■はじめに
もし、私を知っている方々に「木村はどんな人物か」を尋ねたら、いろんな答えが返ってくるでしょう。親であれば「息子」、学生時代の友人であれば「同級生/同窓生」、教会に関わる方々であれば「三笠教会の牧師」となるでしょう。犬仲間であれば「ニッキのお父さん」、近所の小学生であれば「教会のおじさん」、教え子であれば「元高専の先生」と答えるでしょう。どれも正しいのですが、いずれも私の一部分です。おそらく妻がもっとも詳しく答えられると思います。私たちは知り得る範囲以内でしか、人や物を理解できません。神についても同じことが言えます。今日は十戒の第二戒を通して「なぜ、私たちは神を形にしてはいけないのか」をみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.神はどんな偶像を造ることも崇めることも禁止する(20:4-5前半)
神はイスラエルの民に「天地万物を造られた神すなわちアブラハム・イサク・ヤコブの神」以外を神としてはならない、と最初に命じました。その次に神は「偶像を造ってはならない」を命じました。この第二戒は2つの部分に分けられます。一つは4節から5節前半までで、「造ってはならない。拝んではならない。仕えてはならない。」という禁止命令です。もう一つは5節後半から6節までで、ここには「なぜ禁ずるのか」という禁止の理由が記されています。まず、前半の禁止命令から見てゆきます。
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。(20:4-5前半)」
一見すると、「ほかの神々があってはならない」という第一戒に似ていますが、そうではありません。2番目の戒めは、「唯一まことの神だけを神とする」それを土台として「まことの神をどんな形にも造ってはいけない」と命じています。ここで「上の天、下の地、地の下の水の中」とは、空中、地上、水中に存在するものを含めて、ある形を持っているもの全てを指します。例えば、太陽や海、動物や植物は偶像の典型ですけれども、ギリシャ神話の神々や七福神のような架空の存在も含まれます。いわば、神を五感(視・聴・嗅・味・触)で表現できる何かに造るのを、禁じているのです。
人は五感を通して、そこに何かがあることを分かります。ただし、そこに「ある/いる」と分かっていれば、実際に見たり触ったりするのを必要としません。神はモーセに「わたしはあるという者である。」とご自身のことを伝え、それをイスラエルの民に告げるように命じました(出エジプト3:14)。つまり、神は「どこにでもいるお方」だと言っているのです。ですから、神のことばを信じているならば、見えなくても「神はおられる」と分かるのです。
でもイスラエルの民も含めて人は五感を通して神がいることを感じたいのです。違う言い方をするならば、「わたしはある」と言う神のことばよりも「五感を通して神の存在を確かなものとしたい」という自分の気持ちを優先しているのです。だから、目に見え、耳に聞こえ、手で触れるものを神として造り、そこから安心を得たり、自制するために使ったり、希望を抱いたりするのです。「神はどこにでもいることは分かっている。けれども、やはり目に見える形としてあった方が安心できる。」これは自分の気持ちを優先するという罪の結果ですけれども、人の本質と言えます。
ところで霊なる神すなわち見たり触ったりできないお方を、ある形に表すにはどうするでしょうか。詩篇にあるように詩人は神のことを岩、やぐら、盾、万軍の主などと呼んでいます。つまり人は形のない神をある形として表現するとき、「神の特徴や性質を有するこの世の何か」に置き換えるのです。ただしそれは、私たち人が知り得る範囲、いわば神の一面を切り取ったものに過ぎません。ですから「偶像」ということばが「似たもの」を意味するごとく、人が造る神の形はまさしく似たものなのです。「自分のために」とあるように、人は自分の気持ちを満たすために神の一側面を切り取って、何かの形で表すのです。
そしてその通り、イスラエルの民は十戒が与えられた直後、この戒めを破ってしまいました。彼らは、モーセがシナイ山からなかなか戻って来ないので不安になり、金の子牛を造って神として拝み、仕えました(出エジプト32:1-6)。「わたしはある」と言う神のことばよりも「神を形として安心したい」という欲望が勝ったのです。しかも、「子牛」という異教において神の力を象徴する偶像を神としました。いくら「私は神を崇め、仕えています。」と主張したとしても、神とは全く違う何かを自分で神としているのです。すなわちそれは、唯一まことの神ではない神を崇めているのであり、第一の戒めに反するのです。見たり、聞いたり、触ったりできなくとも、「わたしはあるという者である。」のとおり、「神はいつでもどこでもおられる」これを信じることが大事なのです。
Ⅱ.神は咎によって人が罪を悔い改め、神に従って永遠の恵みを受けることを望んでいる (20:5後半-6)
次に第二戒の後半を見ましょう。
「...あなたの神、【主】であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(20:5後半-6)」
6節最後に「からである。」とあるように、神は偶像崇拝を禁じる理由を明らかにしています。同時にこれは戒めを守った結果と破った結果でもありますから、戒めを与えられた者にとってこのことばは「戒めを守る動機」にもなっています。
まず神はご自身を「ねたみの神」と呼んでいます。神は奴隷に苦しむイスラエルの民をあわれんで、アブラハムとの契約に基づいて彼らをエジプトから救い出しました。神は誠実を尽くしています。それゆえ、イスラエルの民は助けてくださった神に従うと約束します。その際、神は彼らが守り従うことがらを律法というもので与えました。ここで、イスラエルの民が唯一まことの神ではない神々を崇めたとき、神は「ご自身よりも他の神々を重んじたり、魅力を感じたこと」に怒ります。これが神のねたみです。「こんなに愛し、大切にしているのに、どうして他の神を愛するのか」という気持ちを神は持つのです。そしてその者を神は「わたしを憎む者」と見なします。
それで神はねたむ気持ちによって行動に出ます。それが「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、...」です。これを読んで、「自分の罪の結果が孫やひ孫まで及ぶとは。神は厳しい。」と思う方もいるかもしれませんが、ここでの三代、四代は文字通り孫やひ孫を指すのではありません。三代、四代とは罪の継続性と罪による苦難が長期にわたることを意味しています。第五戒「父と母を敬え」で触れますが、イスラエル民族では父親は神の代理として子どもを正しい道に導く役割があります。ですから、親が偶像を崇めていたら子どももそうなりやすいのです。また、戦争や環境汚染、不品行などは子や孫の代まで苦痛が続きます。
しかしもし、子どもが父の罪を見て反省し神に従ったら、神は子に父の咎を負わせません。エゼキエル書で神はこう語っています。「ただし、彼が子を生み、その子が父の行ったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行わない場合には... あなたがたは『なぜ、その子は父の咎を負わなくてよいのか』と言う。その子は、公正と義を行い、わたしのすべての掟を守り行ったのだから、必ず生きる。(エゼキエル18:14,19)」罪を認め、悔い改めた者を神は罰しません。だから「三代、四代にまで」のことばを通して、偶像崇拝は代々継続しやすいことを神は警告しているのです。
一方、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」と神は言われます。この「千代」とはとてつもなく長い期間、すなわち永遠を意味します。咎に対して恵みは比較にならないほど長いのです。これがねたむ神、激しく人を愛する神の姿です。神は決して罪の道を薦めてはいません。エゼキエル18:23「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。」と神は言います。神を形にせず、ほかの神々を崇めることなく、霊であるまことの神に仕えること、すなわち神の命令であるみことばに従えば、必ずその人は栄えるのです。そして、神の恵みは代々限りなく続くのです。神はご自身のわざによってイスラエルの民を救い出し、その上、戒めを守ったら永遠に恵みを与えます。ここに人知をはるかに越えた神の愛が示されています。だから、神の戒めを守ろうとするのです。
■おわりに
主なる神は目に見えないお方です。私たちにそのお姿を現すこともなさいません。また、救い主イエスも今は天におられて、見たり触ったりできる形でこの地上にはおられません。でも、私たちは神がいつもそばにいてくださることを確信しています。それは、神の御子イエスがインマヌエル(神は私たちとともにおられる)なるお方であり(マタイ1:23)、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と言われるお方だからです。パウロのことばを借りるならば、私たちはイエス・キリストと一つにされているのです。だから神やイエスや聖霊を形にしなくても私たちは安心でき、いつでもどこでも「主よ」と祈ることができるのです。
Comments