ金の燭台を知っていました。しかし、オリーブの木の枝から金の油が金の管を通って鉢に注がれ、鉢からともしび皿に油が供給される仕組みが、いったい何を意味しているのかは全く分かっていませんでした(11-12節)。この幻における疑問の核心と言えます。
それに御使いが答えます(13-14節)。当時のユダヤ人にとって、油注がれた者が大祭司、王、預言者を指しているのは明白です(14節)。ただここでは「二人の油注がれた者」と告げられています。これまでの幻からすれば、この二人は大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルと言えます。しかも、この二人は全地の主のそばに立っています(14節)。直訳では「全地の主の上に立つ」なので、木が大地から養分を受け取るように、ヨシュアとゼルバベルが主から力を受けるのです。つまり、ヨシュアとゼルバベルが主のみこころを受けて、主の代理としてこの世の働きをなします。当然、ヨシュアは信仰面、ゼルバベルは行政面において主の働きをなすのです。そして、主からのことばを取り次いで二人を支え、指示を与えるのが預言者ゼカリヤの役目なのです。2本のオリーブの木それぞれからの枝が鉢に油を注ぎ出しているように、ヨシュアとゼルバベルがともしび皿のための油、すなわち主の霊を注ぎます。神と神の民との間を彼らが仲介して、神の民一人一人が輝くために主の霊を注ぐのです。
エルサレムに戻った彼らの父祖たちは神に背き続けました。その結果、神は罰としてエルサレム神殿をはじめとする都を破壊し、王国を滅ぼし、人々を敵国に散らしました。神の栄光を輝かせるものはすべて失われたのです。ところが今や、主なる神はあわれみによって彼らの罰を終了しました。大祭司ヨシュアが汚れた服を脱がされ、大祭司の礼服を着させられた幻がそのことを象徴しています。言い換えれば、神と神の民との関係が元通りになったのです。それゆえ、主は散らされていた民をエルサレムに戻し、神殿再建を中心として神の国を復興するのです。再び、神の民一人一人が神の栄光を表す存在となり、その集まりであるエルサレムから金の燭台のごとく神の偉大さが世界中に照り輝くのです。「主なる神がヨシュアとゼルバベルを用いて、神殿再建をはじめとして神の国を復興する。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』のごとく、主からの力によって成し遂げられる。」そのことをこの幻がゼカリヤに教えているのです。
■おわりに
さて、この幻をこんにちの私たちに適用しましょう。すでにご存じの方もいると思いますが「油注がれた者」をヘブル語で「メシア」、ギリシア語で「キリスト」と言います。ですから、十字架で死んでよみがえったユダヤ人イエスが油注がれた者なのです。また、キリストはクリスチャンと神との間をとりなす大祭司、この世を治める王、救いを告げ知らせる預言者の働きを担っています。さらに、キリストを通して聖霊が父なる神からクリスチャン一人一人に注がれています。これらのことから、今回の幻は次のようになります。
・金の燭台:神の国→教会(クリスチャンの集まり)
・ともしび皿:イスラエルの民→クリスチャン
・金の油:主の霊→聖霊
・鉢と7つの管:主の霊が注がれていること→聖霊が注がれてること
・オリーブの木(枝):ヨシュアとゼルバベル→イエス・キリスト
私たちにとって最も大切なことは、神の栄光すなわち神の存在とすばらしさを私たち自身がこの世界に輝かせることです。そのために私たちにキリストを通して聖霊が注がれています。それゆえ『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』とあるように、すべきことを尽くしたその先は主の働きに委ねるのです。私たちが手にしている力だけに頼るのではありません。金の油である聖霊が注がれたとき私たちは「ことをなしてくださるのは主」という信頼と安心が湧きあがります。そして、様々な状況から成功や失敗といった結果を重んじるのではなく、「主の栄光を輝かす」という目的を重んじるようになるのです。
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