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木村太

2月26日 「よりすぐれた新しい契約」(ヘブル人への手紙8章7-13節)

■はじめに

 今から約1年半前、私は長年使っていたガラケーからスマホに換えました。スマホを手にして一番戸惑ったのは電話のかけ方でした。どのガラケーにも必ずあった「番号、発信・受話、通話終了」といったボタンがないからです。おそらく、Z世代のように最初に手にした携帯電話がスマホだったらそんなことにはならないと思います。話が飛躍するかもしれませんが、ユダヤ人にとって律法とキリストは「長年のガラケーからスマホに換えた人」に少し似てると言えます。これまでは神から義と認められるために律法を厳格に守っていたのに、キリストを救い主と信じるだけでいいとなるのですから、戸惑いや疑問が出るのも当然です。それで、この手紙の著者はキリストによる救いの方がはるかに良いものと詳しく説明するのです。今日は、初めの契約いわゆる旧約と第二の新しい契約いわゆる新約との違いをみことばに聞きます。


■本論

Ⅰ.イスラエルの民は律法という初めの契約を守れなかった(8:7-9)

 手紙の著者は、「ユダ族のキリストが大祭司なのだから、律法という契約は終わって新しい契約になり(7:12,18,8:6)、新しい契約の方がすぐれている」と語りました。そして、ここから著者はどれほどすぐれているのかを解説してゆくのですが、その前にまずなぜ神が新しい契約を結んだのかを明らかにします。


 7節「初めの契約」とは「主のことばすなわち律法を守れば祝福、背けばのろいという約束を、神と民の双方が守ることに同意すること」を意味します。一方、第二の契約(7節)とも言われている新しい契約とは「キリストを救い主と信じれば罪が赦されて天の御国で永遠に生きるという約束を、神と人の双方が守ることに同意すること」を意味します。私たちが馴染んでいる言い方をするならば、初めの契約が旧約、第二の契約が新約です。そして、契約を結んだことによって神と神の民の関係になります。


 著者は第二の契約が必要になったのは初めの契約に欠けがあったから、と言います(7節)。これは律法に欠点があったという意味ではありません。パウロが言うように、律法は人の罪を明らかにするけれども、人の罪を完全に赦す役割を持っていません。つまり、人を救うという契約においては完全ではないから、第二の契約が必要なのです。ここに、人を滅びから救いたい神のみこころを見て取れます。


 ここで著者は第二の契約が必要になった理由をこう言います(8-9節)。8-12節にかけて著者は預言者エレミヤのことばを引用しています(エレミヤ31:31-34)。この箇所で「主のことば」が3度使われているように、第二の契約すなわち新しい契約を結んだのは人から出たのではなく神からであることがわかります。


 主である神は「イスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる(8節)」とあるように、神の民と新しい契約を結びます。ここで使われている「新しい」ということばは「全く違うもの」を意味します。ですから新しい契約は、エジプト脱出後に結んだ律法による約束とは全く異なる契約なのです。アップデートとかバージョンアップのように元のものに手を加えるようなものではないのです。


 ところで8-9節を見ると矛盾している内容に気づきます。「神は人々の欠けを責めて/彼らはわたしの契約にとどまらなかったので」とあるように、イスラエルの民はエジプトから解放した神に忠実ではなく、神に背きました。それで「わたしも彼らを顧みなかった。」とあるように、北王国イスラエルはアッシリアに、南王国ユダはバビロニアに滅ぼされました。この事実は契約どおりですけれども、不思議なことに神は新しい契約を結ぶのです。神に背いた者は滅んでもいいのにそうしないのです。


 ここに人を大切にする神のあわれみが現れています。エジプト脱出を振り返ると、イスラエルの民は奴隷のうめきや苦しみを神に叫び、それに神は応えて10の災いと海を割いて彼らを奴隷から解放しました。けれどもイスラエルの民は自分を解放してくださった神に背くのです。神からすれば、助けたのに忠実でない彼らに罰を下し、放っておいてもいいはずです。しかし、神は新しい契約を結ばれます。言うなればあわれみの上にあわれみをかけているのです。この神が読者であるユダヤ人クリスチャンにも私たちにもおられます。このことを私たちは忘れてはなりません。


Ⅱ.神はキリストという新しい契約を結び、その人の罪を赦す(8:10-13)

 著者は新しい契約が神から出たことを明らかにした上で、初めの契約との違いを語ります。


 10節「これらの日の後に」とあるように、神はイスラエル民族の国が滅んだ後、新しい契約を結びました。先ほど、「新しい契約」について「全く違うもの」と申しましたとおり、10節を見ると初めの契約とは全く違う仕方で契約を結んでいます。大きく2つの特徴があります。


①神が直接人に与える

 初めの契約では、神はモーセという代表者を通してイスラエルの民に律法を与えました。また、その後の時代でも神はヨシュアやダビデといったリーダー、あるいはエリヤやイザヤのような預言者に語り、彼らが人々に神のことばを伝えました。しかし、新しい契約では神が直接一人一人に「わたしの律法」を与えます。ですから、新しい契約の時代には神から神のことばを直接取り次ぐ者は必要ありません。また11節「小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。」とあるように、民族や地位や性別といった垣根はありません。すべての人間が対象です。


②神は心にご自身の律法を置く

 初めの契約においては律法を人に伝えなくてはなりません。それゆえ神が石版に文字を書いたように、文書や口伝で神のことばを人から人へ、あるいは親から子へ伝えてゆきます。ところが、新しい契約では神が人の思いの中に置き、心に書き記します。「思いの中/心」とは、人を突き動かす力のあるところであり、自分の考えで左右できないところです。だから11節のように仲間や兄弟から教えられる必要はありません。


 新しい契約では、神は直接人に関わり、わたしの律法を思いの中に置き、心に書き記します。初めの契約において律法は祝福を受けるためのものですから、それと同じように、新しい契約でも「わたしの律法」は祝福を受けるためのもの、すなわち「キリストを信じることによる救い」です。つまり、新しい契約においては神は「キリストを救い主と信じる信仰」を人の最も奥深い所に書き記すのです。言い換えれば、神が「キリストを信じる者」に新しくしたのです。さらに言うならば、律法の場合は知識として蓄えられますから自分の考えで律法に従ったり、反抗できます。しかし、新しい契約では自分の考えが及ばないところに書き記していますから、「キリストを信じること」に反抗できません。


 なぜ神は初めの契約さえ守れない者にこのような新しい契約を与えたのでしょうか。その理由が12節です。人は自分自身の力で罪をなくし、正しい者にはなれません。だから滅びるしかないのです。けれども神はそのような者をかわいそうに思い、罪を思い起こさないようにします。「罪を思い起こさない(12節)」とは罪がない者として認めることです。ただし、神は不義や罪を見逃したり、見落としたりするお方ではありません。ですから、何らかの手段を取らなければ思い起こさないにはなりません。


 ここに、なだめのいけにえであるキリストが必要なのです。まったく罪のない、完全に正しい(義)キリストが人の受けるべき怒りをお受けになりました。それが十字架での死です。神はあわれみによってご自身の子イエス・キリストをいけにえとしてささげたのです。しかも、人の方から「キリストを信じますから滅びから救ってください」と申し出たのではありません。神がキリストを救い主と信じる信仰を人の心に書き記し、滅びから救って天の御国での永遠のいのちを与えてくださったのです。神のあわれみは本当に計り知れません。


■おわりに

 13節にあるように、いまやキリストによる新しい契約が結ばれ、律法による初めの契約は廃棄されました。読者であるユダヤ人クリスチャンはキリストを信じたゆえの迫害が収まらないので、律法を守って祝福を得る方向に魅力を感じています。しかし、彼らの父祖に与えられた初めの契約は古くなり、何の効果もないのです。けれども心配は不要です。クリスチャンは神によってキリストを信じる者に変えられ、キリストから不思議な平安を受け取れるようになっているからです。


 今を生きる私たちも苦しさから逃れるために何かをやったり、すがったりするのではなく、まず人知の及ばない神のあわれみが注がれていることに気づきましょう。そして、大祭司キリストのとりなしによる神からの平安に期待しましょう。

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